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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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20/22

番外編 何度でも、君を知り直す【カイル視点】

 私は、人を見る目にはそれなりに自信がある。商会を預かるようになってから、何百人という人間と仕事をしてきた。この人は交渉に向いている。この人は数字に強い。この人は人の上に立つより、誰かを支える方が力を発揮する。そういうものは、少し話せば大体分かる。もちろん、外すこともある。

 だが、リディア・クロフォードほど何度も見立てを変えた相手は、たぶん他にいない。初めて会った時、私は彼女をこう評した。

 真面目で、優秀で、少々融通が利かない。

 今思えば、ずいぶん失礼な見立てだった。


* * *


 一つ目の見立て違いは、初めての打ち合わせだった。彼女が用意してきた資料はよくできていた。必要な数字も揃い、丁寧に整理されている。ただ、市場調査の数字が半年前のものだった。

「でしたら、最新の数字も添えた方がいいですね。特にこの商品は、ここ三か月で客層が変わっています」

「客層が?」

 最新の販売記録を見せると、彼女はすぐに数字の変化を理解した。私は流通経路を一つ変える案を出した。けれど、彼女はただ頷かなかった。

「この地域を経由するのはいかがでしょう」

「理由を聞いても?」

「こちらなら輸送距離は少し延びますが、中継地点にクロフォード家と取引のある倉庫があります。保管費を抑えられる可能性があります」

 改めて数字を追う。彼女の案の方がいい。

「いいですね」

「……よろしいのですか?」

「私の案より安く済みそうです」

 なぜそんなに驚くのだろうと思った。良い案なら採用する。商売では当たり前のことだ。

 その後も話しているうちに、最初の見立てが少しずつ怪しくなってきた。彼女は自分の意見を持っている。こちらの話もきちんと聞く。間違いを指摘されれば受け入れ、必要ならその場で別の案を考えることもできる。

 融通が利かない。どうやら、それは違うらしい。

 ただ、一つ気になった。

「あなたは、私が今まで会った中でもかなり真面目な人ですね」

 そう言った瞬間、彼女の表情が変わった。褒めたつもりだった。けれど、嬉しそうには見えない。

「ですが、調査資料が古いことには気付けませんでした」

「そうですね」

 彼女が目を瞬く。

「では、次から確認すればいい」

 少しだけ迷ってから、彼女は頷いた。

「……はい」

 その時、ふと思った。この人は、失敗することをずいぶん怖がっているのかもしれない。まだ、理由までは分からなかった。

 打ち合わせの終わりに、私は彼女へ言った。

「これから長いお付き合いになります。ゆっくり知っていただければ、それで十分です」

 あの時は、私のことを言ったつもりだった。けれど今思えば、ゆっくり知ることになるのは、私の方だった。


* * *


 二つ目は、市場だった。西方から新しい香辛料が入ったと聞き、予定していた打ち合わせを午後へ変更して市場へ向かった。もちろん、侯爵家には使いを出した。それでも午後になって彼女と顔を合わせると、あまり納得していないことはすぐに分かった。

「……それで予定を変更なさったのですか?」

「はい」

「今日でなければならなかったのでしょうか」

「今日でなければ駄目でした」

 今朝入ったばかりの品で、量も少ない。夕方まで待てば、他の商会に買い付けられる可能性があった。それに、共同事業にも使えるかもしれない。

 理由を説明すると、彼女はしばらく香辛料を見つめていた。

「……困った方だと思っていました」

「過去形ですか?」

「現在進行形です」

「残念です」

 思わず笑った。

「ですが」

「はい?」

「理由は、分かりました」

「それは良かった」

 それ以上は何も言わなかった。納得してほしいと頼むつもりはない。理由を知ったうえで、どう受け取るかは彼女が決めればいい。

 ただ、一つ分かった。彼女は、予定通りに進めることに固執しているわけではない。理由が分かれば、自分で考えて受け入れられる。また一つ、最初の見立てを書き換えることになった。


* * *


 その後、二人で小さな村へ行った。資料の数字だけでは分からないものを、実際に見るためだった。そこで見つけたのが、ルビー・ロッサという紅い果実だ。王都ではほとんど流通していない。売れないからではない。日持ちせず、運ぶ手段がなかったからだ。

 彼女はすぐに手帳を取り出し、村人から話を聞いていた。

「カイル様」

「はい?」

「以前使った中継倉庫を、ここでも利用できませんか?」

「私も今、同じことを考えていました」

 まだ確実ではない案を、その場で口にした。最初に会った頃なら、もう少し調べてから話していたかもしれない。少しずつ、彼女も変わっているらしい。

 そのあと、村人から勧められたルビー・ロッサを一緒に食べた。

「……おいしい」

 思わず、といった様子で声が零れる。村人が嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます。その一言が一番嬉しいんです」

「でしょう?」

 なぜか私まで嬉しくなって頷くと、彼女がこちらを見た。

「まるでご自分が育てたようなお顔ですね」

「気持ちは半分、生産者ですから」

「今、初めて食べたのでは?」

「気持ちの問題です」

 彼女が吹き出した。

「ふふ……何ですか、それ」

 声を立てて笑うところを、初めて見た。

「笑いましたね」

「笑ってはいけませんか?」

「いいえ。むしろ、もっと笑ってください」

 口にしてから、自分でも少し不思議に思った。なぜそんなことを言ったのだろう。けれど、その時は深く考えなかった。


* * *


 三つ目は、書店だった。彼女が本を好きなのだと気付いたのは、ほんの些細なことがきっかけだった。資料の間から落ちた古い栞。冒険者が海を見つめている挿絵が描かれていた。そして彼女は、書店の前を通る時だけ、ほんの少し歩くのが遅くなる。

 あの村へ行った頃からだろうか。私は以前より、彼女の表情を見るようになっていた。何を見ているのだろう。何が好きなのだろう。そんなことが、いつの間にか気になるようになっていた。商売相手の好みなど、知らなくても仕事はできるというのに。

 だからその日、私は予定を変更して書店街へ行くことにした。もちろん、仕事でもある。王都で何が読まれているかを知れば、人々が何に興味を持っているのかも見えてくる。けれど、それだけだったかと聞かれれば、少し自信がない。

 書店で彼女は、一冊の冒険譚を手に取った。

「昔は、こういう本が好きでした」

 そう言って、しばらく表紙を見つめる。やがて、小さく首を振った。

「……違いますね」

「何がです?」

「好きでした、ではありません」

 本を胸元へ引き寄せる。

「私は今も、こういう物語が好きです」

 その時の顔を、よく覚えている。何かを成し遂げた時とも、仕事を褒められた時とも違う。ただ、自分の好きなものを好きだと言っただけ。それなのに、とても嬉しそうだった。

 もっと知りたい。

 ふと、そう思った。仕事をしている時だけではない。好きなものを見つけた時。美味しいものを食べた時。腹を立てた時。困った時。楽しい時。この人には、まだどんな一面があるのだろう。

 商売とはまるで関係のない興味だった。けれど、その時の私は、それ以上深く考えなかった。


* * *


 それから、妙なことが増えた。リディアが商会へ来る日は、気付けば入口を見ることが増えた。

「会頭」

「はい」

「先ほどから入口ばかり見ていますが」

「そうですか?」

「三回目です」

 エマに指摘され、私は書類へ視線を戻した。

「人を待っているだけです」

「リディア様ですか?」

「今日、打ち合わせですから」

「そうですね」

 エマはあっさり頷き、それから書類を一枚置いて、何でもないことのように言う。

「会頭、最近ご機嫌ですね」

「私が?」

「ええ」

「仕事が順調だからでしょう」

「そうかもしれませんね」

 それだけ言って、エマは仕事へ戻った。私は少し首を傾げながら、再び書類へ目を落とす。その直後。

「おはようございます」

 入口から声がした。顔を上げると、リディアがいた。

「おはようございます、リディア様」

 自然と口元が緩んだ。

 なるほど。確かに最近、機嫌は悪くないらしい。


* * *


 ただ、一つだけ。彼女が失敗した時の顔は、好きになれなかった。

 発注書の数量を間違えた日のことだ。幸い、大きな問題にはならなかった。取引先との調整も済み、確認方法も見直した。仕事としては、それで終わりだった。けれど、彼女の中では終わっていなかった。

「私は、間違えました」

「…………」

「もっとできたはずなのに」

 その言葉を聞いた時、胸の奥がわずかに痛んだ。彼女は失敗したことより、失敗した自分自身を許せずにいるように見えた。

 だから、一つだけ尋ねた。

「昔からのご友人が、今日と同じ失敗をしたら、リディア様はその方を責めますか?」

 いくつか言葉を交わしたあと、彼女は黙り込んだ。私は待った。答えを教えるつもりはなかった。彼女が何を考え、何を選ぶのか。それは彼女自身のものだ。

 やがて、一粒の涙が零れた。

「……あの頃の私は、精一杯だったんですね」

 何のことなのか、私には分からなかった。けれど、聞く必要はないと思った。

 しばらくして、彼女は発注書を見つめながら言った。

「今日は、もう帰ろうと思います」

 思わず目を瞬いた。最初に会った頃の彼女なら、きっと残っただろう。もう一度確認して、さらにもう一度確認して、自分が十分苦しんだと思えるまで、自分を帰さなかったのかもしれない。

「それがいいですね」

 そう答えると、彼女は小さく笑った。その顔を見て、少しだけ安心した。

 彼女は彼女の速さで、前へ進んでいる。それで十分だった。


* * *


 いつから、彼女が特別になっていたのかと聞かれたら、たぶん困る。村で初めて声を立てて笑った時かもしれない。書店で「今も好きだ」と言った時かもしれない。会議で堂々と意見を言われた時かもしれない。あるいは、もっと前からだったのかもしれない。

 あの頃の私は、まだそれに名前をつけていなかった。ただ、気付けば彼女のことを考える時間が増えていた。面白い本を見つければ、彼女も好きだろうかと思う。珍しい菓子を見れば、一緒に食べたらどんな感想を言うだろうと考える。彼女が商会へ来れば、今日はどんな話をするのだろうと思う。

 それが何なのか。あの時の私は、まだ知らなかった。

 商売のことなら、数字で判断できる。利益も損失も計算できる。けれど、人の気持ちはそうはいかないらしい。ましてや、自分の気持ちとなればなおさらだ。


* * *


「会頭」

 書類を読んでいた私へ、エマが声を掛ける。

「何です?」

「リディア様がお見えです」

「分かりました」

 立ち上がる。

「やはり今日はご機嫌ですね」

「……まだ言うのですか」

「事実ですから」

「仕事が順調なんですよ」

「はい。そういうことにしておきます」

「エマ」

「お待たせしてはいけませんよ」

「……行ってきます」

 執務室を出ると、廊下の先にリディアが立っていた。私を見つけると、彼女が笑う。

「カイル様」

「お待たせしました」

 歩み寄りながら、ふと思う。最初の見立ては、ずいぶん外れた。真面目なのは合っていた。優秀なのも。けれど、それだけではなかった。

 意外と頑固で、言うべきことはきちんと言う。本が好きで、時々冗談に気付くのが遅い。そして最近は、以前よりよく笑う。

 きっと私は、まだ彼女のすべてを知らない。これから先も、新しい一面を何度も知るのだろう。そのたびに、最初の見立てを書き換えることになる。それは商売人としてどうなのだろうと思うけれど、悪くない。むしろ――。

「どうかなさいましたか?」

 見つめていたことに気付いたのか、リディアが首を傾げた。

「いいえ」

「そうですか?」

「ええ。ただ――」

「ただ?」

「今日も何か、私の予想を裏切ってくださるのかなと思いまして」

「……どういう意味ですか?」

「そのままの意味ですよ」

「褒めています?」

「もちろん」

「信用できません」

「それは残念です」

 彼女が呆れたように笑う。その隣に並び、二人で歩き出した。

 人を見る目には、自信があった。けれど今は思う。一度見ただけで、その人のことが分かるはずなどない。昨日知らなかった顔を、今日知る。今日知らなかったことを、明日知る。そうやって何度でも、相手を知り直していく。

 たぶん私は。

 それを、この人とずっと続けていきたいのだ。

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