第3話 予定通りでは見つからないもの
共同事業が始まって二週間。リディアは一つだけ確信していた。カイル・ヴァレンティアという人は、本当に予定通りに動かない。
「会頭でしたら、先ほど市場へ向かわれました」
朝一番で商会を訪れると、受付の女性が慣れた様子で答えた。
「市場へ?」
「新しい香辛料が入ったそうで」
「ですが、今日は午前中に打ち合わせの予定では……」
「午後へ変更になりました。先ほど使いの者を侯爵家へ向かわせたところです」
昨日確認した予定表には、確かに午前と書いてあった。それでも商会員たちは誰一人慌てず、それぞれの仕事を進めている。
「会頭がこのように予定を変えて、皆さん大変ではありませんか?」
受付の女性はくすりと笑った。
「大変ですよ」
「やはり」
「ですが、会頭が急に動く時は、だいたい理由がありますから」
「理由?」
「商機だったり、新しい取引先だったり。予定を変えた分の仕事は、きちんと後で片づけますし。振り回されることもありますけれど、無責任に放り出すことはありません。だから皆、文句を言いながらついていくんです」
その言葉には、不満よりも信頼が滲んでいた。予定を変えることと、仕事を疎かにすることは同じではないらしい。
* * *
午後、応接室へ姿を現したカイルは、朝から市場を歩き回っていたとは思えないほど機嫌が良さそうだった。
「見つかりましたよ」
「何がですか?」
「今まで扱ったことのない香辛料です」
「……それで予定を変更なさったのですか?」
「はい」
悪びれる様子はまるでない。
「今日でなければならなかったのでしょうか」
「今日でなければ駄目でした」
予想外に真面目な声だった。
「西方から入ったばかりの品で、まだ扱っている店が一軒しかありません。量も少ない。夕方には他の商会が買い付ける可能性がありました」
「それで、ご自分で?」
「現物を見たかったんです。品質が分からないものを、珍しいという理由だけで買うわけにはいきませんから」
カイルは小さな包みを机へ置いた。中には見慣れない赤褐色の香辛料が入っている。
「それに、今回の共同事業で扱う食品との相性も良さそうです」
「共同事業にも?」
「ええ。使えるかどうかは、これから試しますけどね」
思いつきだけで市場へ飛び出したわけではない。機会を逃さないために予定を変え、自分の目で確かめ、その先まで考えている。
「……困った方だと思っていました」
「過去形ですか?」
「現在進行形です」
「残念です」
カイルが笑う。
「ですが……理由は、分かりました」
「それは良かった。では、始めましょうか」
「はい」
リディアも資料を開いた。カイルは理由を話したあとは、自分の考えを押しつけない。その距離の取り方が、リディアには心地よかった。
「候補地は三か所です。収穫量、輸送費、利益率を考慮すると、こちらが最も安定しています」
数字の上では申し分ない。カイルは資料と地図を見比べ、やがて候補にも入っていない小さな村を指した。
「悪くありません。ただ、もう一か所見てみたいですね」
「ここですか? そこは生産量が少ないはずです」
「そうですね」
「流通も整っていません」
「その通りです」
「でしたら、なぜ?」
「ここだけ、数字の割に王都でほとんど商品を見かけないんです」
「売れるものがないからでは?」
「その可能性もあります。ですが、逆かもしれません」
「逆?」
「いいものがあっても、王都まで運ぶ手段がないのかもしれない」
リディアは地図へ視線を戻した。数字が小さいから候補から外した。けれど、なぜ小さいのかまでは調べていない。
「確かめに行きませんか?」
「私もですか?」
「もちろん。共同事業でしょう? 資料を作った人には、資料の外側も見ていただかないと」
「……それは、少し意地悪ではありませんか?」
「そうですか?」
「そうです」
即答すると、カイルが楽しそうに笑った。以前なら、こんな言い方はしなかっただろう。それでも、不思議と後悔はしなかった。
* * *
数日後、二人は王都から馬車で半日ほどの小さな農村を訪れていた。畑には、見慣れない紅い果実がいくつも実っている。
「これは……」
「この村だけで育つ『ルビー・ロッサ』です」
村人が誇らしげに説明する。
「切ると果肉まで紅いんですよ。日持ちしないので、王都へ持っていくのが難しくて」
「なるほど」
カイルの目つきが変わり、すぐに収穫時期や量、保存できる日数を尋ね始める。リディアも手帳を取り出した。
「収穫から二日ですか?」
「ええ。三日目には味が落ちます」
「でしたら、その日のうちに中継地点まで運べれば……」
王都まで直接運ぶのは難しい。けれど、前回使ったクロフォード家の倉庫を経由すれば、翌日の昼には届けられるかもしれない。
「カイル様。以前使った中継倉庫を、ここでも利用できませんか?」
「私も今、同じことを考えていました」
カイルの顔に笑みが浮かぶ。
「試算してみる価値はありそうですね」
「はい」
リディアはすぐに手帳へ書き込んだ。以前なら、すべて調べてからでなければ意見を出さなかっただろう。けれど今は、まだ確実でなくても思いついたことを口にできた。
「まず食べてみますか?」
村人から差し出された果実を一口かじる。爽やかな酸味のあとから、花の蜜を思わせる優しい甘さが広がった。
「……おいしい」
村人の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。その一言が一番嬉しいんです」
「でしょう?」
なぜか隣でカイルまで得意そうな顔をしている。
「まるでご自分が育てたようなお顔ですね」
「気持ちは半分、生産者ですから」
「今、初めて食べたのでは?」
「気持ちの問題です」
真顔で返され、リディアは笑ってしまった。
「ふふ……何ですか、それ」
「笑いましたね」
「笑ってはいけませんか?」
「いいえ。むしろ、もっと笑ってください」
さらりと言われ、リディアは一瞬返事に詰まる。けれどカイルは何でもないことのように村人へ向き直り、保存方法を尋ね始めた。
畑をひと通り見て回ったあと、二人は果樹園の端で足を止めた。風が葉を揺らし、甘い香りが漂ってくる。
「資料には載っていませんでした」
「だから来たんです」
カイルは赤い実のなる枝へ手を伸ばした。
「数字は大切です。私も最後は必ず数字を見ます。でも、数字だけでは分からないこともある。どうして売れていないのか、生産量が少ないのか。その理由までは、表を眺めているだけでは分からないことがあります」
リディアは辺りを見回した。果実の香り、村人たちの声、丁寧に手入れされた畑。資料には書かれていなかったものばかりだ。
「……悔しいですが」
「はい?」
「来て良かったと思います」
「でしょう?」
「その得意そうなお顔がなければ、もう少し素直に認められるのですが」
「では、見ないことにしてください」
「無理です」
また笑ってしまった。けれど今度は、そんな自分に驚かなかった。
* * *
帰り際、馬車へ乗ろうとしたリディアの靴先が小さな石へ引っ掛かった。
「あ……」
「危ない」
体勢を崩しかけた腕を、カイルがすぐに支える。
「ありがとうございます」
「大丈夫ですか?」
「はい。少し躓いただけです」
「それなら良かった」
リディアが姿勢を戻すと、カイルは自然に手を離した。それだけのことなのに、リディアは一瞬、自分の腕に残った感触を意識してしまう。
「リディア様?」
「……今、参ります」
顔を上げ、馬車へ乗り込んだ。
* * *
帰りの馬車の中、リディアは膝の上の資料へ視線を落とした。そこには、今日見たものの多くが書かれていない。果実の甘い香り。村人たちの笑顔。そして、その場で考えた中継倉庫を使うという案。実現できるかは、まだ分からない。
「カイル様」
「はい?」
「次の打ち合わせまでに、今日の案を試算してみます」
「お願いします」
「駄目でしたら、別の方法を考えます」
「ええ」
カイルは、それだけ答えた。
以前なら、「失敗しない案」を探しただろう。けれど今は、まず確かめてみようと思える。その違いが、少し嬉しかった。
窓の外では、遠ざかっていく村の畑が夕暮れの光に染まっている。資料を見ているだけでは、今日の景色を知ることはなかった。
きっと、まだ知らないことはたくさんある。それなら、少しずつ見に行けばいい。
リディアは膝の上の資料を開き、今日気付いたことを書き加えた。
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