番外編 あなたが笑う理由になりたい(カイル視点)
私は昔から、人を見る仕事をしてきた。
商会長という立場になってからは、なおさらだ。
この人は商売に向いている。この人は交渉が得意だ。この人は人をまとめる力がある。
長年そうやって人を見てきたから、第一印象が大きく外れることは少ない。
だから、リディア・クロフォードと初めて会った時も、私はすぐに思った。
――真面目な人だ。
背筋をぴんと伸ばし、誰より丁寧に頭を下げる。資料は完璧に揃えられ、受け答えにも無駄がない。きっと優秀なのだろう。
けれど。
その完璧さの奥に、どこか苦しそうな空気があった。笑っているのに、どこか寂しそうだった。
だから最初に抱いた感情は恋ではない。
ただ、放っておけない。
それだけだった。
◇
共同事業が始まってから、私は彼女の口癖を覚えた。
「申し訳ありません」
「私の配慮が足りませんでした」
「私がもっと頑張れば……」
誰かが失敗しても、予定が変わっても、自分とは関係のないことまで自分の責任のように背負い込む。
見ているこちらが苦しくなるほどだった。
ある日、若い職員が発注数を間違えた。真っ青になって謝り続ける彼に、私はいつものように尋ねる。
「何を学びました?」
彼は戸惑いながらも、失敗から得たことを一つずつ話した。
私は頷く。
「それなら十分です。失敗ではありません。経験ですよ」
その時だった。
隣で、リディアが目を見開いていた。
まるで、その言葉を初めて聞いた人のような顔だった。
その表情が、不思議なくらい心に残った。
あの人は。
誰かにそう言ってもらえなかったのだろうか。
その日から、私は彼女を見る目が少し変わった。
数日後、王都の書店街を歩いていた。
本屋の前で、彼女の足が止まる。並んだ本を見つめる横顔は、商談中とは別人のように柔らかかった。
「本がお好きなのですか?」
そう尋ねると、彼女は少し困ったように笑う。
「……昔は好きでした」
昔は。
その一言が胸に引っ掛かった。
「今は読まれないのですか?」
「侯爵令嬢として、もっと有意義な趣味を持つべきだと言われていましたので」
責めるような口調ではない。恨みもない。
ただ、当たり前のことを話すように笑っていた。
その笑顔が、痛かった。
好きなものまで、誰かの『正しさ』に合わせて諦めてきたのか。
私は棚から一冊の本を手に取った。
「好きなものを好きと言えるのは、良いことですよ」
差し出すと、彼女は少しだけ目を見開く。
それから、壊れ物を扱うように本を胸へ抱き寄せた。
その仕草が、あまりにも愛おしかった。
そんな顔もできる人だったのか。
胸の奥が静かに熱を帯びる。
もっと早く知りたかった。
そう思った自分に、少し驚いた。
それからだった。
彼女を目で追うようになったのは。
朝、商会へ来れば、まず姿を探してしまう。
今日は元気そうだ。少し眠そうだ。昨日より表情が柔らかい。
そんな小さな変化まで気付く自分に苦笑した。
商談相手の癖を読むことには慣れている。
けれど、一人の女性の笑顔ばかり気になっている自分には慣れていなかった。
会議では隣の席が空いていると、少しだけ嬉しくなる。
意見を交わせば、その時間が思ったより短く感じる。
彼女が笑えば安心し、少し元気がない日は理由を考えてしまう。
恋など、もっと激しいものだと思っていた。
けれど違った。
気付けば心にいる。
そんな穏やかなものだった。
ある日の夕暮れ。
共同事業で確認漏れが起きた。小さな手違いだった。すぐに修正できる程度のものだ。
それなのに彼女は青ざめた顔で何度も頭を下げた。
「私の失敗です」
その姿を見た瞬間、胸が締め付けられた。
誰より誠実に働いている人が、誰より自分を責めている。
その姿が、あまりにも痛々しかった。
だから私は、ずっと伝えたかった言葉を口にした。
「それを知らなかった頃の自分を、知っている今の自分で責めるのは可哀想でしょう?」
彼女は私を見つめた。
やがて瞳が揺れ、涙が静かに零れる。
「あの頃の私は……」
震える声だった。
「あの頃の私なりに、精一杯でした」
その言葉を聞いた瞬間、はっきりと分かった。
放っておけないからではない。
助けたいからでもない。
私は。
この人に笑っていてほしい。
心から。
何の遠慮もなく。
自分を責めずに笑ってほしい。
その笑顔を守りたい。
そう願っている自分に、ようやく気付いた。
◇
祝賀会が近付く頃。
廊下を歩いていると、職員たちの話し声が聞こえた。
「クロフォード様、本当に変わられましたね」
「ベルモント様と婚約されていた頃とは、まるで別人です」
思わず足を止める。
婚約していた年月。
その時間を、私は知らない。
初めて贈り物をした日も。
初めて一緒に笑った日も。
初めて喧嘩をした日も。
初めて涙を見た日も。
その隣にいたのは、私ではない。
ほんの少しだけ胸が痛んだ。
嫉妬。
そんな感情とは無縁だと思っていた。
けれど違ったらしい。
彼女の知らない頃の私があるように、私の知らない彼女もいる。
それが少しだけ寂しかった。
だが、すぐに首を横へ振る。
違う。
欲しいのは過去ではない。
あの年月を奪いたいわけでもない。
その時間があったからこそ、彼女はここへ辿り着いた。
ならば私が願うべきことは一つだけだ。
これから先。
彼女が笑う理由は、私でありたい。
楽しかったと思い出す季節も。何気ない日常も。
幸せだったと振り返る未来も。
その隣にいるのは、私でありたい。
そう思った時だった。
「カイル様」
聞き慣れた声に振り返る。
リディアが穏やかに微笑んでいた。
「お待たせいたしました」
その笑顔を見た瞬間、不思議なくらい心が軽くなる。
ああ。
私は過去に勝ちたいのではない。
今、この笑顔を見られることが嬉しいのだ。
その笑顔が、これから先も自分へ向けられたら。
それだけで十分幸せなのだと思った。
◇
祝賀会の日。
彼女は以前よりずっと自然な笑顔で人と話していた。
その姿を見ているだけで、胸が温かくなる。
商売が成功した時とも違う。
大きな契約が決まった時とも違う。
たった一人の女性が笑っている。
それだけで、こんなにも満たされる。
私は、本当に恋をしてしまったらしい。
それでも急ぎたいとは思わなかった。
彼女には、自分で答えを見つけてほしかった。
自分の足で前へ進み、自分自身を許せるようになってほしかった。
その時、初めて隣に立ちたい。
そう願っていた。
そして、その日は訪れた。
庭園で、彼女は少し照れたように笑う。
「私の答えが分かりました」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で長い間大切に育ててきた想いが、ようやく言葉になる。
「最初は、放っておけない人だと思っていました」
彼女は少しだけ驚いたように目を丸くする。
私は微笑み返した。
「あの日から、もっとあなたに笑ってほしいと思っていました」
それは、恋だと気付く前から抱いていた願いだった。
そして今は、もう一つ願いが増えた。
「あなたが笑う理由になりたいと、そう願うようになっていました」
あなたが笑う未来の隣に。
私もいられたら、それ以上の願いはありません。
私は彼女へ、そっと手を差し伸べた。
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