第1話 君は正しすぎる
「リディア。君との婚約を解消したい」
ロイ・ベルモントの言葉を聞いた瞬間、リディア・クロフォードは何を言われたのか理解できなかった。
王都の高級喫茶店。窓際の席には午後の穏やかな光が差し込んでいる。淡い亜麻色の髪を肩の後ろへ流したリディアは、思わず瞬きをした。
「……婚約を、解消?」
ようやく声を絞り出す。
目の前にいるのは、八年間婚約者だったロイ・ベルモント。伯爵家の嫡男であり、王宮文官として将来を期待されている人だった。
整った顔立ちに、濃紺の髪と灰青色の瞳。いつも隙のない身なりをしていて、真面目という言葉がそのまま人の形になったような男性だ。
リディアはずっと彼を尊敬していた。
「突然ですまない」
ロイは苦しそうに眉を寄せた。
「何か、私に至らない点がございましたでしょうか」
反射的にそう尋ねていた。
何が悪かったのだろう。どこを直せばよかったのだろう。もっと努力できたのではないか。
頭の中に浮かぶのは、そればかりだった。
ロイは小さく首を振る。
「違う。君は何も悪くない」
その言葉に一瞬だけ安堵しかける。けれど次の言葉で、その安堵は静かに砕けた。
「でも、君といると息が詰まるんだ」
息が詰まる。
その言葉だけが胸の奥へ沈んでいく。
「……私といると、ですか」
「ああ」
ロイは目を伏せた。
「君はいつも正しい。礼儀正しくて、優秀で、努力家で、失敗もしない」
そこで一度言葉を切る。そして苦しそうに息を吐いた。
「いや……違うな」
灰青色の瞳が真っ直ぐリディアを見た。
「君は正しすぎるんだ」
リディアは言葉を失った。
それは昔から言われ続けてきた言葉と似ていた。侯爵令嬢として立派だ。模範的だ。素晴らしい。そう褒められるたび、もっと頑張らなければと思ってきた。
けれど今、ロイの口から聞くそれは少しも褒め言葉には聞こえなかった。
「私は、君のことを責めたいわけじゃない」
ロイは静かに続ける。
「君は努力してくれた。私のためにも、ベルモント家のためにも」
否定できなかった。
ロイにふさわしい婚約者になりたかった。王宮文官の妻として恥ずかしくないように。伯爵家へ嫁いでも誰にも後ろ指をさされないように。
必死に努力してきた。
間違えないように。失礼のないように。誰かを不快にさせないように。
ずっと、そうやって生きてきた。
「でも君は、私の前でも完璧だった」
ロイの声は静かだった。
「弱音を吐かない。怒らない。不満も言わない」
リディアは膝の上で指を重ねた。
それの何がいけなかったのだろう。
弱音を吐けば困らせる。怒れば醜い。不満を言えば我儘になる。
そう思っていた。
「私は君といても安心できなかった」
胸が痛む。
「君を見ていると、自分も正しくなければならない気がしたんだ」
「私は、そのようなことは……」
「分かっている」
ロイは苦く笑った。
「君は一度も私を責めなかった」
だから余計に苦しかったのかもしれない。
その言葉は口にされなかったけれど、リディアには伝わった。
「申し訳ありません」
気付けばそう言っていた。
ロイが痛ましげに顔を歪める。
「ほら」
「え?」
「君はまた謝る」
その一言で、リディアは言葉を失った。
謝ることしかできなかった。
何かを間違えたなら謝る。期待に届かなかったなら謝る。相手を困らせたなら謝る。
それが正しいことだと思っていた。
「リディア」
ロイはまっすぐ彼女を見る。
「君は悪くない。ただ、私たちは合わなかったんだと思う」
怒りも憎しみもない声だった。
だからこそ、引き止める言葉が出てこなかった。
ロイは静かに立ち上がる。
「今までありがとう」
それが最後だった。
八年間続いた婚約は、たったそれだけの言葉で終わった。
ロイが去った後も、リディアはしばらく席を立てなかった。
テーブルの上には、すっかり冷めた紅茶が残っている。窓の外では馬車が行き交い、人々が笑っている。
いつもと変わらない王都の午後。
なのに、自分の世界だけが静かに崩れていた。
正しくあろうとしてきた。間違えないようにしてきた。誰にも迷惑をかけないように。誰にも恥をかかせないように。
ずっと努力してきた。
それなのに。
どうして幸せになれなかったのだろう。
◇
屋敷へ戻った頃には夕方になっていた。
部屋へ入り、扉を閉める。そこでようやく肩から力が抜けた。
机の引き出しを開く。
そこには一冊の古い本が入っていた。子供の頃から何度も読んだ旅行記だった。
知らない国。見たことのない景色。海の向こうの街。
幼い頃のリディアは、その本を読むのが大好きだった。
いつか自分も行ってみたい。
そんな夢を抱いていたこともある。
けれど婚約してからは、いつの間にか本を開かなくなった。
礼儀作法。社交。家同士の付き合い。将来の伯爵夫人として必要な知識。
やるべきことはいくらでもあった。
好きな本を読む時間があるなら、もっと役に立つことを学ぶべきだと思った。
それが正しいことだと思っていた。
リディアは本を開く。
けれど文字は少しも頭に入ってこない。
「……私がもっと頑張れば良かったのでしょうか」
小さく呟く。
返事はない。
本は開いたままだった。
けれど、その夜は一ページも進まなかった。
◇
数日後。
リディアは父であるクロフォード侯爵の執務室へ呼ばれていた。
婚約解消の話はすでに両家で進んでいる。ベルモント家からも正式な謝罪が届いていた。
誰もリディアを責めなかった。
それなのに、リディアはずっと自分を責め続けていた。
「リディア」
父が書類から顔を上げる。
「少し痩せたな」
「気のせいです」
「そうか」
父はそれ以上追及しなかった。
代わりに一枚の書類を差し出す。
「仕事を頼みたい」
「私に、ですか?」
「ああ。ヴァレンティア商会との共同事業だ」
ヴァレンティア商会。
王都でも急成長している商会として、その名前は知っていた。
「先方との調整役を任せたい」
「ですが、私は実務経験がほとんどありません」
「だからこそだ」
父の声は穏やかだった。
「家に閉じこもって、自分の悪かったところばかり探していても何も変わらない」
リディアは息を呑む。
父は気付いていたのだ。
「お前はずっと真面目に生きてきた。よく努力もしてきた」
「……はい」
「それは悪いことではない」
父は静かに続ける。
「だが、人生はそれだけではない」
その言葉が胸に残った。
人生はそれだけではない。
正しくあること以外に、何があるのだろう。
リディアにはまだ分からなかった。
「外を見てきなさい」
父は穏やかに言う。
「お前がこれからどう生きたいのか。それを考えるためにも」
どう生きたいのか。
今まで考えたこともなかった。
侯爵令嬢として正しく。ロイの婚約者としてふさわしく。将来の伯爵夫人として恥ずかしくなく。
いつも誰かが決めた正解を探していた。
自分がどうしたいのかを考える前に。
リディアは膝の上で手を握る。
怖かった。
失敗するかもしれない。迷惑をかけるかもしれない。向いていないと思われるかもしれない。
それでも、このまま立ち止まり続けることも同じくらい怖かった。
「承知いたしました」
リディアはゆっくり頷く。
「お引き受けいたします」
父はわずかに表情を和らげた。
「顔合わせは三日後だ」
「はい」
リディアは書類を受け取り、静かに立ち上がる。
まだ胸は痛む。ロイの言葉も消えていない。自分を責める気持ちも簡単にはなくならない。
けれど、ほんの少しだけ思った。
このまま終わりたくない、と。
正解ばかり選んできた。
それでも幸せになれなかったのなら。
今度は、自分の答えを探してみたい。
そう思いながら、リディアは手元の書類へ視線を落とした。
――ヴァレンティア商会。
その名前が、
「失敗してもいいんですよ」
と笑う一人の商会長との出会いに繋がることを。
まだリディアは知らなかった。
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