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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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第1話 君は正しすぎる

「リディア。君との婚約を解消したい」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。聞き間違いだと思った。そうでなければ、ロイが何か別の話をしているのだと。けれど、目の前に座る彼の表情を見れば分かる。冗談でも、言い間違いでもない。

 八年間、婚約者だった。十代の頃から隣にいて、いつかこの人と結婚するのだと思っていた。ベルモント家へ嫁ぎ、彼の妻となり、共に生きていく。その未来を疑ったことなど、一度もない。それが今、たった一言で消えようとしている。

 王都の高級喫茶店。窓際には午後の穏やかな光が差し込み、磨かれたテーブルの上では白磁のカップから細い湯気が立っている。窓の外を馬車が通り過ぎ、店内のどこかから楽しげな笑い声が聞こえた。

 リディアは膝の上で、そっと指を握った。俯いた拍子に、腰まで伸びた淡い銀桃色の髪が肩からさらりとこぼれる。普段は穏やかな琥珀色の瞳も、今は戸惑いに揺れていた。何も変わっていない。変わったのは、リディアの未来だけだった。

「……婚約を、解消?」

 ようやく声が出た。

「ああ」

「……どうして」

 口にした途端、指先が冷たくなる。目の前にいるのは、八年間婚約者だったロイ・ベルモント。伯爵家の嫡男であり、王宮文官として将来を期待される真面目な男性だった。

 彼と結婚するために、ずっと準備してきた。伯爵夫人として恥ずかしくないように。彼の隣に立っても見劣りしないように。そのために必要なことなら、何だって努力してきたつもりだった。

「突然ですまない」

 ロイが苦しそうに眉を寄せる。その顔を見た瞬間、リディアの中に浮かんだのは、悲しみでも怒りでもなかった。

「何か、私に至らない点がございましたでしょうか」

 気付けば、そう尋ねていた。何が悪かったのだろう。どこを直せばよかったのだろう。もっと努力できたのではないか。

 ――どうして私を捨てるの。

 そう尋ねるより先に、自分の間違いを探してしまう。そんな自分に、リディア自身はまだ気付いていなかった。

「違う。君は何も悪くない」

 ロイが首を振る。その言葉に一瞬だけ肩の力が抜けた。

「でも、君といると息が詰まるんだ」

 安堵は、すぐに消えた。

「……私といると、ですか」

「ああ。君はいつも正しい。礼儀正しくて、優秀で、努力家で……何をしてもきちんとしている」

 ロイはそこで言葉を切った。何かを言い直すように視線を落とし、やがて灰青色の瞳をまっすぐリディアへ向ける。

「いや……違うな」

「……?」

「君は正しすぎるんだ」

 リディアは言葉を失った。似たような言葉なら、これまで何度も言われてきた。侯爵令嬢として立派だ。模範的だ。素晴らしい。そう褒められるたびに嬉しかったし、同時に、もっと頑張らなければと思った。けれど今、ロイの口から聞くその言葉は、少しも褒め言葉には聞こえなかった。

「私は君を責めたいわけじゃない。君は努力してくれた。私のためにも、ベルモント家のためにも」

「……はい」

 否定はできなかった。ロイにふさわしい婚約者になりたかった。王宮文官の妻として恥ずかしくないように、伯爵家へ嫁いでも誰にも後ろ指をさされないように。だから、ずっと努力してきた。間違えないように。失礼のないように。誰かを不快にさせないように。それが相手を大切にすることなのだと、信じていた。

「でも君は、私の前でもずっとそうだった」

「……どういう意味でしょう」

「弱音を吐かない。怒らない。不満も言わない」

「それは……」

「分かっている。私を困らせたくなかったんだろう」

 リディアは口を閉じた。その通りだった。弱音を吐けば困らせる。怒れば相手を傷つける。不満を口にすれば我儘になる。だから言わなかった。それが正しいと思っていた。

「でも私は、君といても安心できなかった」

 胸がちくりと痛んだ。

「君を見ていると、自分も間違えてはいけない気がしたんだ」

「私は、そのようなことは……」

「分かっている。君は一度も、私にそうしろとは言わなかった」

 ロイは苦く笑った。その表情を見た途端、リディアの頭にはまた同じ考えが浮かぶ。ロイが苦しかったのなら、自分はやはり何かを間違えていたのではないか。

「申し訳ありません」

 反射的に言葉がこぼれた。ロイの表情が歪む。

「ほら」

「え?」

「君は、また謝る」

 リディアの唇が止まった。謝ってはいけなかったのだろうか。けれど、相手を傷つけたなら謝るのが正しい。期待に届かなかったなら、次はもっと努力すればいい。ずっと、そうしてきた。

「リディア」

 ロイはしばらく彼女を見つめたあと、ゆっくり首を振った。

「君は悪くない。私も、君が悪いから婚約を解消したいわけじゃない。ただ……私たちは、互いに自然でいられなかったんだと思う」

「自然に……」

「ああ。少なくとも私は、そう思っている」

 怒りも憎しみもない声だった。だからこそ、引き止める言葉は出てこなかった。

 やがてロイは席を立つ。

「今までありがとう」

 それが最後だった。八年間続いた婚約は、静かに終わった。

 ロイが去ったあとも、リディアはしばらく席を立てなかった。テーブルには、すっかり冷めた紅茶が残っている。窓の外では馬車が行き交い、楽しそうに話しながら歩く人々の姿が見えた。いつもと変わらない王都の午後だった。なのに、自分だけがそこから取り残されたような気がした。

 リディアは膝の上で指を握る。正しくあろうとしてきた。間違えないように。誰にも迷惑をかけないように。誰にも恥をかかせないように。ずっと、そうやって生きてきた。それなのに。

「……何が、いけなかったのでしょう」

 こぼれた呟きは、誰にも届かなかった。


* * *


 屋敷へ戻った頃には、夕方になっていた。自室へ入り、扉を閉める。その瞬間、張りつめていたものが切れたように肩から力が抜けた。

 泣くと思っていた。けれど、涙は出なかった。代わりに浮かんでくるのは、あの時こうすればよかった、あの時あんなことを言わなければよかった、ということばかりだった。もっと笑えばよかったのだろうか。もっと頼ればよかったのだろうか。もっと弱いところを見せていれば、何かが違っていたのだろうか。

 机の前に座ったリディアは、何となく引き出しを開いた。その奥に、一冊の古い旅行記が入っている。

「あ……」

 手に取った瞬間、懐かしさが込み上げた。子どもの頃から何度も読み返した、大切な本だった。知らない国。見たことのない景色。海の向こうの街。幼い頃のリディアは、その本を開くたび胸を躍らせていた。

 いつか、自分も行ってみたい。

 そんな夢を抱いていたこともある。けれど婚約してからは、いつの間にか本を開かなくなった。礼儀作法に社交、家同士の付き合い。将来の伯爵夫人として覚えるべきことはいくらでもあった。好きな本を読む時間があるのなら、もっと役に立つことを学ぶべきだ。そう考えていた。

 リディアは旅行記を開く。懐かしい挿絵が目に入った。海辺に建つ白い街。子どもの頃、一番好きだったページだ。昔なら、これを眺めているだけで何時間でも過ごせた。けれど今は、文字を追っても少しも頭へ入ってこない。

「……私がもっと頑張れば良かったのでしょうか」

 呟いてから、リディアは本の上に視線を落とした。当然、返事はない。ただ一つだけ、気付いたことがあった。どうしてこの本を好きだったのかさえ、今の自分にはうまく思い出せない。そのことが、婚約を失ったこととは別の意味で、少しだけ悲しかった。

 その夜、リディアは一ページも読み進めることができなかった。


* * *


 数日後。リディアは父であるクロフォード侯爵の執務室へ呼ばれていた。婚約解消の話はすでに両家で進み、ベルモント家からも正式な謝罪が届いている。父も母も、使用人たちも、誰一人リディアを責めなかった。それなのに、リディアの頭からは「何がいけなかったのだろう」という問いが消えてくれなかった。

「リディア」

 父が書類から顔を上げる。

「少し痩せたな」

「気のせいです」

「そうか」

 父はそれ以上追及しなかった。代わりに、机の上に置いてあった一枚の書類を差し出す。

「仕事を頼みたい」

「私に、ですか?」

「ああ。ヴァレンティア商会との共同事業だ」

 ヴァレンティア商会。王都でも急成長している商会として、その名はリディアも知っていた。会頭を務めているのは、カイル・ヴァレンティア伯爵。若くして伯爵家の当主となりながら、領地経営だけに収まらず、自ら商会を率いている人物だ。貴族でありながら商人としても成功し、身分にこだわらず有能な者を登用する。その独特なやり方については、社交界でもたびたび話題になっていた。

「先方との調整役を任せたい」

「ですが、私は実務経験がほとんどありません」

 即座に口から出たのは、できない理由だった。父がわずかに眉を上げる。

「実務経験がなければ、仕事をしてはいけないのか?」

「いえ、そのような意味では……」

「なら、やってみればいい」

「ですが、失敗するかもしれません」

「するかもしれないな」

「先方にご迷惑をおかけする可能性もあります」

「その時は私が謝ろう」

「お父様」

 リディアは思わず父を見た。冗談を言っている様子はない。父は普段と変わらない顔で、娘を見返していた。

「お前はずっと真面目に生きてきた。よく努力もしてきた。それは、お前の長所だ」

 穏やかな声だった。

「だが、今のお前は家に閉じこもって、自分の悪かったところばかり探している」

「……はい」

「探して、何か見つかったか?」

 リディアは答えられなかった。いくつも思いついた。もっと笑えばよかった。もっと弱音を吐けばよかった。もっと頼ればよかった。けれど、それをすべて直していればロイと幸せになれたのかと問われれば、分からない。

「外を見てきなさい」

 父が言った。

「お前がこれからどう生きたいのか。それを考えるためにも」

 どう生きたいのか。その言葉を、リディアは心の中で繰り返した。侯爵令嬢として恥ずかしくないように。ロイの婚約者としてふさわしく。将来の伯爵夫人として立派に。どう生きるべきかなら、ずっと考えてきた。けれど――どう生きたいのか。そう問われたことは、なかった気がする。

 リディアは手元の書類を見る。怖かった。実務経験のない自分に務まるのだろうか。失敗して父や商会に迷惑をかけないだろうか。断る理由なら、いくつも思いつく。けれどその時、昨夜開いた旅行記が頭に浮かんだ。どうして好きだったのかさえ、分からなくなっていた本。このまま何も変えなければ、きっと自分はこれからもずっと「何を間違えたのだろう」と考え続ける。

 それは嫌だった。

 リディアは膝の上で握っていた指をほどく。

「……承知いたしました」

 父が顔を上げた。

「やってみます」

「そうか」

「この仕事、お引き受けいたします」

 声は少し震えていた。自信があるわけではない。正しい選択なのかも分からない。それでも、自分で決めて、自分の口で答えた。父の表情がわずかに和らぐ。

「顔合わせは三日後だ」

「はい」

 リディアは書類を受け取り、立ち上がった。まだ胸は痛む。ロイの言葉も消えていない。きっと明日になれば、また自分の悪かったところを考えてしまうだろう。それでも、ほんの少しだけ、昨日までとは違う場所へ進めた気がした。

 リディアは手元の書類へ視線を落とし、そこに記された名前を読み上げる。

「……ヴァレンティア商会」

 この時のリディアは、まだ知らなかった。そこで出会う一人の男が、伯爵という身分に収まることなく、自ら商会を率い、予定を平気で変更し、思い通りにいかないことを面白がり、それでも仕事では誰よりも真剣であることを。

 そして――。

 正しい答えを教えるのではなく、自分で答えを見つけるまで、隣で待ってくれる人になることを。

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