番外編 何度でも、君を知り直す【カイル視点】
私は、人を見る目にはそれなりに自信がある。商会を預かるようになってから、何百人という人間と仕事をしてきた。この人は交渉に向いている。この人は数字に強い。この人は人の上に立つより、誰かを支える方が力を発揮する。そういうものは、少し話せば大体分かる。もちろん、外すこともある。
だが、リディア・クロフォードほど何度も見立てを変えた相手は、たぶん他にいない。初めて会った時、私は彼女をこう評した。
真面目で、優秀で、少々融通が利かない。
今思えば、ずいぶん失礼な見立てだった。
* * *
一つ目の見立て違いは、初めての打ち合わせだった。彼女が用意してきた資料はよくできていた。必要な数字も揃い、丁寧に整理されている。ただ、市場調査の数字が半年前のものだった。
「でしたら、最新の数字も添えた方がいいですね。特にこの商品は、ここ三か月で客層が変わっています」
「客層が?」
最新の販売記録を見せると、彼女はすぐに数字の変化を理解した。私は流通経路を一つ変える案を出した。けれど、彼女はただ頷かなかった。
「この地域を経由するのはいかがでしょう」
「理由を聞いても?」
「こちらなら輸送距離は少し延びますが、中継地点にクロフォード家と取引のある倉庫があります。保管費を抑えられる可能性があります」
改めて数字を追う。彼女の案の方がいい。
「いいですね」
「……よろしいのですか?」
「私の案より安く済みそうです」
なぜそんなに驚くのだろうと思った。良い案なら採用する。商売では当たり前のことだ。
その後も話しているうちに、最初の見立てが少しずつ怪しくなってきた。彼女は自分の意見を持っている。こちらの話もきちんと聞く。間違いを指摘されれば受け入れ、必要ならその場で別の案を考えることもできる。
融通が利かない。どうやら、それは違うらしい。
ただ、一つ気になった。
「あなたは、私が今まで会った中でもかなり真面目な人ですね」
そう言った瞬間、彼女の表情が変わった。褒めたつもりだった。けれど、嬉しそうには見えない。
「ですが、調査資料が古いことには気付けませんでした」
「そうですね」
彼女が目を瞬く。
「では、次から確認すればいい」
少しだけ迷ってから、彼女は頷いた。
「……はい」
その時、ふと思った。この人は、失敗することをずいぶん怖がっているのかもしれない。まだ、理由までは分からなかった。
打ち合わせの終わりに、私は彼女へ言った。
「これから長いお付き合いになります。ゆっくり知っていただければ、それで十分です」
あの時は、私のことを言ったつもりだった。けれど今思えば、ゆっくり知ることになるのは、私の方だった。
* * *
二つ目は、市場だった。西方から新しい香辛料が入ったと聞き、予定していた打ち合わせを午後へ変更して市場へ向かった。もちろん、侯爵家には使いを出した。それでも午後になって彼女と顔を合わせると、あまり納得していないことはすぐに分かった。
「……それで予定を変更なさったのですか?」
「はい」
「今日でなければならなかったのでしょうか」
「今日でなければ駄目でした」
今朝入ったばかりの品で、量も少ない。夕方まで待てば、他の商会に買い付けられる可能性があった。それに、共同事業にも使えるかもしれない。
理由を説明すると、彼女はしばらく香辛料を見つめていた。
「……困った方だと思っていました」
「過去形ですか?」
「現在進行形です」
「残念です」
思わず笑った。
「ですが」
「はい?」
「理由は、分かりました」
「それは良かった」
それ以上は何も言わなかった。納得してほしいと頼むつもりはない。理由を知ったうえで、どう受け取るかは彼女が決めればいい。
ただ、一つ分かった。彼女は、予定通りに進めることに固執しているわけではない。理由が分かれば、自分で考えて受け入れられる。また一つ、最初の見立てを書き換えることになった。
* * *
その後、二人で小さな村へ行った。資料の数字だけでは分からないものを、実際に見るためだった。そこで見つけたのが、ルビー・ロッサという紅い果実だ。王都ではほとんど流通していない。売れないからではない。日持ちせず、運ぶ手段がなかったからだ。
彼女はすぐに手帳を取り出し、村人から話を聞いていた。
「カイル様」
「はい?」
「以前使った中継倉庫を、ここでも利用できませんか?」
「私も今、同じことを考えていました」
まだ確実ではない案を、その場で口にした。最初に会った頃なら、もう少し調べてから話していたかもしれない。少しずつ、彼女も変わっているらしい。
そのあと、村人から勧められたルビー・ロッサを一緒に食べた。
「……おいしい」
思わず、といった様子で声が零れる。村人が嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。その一言が一番嬉しいんです」
「でしょう?」
なぜか私まで嬉しくなって頷くと、彼女がこちらを見た。
「まるでご自分が育てたようなお顔ですね」
「気持ちは半分、生産者ですから」
「今、初めて食べたのでは?」
「気持ちの問題です」
彼女が吹き出した。
「ふふ……何ですか、それ」
声を立てて笑うところを、初めて見た。
「笑いましたね」
「笑ってはいけませんか?」
「いいえ。むしろ、もっと笑ってください」
口にしてから、自分でも少し不思議に思った。なぜそんなことを言ったのだろう。けれど、その時は深く考えなかった。
* * *
三つ目は、書店だった。彼女が本を好きなのだと気付いたのは、ほんの些細なことがきっかけだった。資料の間から落ちた古い栞。冒険者が海を見つめている挿絵が描かれていた。そして彼女は、書店の前を通る時だけ、ほんの少し歩くのが遅くなる。
あの村へ行った頃からだろうか。私は以前より、彼女の表情を見るようになっていた。何を見ているのだろう。何が好きなのだろう。そんなことが、いつの間にか気になるようになっていた。商売相手の好みなど、知らなくても仕事はできるというのに。
だからその日、私は予定を変更して書店街へ行くことにした。もちろん、仕事でもある。王都で何が読まれているかを知れば、人々が何に興味を持っているのかも見えてくる。けれど、それだけだったかと聞かれれば、少し自信がない。
書店で彼女は、一冊の冒険譚を手に取った。
「昔は、こういう本が好きでした」
そう言って、しばらく表紙を見つめる。やがて、小さく首を振った。
「……違いますね」
「何がです?」
「好きでした、ではありません」
本を胸元へ引き寄せる。
「私は今も、こういう物語が好きです」
その時の顔を、よく覚えている。何かを成し遂げた時とも、仕事を褒められた時とも違う。ただ、自分の好きなものを好きだと言っただけ。それなのに、とても嬉しそうだった。
もっと知りたい。
ふと、そう思った。仕事をしている時だけではない。好きなものを見つけた時。美味しいものを食べた時。腹を立てた時。困った時。楽しい時。この人には、まだどんな一面があるのだろう。
商売とはまるで関係のない興味だった。けれど、その時の私は、それ以上深く考えなかった。
* * *
それから、妙なことが増えた。リディアが商会へ来る日は、気付けば入口を見ることが増えた。
「会頭」
「はい」
「先ほどから入口ばかり見ていますが」
「そうですか?」
「三回目です」
エマに指摘され、私は書類へ視線を戻した。
「人を待っているだけです」
「リディア様ですか?」
「今日、打ち合わせですから」
「そうですね」
エマはあっさり頷き、それから書類を一枚置いて、何でもないことのように言う。
「会頭、最近ご機嫌ですね」
「私が?」
「ええ」
「仕事が順調だからでしょう」
「そうかもしれませんね」
それだけ言って、エマは仕事へ戻った。私は少し首を傾げながら、再び書類へ目を落とす。その直後。
「おはようございます」
入口から声がした。顔を上げると、リディアがいた。
「おはようございます、リディア様」
自然と口元が緩んだ。
なるほど。確かに最近、機嫌は悪くないらしい。
* * *
ただ、一つだけ。彼女が失敗した時の顔は、好きになれなかった。
発注書の数量を間違えた日のことだ。幸い、大きな問題にはならなかった。取引先との調整も済み、確認方法も見直した。仕事としては、それで終わりだった。けれど、彼女の中では終わっていなかった。
「私は、間違えました」
「…………」
「もっとできたはずなのに」
その言葉を聞いた時、胸の奥がわずかに痛んだ。彼女は失敗したことより、失敗した自分自身を許せずにいるように見えた。
だから、一つだけ尋ねた。
「昔からのご友人が、今日と同じ失敗をしたら、リディア様はその方を責めますか?」
いくつか言葉を交わしたあと、彼女は黙り込んだ。私は待った。答えを教えるつもりはなかった。彼女が何を考え、何を選ぶのか。それは彼女自身のものだ。
やがて、一粒の涙が零れた。
「……あの頃の私は、精一杯だったんですね」
何のことなのか、私には分からなかった。けれど、聞く必要はないと思った。
しばらくして、彼女は発注書を見つめながら言った。
「今日は、もう帰ろうと思います」
思わず目を瞬いた。最初に会った頃の彼女なら、きっと残っただろう。もう一度確認して、さらにもう一度確認して、自分が十分苦しんだと思えるまで、自分を帰さなかったのかもしれない。
「それがいいですね」
そう答えると、彼女は小さく笑った。その顔を見て、少しだけ安心した。
彼女は彼女の速さで、前へ進んでいる。それで十分だった。
* * *
いつから、彼女が特別になっていたのかと聞かれたら、たぶん困る。村で初めて声を立てて笑った時かもしれない。書店で「今も好きだ」と言った時かもしれない。会議で堂々と意見を言われた時かもしれない。あるいは、もっと前からだったのかもしれない。
あの頃の私は、まだそれに名前をつけていなかった。ただ、気付けば彼女のことを考える時間が増えていた。面白い本を見つければ、彼女も好きだろうかと思う。珍しい菓子を見れば、一緒に食べたらどんな感想を言うだろうと考える。彼女が商会へ来れば、今日はどんな話をするのだろうと思う。
それが何なのか。あの時の私は、まだ知らなかった。
商売のことなら、数字で判断できる。利益も損失も計算できる。けれど、人の気持ちはそうはいかないらしい。ましてや、自分の気持ちとなればなおさらだ。
* * *
「会頭」
書類を読んでいた私へ、エマが声を掛ける。
「何です?」
「リディア様がお見えです」
「分かりました」
立ち上がる。
「やはり今日はご機嫌ですね」
「……まだ言うのですか」
「事実ですから」
「仕事が順調なんですよ」
「はい。そういうことにしておきます」
「エマ」
「お待たせしてはいけませんよ」
「……行ってきます」
執務室を出ると、廊下の先にリディアが立っていた。私を見つけると、彼女が笑う。
「カイル様」
「お待たせしました」
歩み寄りながら、ふと思う。最初の見立ては、ずいぶん外れた。真面目なのは合っていた。優秀なのも。けれど、それだけではなかった。
意外と頑固で、言うべきことはきちんと言う。本が好きで、時々冗談に気付くのが遅い。そして最近は、以前よりよく笑う。
きっと私は、まだ彼女のすべてを知らない。これから先も、新しい一面を何度も知るのだろう。そのたびに、最初の見立てを書き換えることになる。それは商売人としてどうなのだろうと思うけれど、悪くない。むしろ――。
「どうかなさいましたか?」
見つめていたことに気付いたのか、リディアが首を傾げた。
「いいえ」
「そうですか?」
「ええ。ただ――」
「ただ?」
「今日も何か、私の予想を裏切ってくださるのかなと思いまして」
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ」
「褒めています?」
「もちろん」
「信用できません」
「それは残念です」
彼女が呆れたように笑う。その隣に並び、二人で歩き出した。
人を見る目には、自信があった。けれど今は思う。一度見ただけで、その人のことが分かるはずなどない。昨日知らなかった顔を、今日知る。今日知らなかったことを、明日知る。そうやって何度でも、相手を知り直していく。
たぶん私は。
それを、この人とずっと続けていきたいのだ。
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