第2話 最も信用できない男
三日後。リディアはヴァレンティア商会を訪れていた。
王都の中心部に建つ大きな石造りの建物は、侯爵家の屋敷とはまるで空気が違う。荷物を運ぶ者、商談を交わす者、帳簿を抱えて廊下を行き交う者。誰もが忙しそうなのに、時折冗談や笑い声が聞こえてくる。仕事の場とは、もっと張り詰めているものだと思っていた。
「こちらへどうぞ」
受付の女性に案内され、応接室へ通される。今日は共同事業の顔合わせだ。失礼があってはいけない。必要な資料も説明する順番も、昨夜もう一度確認した。
大丈夫。予定通りに進めれば、問題はない。
そう思った時、廊下の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。
「ですから会頭、今日の予定は――」
「知っていますよ」
「本当に分かっています?」
「もちろん」
「では、午後の市場視察は?」
「一時間早めます」
「ほら! 予定通りじゃないじゃないですか」
「新しい品が入るなら、早い方がいいでしょう」
「変更するなら先に言ってください!」
女性の呆れた声に、周囲から笑いが起こる。ずいぶん気安いやり取りだと思っていると、応接室の扉が開いた。
「お待たせしました」
入ってきた男性を見て、リディアは目を瞬かせた。
淡い金色の髪はやや長く、襟足へ向かって柔らかく流れている。すっと通った鼻筋に、涼やかな青緑色の瞳。端正な顔立ちをしているが、気取ったところはなく、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
背は高く、細身ながら肩幅はしっかりしている。濃紺の上着も華美な装飾こそないものの、仕立ての良さは一目で分かった。
貴族の夜会にいても目を引きそうな容姿なのに、不思議と近寄りがたさはない。
むしろ印象に残ったのは、その佇まいだった。
先ほどまで廊下で部下と言い合っていた人物とは思えないほど落ち着いていて、それでいて堅苦しさもない。人と接することに慣れた、大人の余裕のようなものが感じられた。
――この人が、ヴァレンティア商会の会頭。
カイル・ヴァレンティア。急成長する商会を、若くして率いる人物だ。
その隣には、分厚い書類を抱えた若い女性が立っていた。
「エマ。市場へ行く前に、南部支店から届いた数字を確認しておいてください」
「もう机に置いてあります」
「さすがですね」
「会頭が忘れると思いましたので」
「信用がありませんね」
「日頃の行いです」
カイルが苦笑すると、エマは呆れた顔をする。遠慮のないやり取りなのに、互いの仕事ぶりは信頼しているらしい。その空気が、リディアには少し不思議だった。
「では、失礼します」
エマが退室すると、カイルは改めてリディアへ向き直った。
「初めまして。カイル・ヴァレンティアです」
「リディア・クロフォードです。本日はよろしくお願いいたします」
「お話は伺っています。共同事業の担当を引き受けてくださったそうで」
「微力ながら尽力いたします」
「助かります」
カイルは自然な笑みを浮かべた。人当たりの良い人ほど、本心は見えにくい。そう教えられてきたリディアは、わずかに身構える。
「どうかしましたか?」
「いえ」
「本当に?」
「はい」
「今、あまり信用されていない気がしたのですが」
「……」
図星だった。返事に詰まったリディアを見て、カイルの口元が楽しそうに緩む。
「それは失礼いたしました」
「謝らなくていいですよ」
あまりにも自然に返され、リディアは一瞬言葉を失った。数日前、謝った自分にロイが見せた苦しそうな顔がよぎる。けれどカイルは、もう手元の資料へ視線を落としていた。
「では、始めましょうか」
「……はい」
共同事業の計画書をもとに説明していく。カイルは穏やかに聞いていたが、市場調査の資料へ目を落としたところで目つきが変わった。
「こちらの調査は、いつ時点のものでしょう」
「半年前になります」
「でしたら、最新の数字も添えた方がいいですね。特にこの商品は、ここ三か月で客層が変わっています」
「客層が?」
「はい。少しお待ちください」
カイルが呼び鈴を鳴らすと、ほどなくエマが顔を出した。
「東地区の先月分の販売記録をお願いできますか」
「こちらです」
差し出された書類を、カイルは迷いなく開く。
「ありがとうございます。――ほら、ここです」
リディアも数字を追う。確かに購入者層が変化していた。
「案そのものは面白いです。ただ、このままでは利益率が下がる可能性があります。流通経路を一つ変えて、商品層も少し広げた方がいいでしょう」
「こちらの経路ですか?」
「ええ。ただし、輸送費が上がります」
「でしたら……」
言われた通りに修正するだけなら簡単だ。だが数字を追ううちに、一つ気になる点が見つかった。
「この地域を経由するのは、いかがでしょう」
「理由を聞いても?」
「輸送距離は少し延びますが、中継地点にクロフォード家と取引のある倉庫があります。保管費を抑えられる可能性があります」
「なるほど」
カイルはしばらく数字を追った。
「いいですね」
「……よろしいのですか?」
「私の案より安く済みそうです」
「では――」
「ええ。こちらを軸に試算しましょう」
あっさり自分の案を引っ込めたカイルに、リディアは驚いた。より良い案が出れば、すぐにそちらへ切り替える。自由に見えても、思いつきだけで動いているわけではないらしい。気付けばリディアも夢中になって資料へ書き込んでいた。
* * *
打ち合わせは予定より三十分ほど長引いた。それでも話し合うべきことはすべて決まり、次回までの準備も明確になっている。
予定通りではなかった。それなのに、何の問題もなく終わっている。
「どうしました?」
カイルに尋ねられ、リディアは今日ずっと感じていたことを口にした。
「率直に申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「あなたほど先が読めない方には、初めてお会いしました」
一瞬の静寂のあと、カイルが吹き出した。
「はは。なるほど。つまり、私のことは信用できないと?」
「……予定に関しては、否定できません」
「それは手厳しいですね」
「ですが、仕事ぶりはとても信頼しています」
「ありがとうございます」
「だから余計に困るんです」
カイルは肩を揺らして笑う。
「よく言われます」
「自覚はあるのですね」
「あります」
迷いのない即答に、リディアの口元が自然と緩んだ。
「では、私も一つ」
「何でしょう」
「あなたは、私が今まで会った中でもかなり真面目な人ですね」
リディアの笑みが消えた。
真面目。ほんの数日前までなら、迷わず褒め言葉として受け取っていただろう。けれど今は、その一言だけで肩に力が入る。
「……そうでしょうか」
「ええ。資料も丁寧ですし、こちらが指摘した数字もすぐ理解した。それに、さっきの流通経路は私にはなかった発想でした」
「ですが、調査資料が古いことには気付けませんでした」
「そうですね」
「……」
あっさり肯定され、リディアは言葉に詰まった。
「では、次から確認すればいい」
それだけだった。責めるでも慰めるでもなく、ただ次の話をしている。
「……はい」
肩に入っていた力が、わずかに抜けた。
「先ほども市場視察の予定を変更していましたものね」
「聞こえていましたか」
「しっかりと」
「それは困りました」
「困る前に、反省なさってください」
「善処します」
「……本当に?」
「もちろんです」
「先ほども聞いた気がします、そのお返事」
「気のせいでは?」
どうにも信用できない。けれど、今はそれが少し可笑しかった。
「ただ、予定は必要なら変えます」
「必要なら?」
「ええ。予定通りに進めることが目的ではありませんから」
カイルは窓の外へ目を向けた。
「市場へ早く行くのも、新しい品が入った直後を見たいからです。商売は、昨日の正解が今日も同じとは限りません。変えない方がいいことも、変えた方がいいこともある。その都度考えればいいと思っています」
予定が変わることは、失敗ではない。最初に決めた通りにできなくても、その場で考え直せばいい。今までの自分にはなかった考え方だった。
「……不思議な方ですね」
「また信用を失いました?」
「いいえ。先ほどよりは、少しだけ」
「信用していただけました?」
「少しだけです」
「それは良かった」
カイルが楽しそうに笑い、二人は席を立った。
「これから長いお付き合いになります。ゆっくり知っていただければ、それで十分です」
「よろしくお願いいたします」
差し出された手を、リディアも握り返す。
「そうそう。次の打ち合わせですが」
「はい」
「明後日の午後でお願いします。ただし、市場の状況次第で時間をずらすかもしれません」
「……先におっしゃってくださるのですね」
「エマに怒られましたので」
「でしたら、きちんと学んでいらっしゃるのですね」
「私だって成長しますよ」
あまりにも真面目な顔で言うので、リディアはとうとう笑ってしまった。自分でも驚くほど自然に出た笑いだった。
「では、次回もよろしくお願いします」
「はい」
カイルを見送ったあと、リディアは今日の打ち合わせを思い返した。予定より三十分長引き、資料には不足があり、知らないこともいくつもあった。それでも何も壊れなかった。むしろ、自分の案が一つ採用された。
失敗しないように準備することは、きっとこれからもやめられない。それは自分の大切な部分でもある。ただ、予定通りにいかなかった時、その先を考えることもできるのかもしれない。
まだ確信と呼べるほどではない。けれど芽生えたばかりのその考えは、屋敷へ戻る馬車の中でも、リディアの心に残り続けていた。
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