表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「君は正しすぎる」と婚約破棄されたので、自分の答えを探すことにしました  作者: 黒猫と珈琲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/3

第1話 君は正しすぎる

「リディア。君との婚約を解消したい」


 ロイ・ベルモントの言葉を聞いた瞬間、リディア・クロフォードは何を言われたのか理解できなかった。


 王都の高級喫茶店。窓際の席には午後の穏やかな光が差し込んでいる。淡い亜麻色の髪を肩の後ろへ流したリディアは、思わず瞬きをした。


「……婚約を、解消?」


 ようやく声を絞り出す。


 目の前にいるのは、八年間婚約者だったロイ・ベルモント。伯爵家の嫡男であり、王宮文官として将来を期待されている人だった。


 整った顔立ちに、濃紺の髪と灰青色の瞳。いつも隙のない身なりをしていて、真面目という言葉がそのまま人の形になったような男性だ。


 リディアはずっと彼を尊敬していた。


「突然ですまない」


 ロイは苦しそうに眉を寄せた。


「何か、私に至らない点がございましたでしょうか」


 反射的にそう尋ねていた。


 何が悪かったのだろう。どこを直せばよかったのだろう。もっと努力できたのではないか。


 頭の中に浮かぶのは、そればかりだった。


 ロイは小さく首を振る。


「違う。君は何も悪くない」


 その言葉に一瞬だけ安堵しかける。けれど次の言葉で、その安堵は静かに砕けた。


「でも、君といると息が詰まるんだ」


 息が詰まる。


 その言葉だけが胸の奥へ沈んでいく。


「……私といると、ですか」


「ああ」


 ロイは目を伏せた。


「君はいつも正しい。礼儀正しくて、優秀で、努力家で、失敗もしない」


 そこで一度言葉を切る。そして苦しそうに息を吐いた。


「いや……違うな」


 灰青色の瞳が真っ直ぐリディアを見た。


「君は正しすぎるんだ」


 リディアは言葉を失った。


 それは昔から言われ続けてきた言葉と似ていた。侯爵令嬢として立派だ。模範的だ。素晴らしい。そう褒められるたび、もっと頑張らなければと思ってきた。


 けれど今、ロイの口から聞くそれは少しも褒め言葉には聞こえなかった。


「私は、君のことを責めたいわけじゃない」


 ロイは静かに続ける。


「君は努力してくれた。私のためにも、ベルモント家のためにも」


 否定できなかった。


 ロイにふさわしい婚約者になりたかった。王宮文官の妻として恥ずかしくないように。伯爵家へ嫁いでも誰にも後ろ指をさされないように。


 必死に努力してきた。


 間違えないように。失礼のないように。誰かを不快にさせないように。


 ずっと、そうやって生きてきた。


「でも君は、私の前でも完璧だった」


 ロイの声は静かだった。


「弱音を吐かない。怒らない。不満も言わない」


 リディアは膝の上で指を重ねた。


 それの何がいけなかったのだろう。


 弱音を吐けば困らせる。怒れば醜い。不満を言えば我儘になる。


 そう思っていた。


「私は君といても安心できなかった」


 胸が痛む。


「君を見ていると、自分も正しくなければならない気がしたんだ」


「私は、そのようなことは……」


「分かっている」


 ロイは苦く笑った。


「君は一度も私を責めなかった」


 だから余計に苦しかったのかもしれない。


 その言葉は口にされなかったけれど、リディアには伝わった。


「申し訳ありません」


 気付けばそう言っていた。


 ロイが痛ましげに顔を歪める。


「ほら」


「え?」


「君はまた謝る」


 その一言で、リディアは言葉を失った。


 謝ることしかできなかった。


 何かを間違えたなら謝る。期待に届かなかったなら謝る。相手を困らせたなら謝る。


 それが正しいことだと思っていた。


「リディア」


 ロイはまっすぐ彼女を見る。


「君は悪くない。ただ、私たちは合わなかったんだと思う」


 怒りも憎しみもない声だった。


 だからこそ、引き止める言葉が出てこなかった。


 ロイは静かに立ち上がる。


「今までありがとう」


 それが最後だった。


 八年間続いた婚約は、たったそれだけの言葉で終わった。


 ロイが去った後も、リディアはしばらく席を立てなかった。


 テーブルの上には、すっかり冷めた紅茶が残っている。窓の外では馬車が行き交い、人々が笑っている。


 いつもと変わらない王都の午後。


 なのに、自分の世界だけが静かに崩れていた。


 正しくあろうとしてきた。間違えないようにしてきた。誰にも迷惑をかけないように。誰にも恥をかかせないように。


 ずっと努力してきた。


 それなのに。


 どうして幸せになれなかったのだろう。



 屋敷へ戻った頃には夕方になっていた。


 部屋へ入り、扉を閉める。そこでようやく肩から力が抜けた。


 机の引き出しを開く。


 そこには一冊の古い本が入っていた。子供の頃から何度も読んだ旅行記だった。


 知らない国。見たことのない景色。海の向こうの街。


 幼い頃のリディアは、その本を読むのが大好きだった。


 いつか自分も行ってみたい。


 そんな夢を抱いていたこともある。


 けれど婚約してからは、いつの間にか本を開かなくなった。


 礼儀作法。社交。家同士の付き合い。将来の伯爵夫人として必要な知識。


 やるべきことはいくらでもあった。


 好きな本を読む時間があるなら、もっと役に立つことを学ぶべきだと思った。


 それが正しいことだと思っていた。


 リディアは本を開く。


 けれど文字は少しも頭に入ってこない。


「……私がもっと頑張れば良かったのでしょうか」


 小さく呟く。


 返事はない。


 本は開いたままだった。


 けれど、その夜は一ページも進まなかった。



 数日後。


 リディアは父であるクロフォード侯爵の執務室へ呼ばれていた。


 婚約解消の話はすでに両家で進んでいる。ベルモント家からも正式な謝罪が届いていた。


 誰もリディアを責めなかった。


 それなのに、リディアはずっと自分を責め続けていた。


「リディア」


 父が書類から顔を上げる。


「少し痩せたな」


「気のせいです」


「そうか」


 父はそれ以上追及しなかった。


 代わりに一枚の書類を差し出す。


「仕事を頼みたい」


「私に、ですか?」


「ああ。ヴァレンティア商会との共同事業だ」


 ヴァレンティア商会。


 王都でも急成長している商会として、その名前は知っていた。


「先方との調整役を任せたい」


「ですが、私は実務経験がほとんどありません」


「だからこそだ」


 父の声は穏やかだった。


「家に閉じこもって、自分の悪かったところばかり探していても何も変わらない」


 リディアは息を呑む。


 父は気付いていたのだ。


「お前はずっと真面目に生きてきた。よく努力もしてきた」


「……はい」


「それは悪いことではない」


 父は静かに続ける。


「だが、人生はそれだけではない」


 その言葉が胸に残った。


 人生はそれだけではない。


 正しくあること以外に、何があるのだろう。


 リディアにはまだ分からなかった。


「外を見てきなさい」


 父は穏やかに言う。


「お前がこれからどう生きたいのか。それを考えるためにも」


 どう生きたいのか。


 今まで考えたこともなかった。


 侯爵令嬢として正しく。ロイの婚約者としてふさわしく。将来の伯爵夫人として恥ずかしくなく。


 いつも誰かが決めた正解を探していた。


 自分がどうしたいのかを考える前に。


 リディアは膝の上で手を握る。


 怖かった。


 失敗するかもしれない。迷惑をかけるかもしれない。向いていないと思われるかもしれない。


 それでも、このまま立ち止まり続けることも同じくらい怖かった。


「承知いたしました」


 リディアはゆっくり頷く。


「お引き受けいたします」


 父はわずかに表情を和らげた。


「顔合わせは三日後だ」


「はい」


 リディアは書類を受け取り、静かに立ち上がる。


 まだ胸は痛む。ロイの言葉も消えていない。自分を責める気持ちも簡単にはなくならない。


 けれど、ほんの少しだけ思った。


 このまま終わりたくない、と。


 正解ばかり選んできた。


 それでも幸せになれなかったのなら。


 今度は、自分の答えを探してみたい。


 そう思いながら、リディアは手元の書類へ視線を落とした。


 ――ヴァレンティア商会。


 その名前が、


「失敗してもいいんですよ」


 と笑う一人の商会長との出会いに繋がることを。


 まだリディアは知らなかった。


面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ