番外編 これからのことが、楽しみなんです
結婚式から一か月ほどが過ぎた。共同事業も一段落し、ヴァレンティア商会にはいつもの日常が戻っていた。もっとも、以前とは少し違う。リディアは結婚後も商会へ顔を出し、必要な仕事を手伝っている。カイルも相変わらず忙しく、朝から商談や書類の確認に追われていた。
そんなある日の午後、エマがカイルの机へ書類を置いた。
「会頭」
「はい」
「最後に、一日中仕事をしなかったのはいつですか?」
「…………」
カイルが黙った。ちょうど書類を届けに来ていたリディアも、そっと視線を逸らす。
「リディア様」
「はい」
「なぜ目を逸らされたのですか?」
「……なんとなくです」
「昨日もいらっしゃいましたよね」
「少しだけ、お手伝いを」
「一昨日も」
「……少しだけ」
エマは深く息を吐いた。
「お二人とも、よく似ていらっしゃいますね」
「そうでしょうか」
「そうでしょうか」
二人の声がぴたりと重なった。エマは無言で二人を見つめたあと、一枚の紙を机へ置く。
「共同事業も落ち着きました。今なら数日、お二人がいなくても商会は回ります」
「ですが」
「回ります」
「まだ何も言っていませんよ」
「どうせ仕事の心配でしょう」
カイルが苦笑し、リディアも小さく笑った。
「新婚旅行にもまだ行かれていないでしょう。どこかへ出掛けてはいかがですか」
新婚旅行。その言葉を聞いて、リディアは少し考えた。
「どこか行ってみたい場所はある?」
カイルに尋ねられ、リディアは机の上に置かれた共同事業の資料へ目を落とす。
「……ロッサ島へ行ってみたいです」
「ロッサ島?」
「はい。ルビー・ロッサが育った場所を、一度この目で見てみたくて」
カイルは一瞬目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「じゃあ、決まりだね」
「そんなに簡単に?」
「行きたいんだろ?」
「……はい」
「俺も行ってみたい。なら、何も問題ないよ」
リディアは少しだけ目を瞬かせた。結婚してから、カイルは二人でいる時には敬語を使わなくなった。最初の頃は、そのたびに妙に落ち着かなかったが、一か月も経てば少しずつ慣れてくる。それでも時々、こうして夫の顔で話されると、まだ胸がくすぐったくなる。
「では、船の手配はこちらでしておきます」
エマが満足そうに頷いた。
「ずいぶん話が早いですね」
「会頭が気を変える前に進めます」
「変えませんよ」
「信用しておりません」
「手厳しいですね」
カイルは肩を竦め、その隣でリディアは楽しそうに笑っていた。
* * *
数日後、二人は王都の港からロッサ島へ向かう船に乗っていた。白い帆が大きく膨らみ、船がゆっくりと岸を離れていく。潮の香りを含んだ風が吹き抜け、遠ざかる王都の街並みが少しずつ小さくなっていった。
リディアは手すりに両手を添え、目の前に広がる海を眺めている。
「綺麗……」
「船旅は初めて?」
「はい。少し緊張していたんですけど、思っていたより楽しいです」
そう答えた直後、大きな波で船が揺れた。
「きゃっ」
身体が傾き、すぐにカイルの腕が腰を支えた。
「大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
顔を上げると、思った以上に近くにカイルがいる。リディアは一瞬黙り、それからそっと視線を逸らした。
「……カイル様」
「何?」
「もう大丈夫です」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、離そうか」
そう言いながらも、カイルはすぐには手を離さなかった。もう一度船が揺れないことを確かめてから、ゆっくりと腰から腕を離す。
「……最近、少し過保護ではありませんか?」
「そうかな」
「そうです」
「新婚だからじゃない?」
「新婚なら過保護になるものなのですか?」
「俺はなるみたいだね」
あまりにも平然と言われ、リディアは言葉に詰まった。
「……そういうことを普通に言わないでください」
「どうして?」
「困ります」
「嫌?」
「嫌とは言っていません」
カイルが楽しそうに笑う。
「なら、よかった」
「もう」
リディアは困ったように笑い、再び海へ顔を向けた。風に揺れる髪を押さえながら海を眺める横顔を、カイルはしばらく黙って見つめていた。
* * *
ロッサ島へ到着したのは午後だった。青い海を背に白壁の家々が並び、石畳の道が丘へ向かって伸びている。窓辺には色鮮やかな花が咲き、オリーブの葉が陽光を反射していた。そして丘の向こうには、一面の赤が広がっている。
「……すごい」
リディアが足を止めた。ルビー・ロッサの畑だった。赤く熟した果実が陽を受け、まるで小さな宝石を散りばめたように輝いている。
「これが、ルビー・ロッサ……」
「王都で見るものとは、また違って見えるね」
「ええ」
リディアはしばらく言葉もなく眺め、やがてその口元を緩めた。
「ここから始まったんですね」
「そうだね」
「この果実が王都へ来て、共同事業が始まって……」
そこで言葉を切り、赤い果実から隣に立つカイルへ視線を移す。
「あなたと出会いました」
カイルが黙った。
「……カイル様?」
「リディア」
「はい?」
「そういうことを、そんな顔で言うのはずるいな」
「そんな顔?」
「分からなくていいよ」
カイルは笑うと、ごく自然にリディアの手を取り、指を絡めるように繋いだ。
「カイル様」
「何?」
「最近、距離が近くありませんか?」
「夫婦だからね」
「それを言えば何でも許されると思っていません?」
「思ってないよ」
即答してから、カイルは少し笑った。
「でも、妻の手を繋ぐくらいは許してほしいな」
「……そういう言い方はずるいです」
「嫌?」
「嫌とは言っていません」
「じゃあ、このままで」
さらりと言って歩き出す。リディアは少し赤くなりながらも、その手を離さなかった。
* * *
翌日は朝から島の市場へ出掛けた。焼きたてのパンに、色鮮やかな果物。香辛料、刺繍の入った布、見たことのない形の食器。店先を覗くたびに、リディアの足が止まる。
「あ」
小さな声に、カイルも立ち止まった。
「どうした?」
「あれ……」
リディアが見ていたのは、果実をたっぷり使った焼き菓子だった。
「食べたい?」
「少しだけ」
「じゃあ、買おう」
「でも、さっきパンを食べたばかりですし……」
そこまで言って、リディアは口を閉じ、もう一度焼き菓子を見る。
「リディア」
「はい?」
「食べたいんだろ?」
「……はい」
「なら、それで十分」
リディアは一瞬黙ったあと、笑った。
「そうですね。やっぱり食べたいです」
「じゃあ、決まり」
二人で一つの焼き菓子を買い、海の見える広場のベンチへ座った。一口食べたリディアの目が丸くなる。
「美味しいです」
「本当?」
「食べてみてください」
差し出された焼き菓子を、カイルがそのまま一口食べる。その瞬間、リディアが固まった。
「……どうした?」
「いえ」
同じところから食べたことに、渡してから気付いたらしい。リディアは焼き菓子を自分の方へ引き寄せた。
「もう一口もらっていい?」
「駄目です」
「どうして?」
「駄目なものは駄目です」
「半分くれる約束じゃなかった?」
「反対側からならどうぞ」
「なるほど」
カイルは笑いながら、今度は反対側から一口食べる。
「……何ですか?」
「いや。可愛いなと思って」
「何がですか」
「リディアが」
「っ……」
リディアの耳が一気に赤くなった。
「そういうことを突然言わないでください」
「思ったから」
「全部口にしなくてもいいんです」
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、気をつけるよ」
「……本当ですか?」
「努力はする」
「信用できません」
そう言いながらも、リディアの口元は笑っていた。
* * *
午後も、二人は細かな予定を決めずに島を歩いた。気になる店があれば立ち寄り、綺麗な景色を見つければ足を止める。疲れれば木陰で休み、道端で音楽が聞こえれば少し耳を傾けた。
そんな中、小さな書店を見つける。
「あ……」
リディアの足が止まった。
「入りたいです」
「もちろん」
以前なら、仕事でもないのに寄っていいのだろうかと考えていたかもしれない。今は、迷わなかった。
店内でリディアが選んだのは、ロッサ島に伝わる昔話を集めた本だった。
「帰りの船で読みたいです」
「じゃあ、俺はこれにしようかな」
「島の交易史……?」
リディアがカイルの手元を見る。
「旅行中まで商売の本を読むんですか?」
「面白そうだから」
「それ、仕事では?」
「趣味」
「本当に?」
「半分くらいは仕事かな」
「やっぱり」
リディアが呆れたように笑う。
「何?」
「いえ。カイル様、楽しそうだなと思って」
「楽しいよ」
「それならいいです」
「許してもらえた?」
「新婚旅行ですから。好きなことをして過ごしましょう」
「じゃあ、お互いにね」
二人はそれぞれ選んだ本を手に、顔を見合わせて笑った。
* * *
夕暮れ前、二人は宿へ戻った。案内された部屋へ入ったリディアが、ぴたりと足を止める。カイルもその後ろで止まった。
広い部屋。海の見える大きな窓。そして中央には、大きな寝台が一つ。
「…………」
「…………」
二人とも黙った。結婚して一か月。夫婦にはなったものの、屋敷では互いの寝室を使うことの方が多かった。
やがてカイルが小さく咳払いする。
「新婚旅行だからね」
「そうですね」
「夫婦だし」
「……そうですね」
カイルは寝台を見て、それからリディアへ視線を戻した。
「一応聞くけど、別の部屋を用意してもらう?」
「必要ありません」
思いのほか早い返事だった。今度はカイルが黙った。
「……カイル様?」
「いや」
「どうしました?」
「少し驚いただけ」
「私も、自分で言ってから少し驚いています」
リディアはそう言って、わずかに視線を逸らした。カイルの表情が柔らかくなる。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「はい」
「……本当に?」
「何度も聞かないでください」
そう返したものの、恥ずかしくなったらしい。リディアは逃げるように窓辺へ歩いていく。
「海、綺麗ですね」
「そうだね」
「見ていませんよね?」
「今はちょっと無理かな」
リディアが振り返る。カイルは海ではなく、彼女を見ていた。
「……カイル様」
「何?」
「そういうところです」
「何が?」
「いつも私ばかり困らせるところです」
「困ってる?」
「少し」
「じゃあ、これ以上はやめておこう」
「……あっさりですね」
「嫌がることはしたくないから」
あまりにも自然に言われ、リディアはまた返事に困った。カイルが笑う。
「ほら。また困ってる」
「誰のせいですか」
「俺だね」
「分かっているなら、もう」
リディアもとうとう笑った。
* * *
夜、二人は宿を抜け出し、海岸を歩いていた。昼間の賑わいが嘘のように辺りは静かだった。月明かりが海面に細い道を作り、波が寄せては白くほどけていく。
リディアは靴を脱ぎ、波打ち際をゆっくり歩いていた。
「冷たい」
そう言いながらも楽しそうに笑い、少し先へ進んでは戻り、また波へ足を浸す。
「カイル様?」
「何?」
「来ないんですか?」
「行ってもいい?」
「もちろん」
呼ばれて、カイルも靴を脱いだ。隣へ並ぶと、ちょうど波が二人の足元へ届く。
「冷たいね」
「でしょう?」
「でも、気持ちいいな」
「はい」
リディアが笑う。その横顔を見つめていたカイルに気付き、リディアが眉を上げた。
「また見ていますね」
「気付いてた?」
「最近は」
「随分慣れたね」
「カイル様がいつも見ているからです」
さらりと言われ、今度はカイルが言葉に詰まった。
「……カイル様?」
「何でもない」
「今、困りました?」
「少しだけ」
「ふふ」
リディアが楽しそうに笑い、また歩き出す。カイルはその背中を見つめてから、ゆっくりあとを追った。
「カイル様。私、この島が好きです」
「俺も好きだよ」
「来て本当によかったです」
「うん」
リディアは海を眺め、波の音を聞きながらしばらく歩いたあと、隣にいるカイルへ視線を向ける。
「それに……」
「うん?」
「あなたと来られて、よかったです」
少し照れながらも、今度は目を逸らさなかった。カイルは一瞬だけ黙り、それからどこか困ったように笑う。
「リディア」
「はい?」
「そういうことを、そんな顔で言うのはずるいな」
「そんな顔?」
「分からなくていいよ」
カイルは足を止めると、そっとリディアの背後へ回った。
「カイル様?」
すぐには抱きしめなかった。触れるか触れないかほどの距離で一度止まり、それから確かめるように、ゆっくりと腕を回す。背中から、そっと包み込まれた。
強くはない。いつでも離れられるくらい、優しい腕だった。けれど、触れたところからカイルの温もりが伝わってくる。リディアは一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりと身体の力を抜いた。
「……どうしたのですか?」
「少しだけ、このままでいたくなった」
「甘えているのですか?」
「そうかもしれない」
「認めるのですね」
「妻になら、少しくらい甘えてもいいだろ?」
耳元で穏やかに言われ、リディアの頬が少し熱くなる。
「……ずるいです」
「何が?」
「最近、そういうことを平気でおっしゃるところです」
「嫌?」
「嫌とは言っていません」
カイルが小さく笑った。それ以上は何も言わず、ただ腕の中のリディアをそっと抱いている。リディアも、自分を包む腕へ手を重ねた。
波の音が静かに響く。潮風が二人の髪を揺らし、月明かりが海の上で淡く揺れていた。やがてリディアは、ほんの少しだけ背中を預ける。それに気付いたカイルの腕が、わずかに深くなる。けれど、やはり強くは抱きしめなかった。ただ大切なものを包むように、そっと。
二人はしばらく、そのまま海を眺めていた。
「リディア」
「はい」
名前を呼ばれ、リディアが腕の中でゆっくり振り返る。思ったより近くにカイルの顔がある。目が合い、カイルの指先がそっとリディアの頬へ触れた。
「口づけてもいい?」
リディアは一瞬目を伏せた。けれど、すぐに顔を上げる。
「……夫婦なのに、毎回聞くのですか?」
今度はカイルが目を丸くした。
「聞かない方がいい?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ?」
リディアの指先が、カイルの服をそっと摘まむ。
「たまには……聞かなくてもいいです」
カイルが黙った。その反応に、今度はリディアの方が落ち着かなくなる。
「何か言ってください」
「……それ、本当に言ってる?」
「何度も聞かないでください」
「困ったな」
「何がですか?」
「今、かなり嬉しい」
あまりにも素直に言われ、リディアの頬がさらに熱くなる。
「でしたら、今のは忘れて――」
「それは無理」
カイルの手が、逃げるように視線を逸らそうとしたリディアの頬を優しく包んだ。今度は尋ねなかった。ゆっくりと顔が近づき、リディアが目を閉じる。唇が、そっと重なった。
触れるだけの優しい口づけだった。一度離れ、また目が合う。リディアは恥ずかしそうに息を吐いた。それでも逃げずに、カイルの服を掴んだまま、ほんの少しだけ自分から距離を縮める。
カイルの瞳が柔らかく細められた。今度も何も尋ねず、もう一度唇を重ねる。二度目の口づけは、先ほどより少しだけ長かった。
波の音だけが、静かな夜に響いていた。
* * *
翌朝、窓から差し込む朝日で、リディアは目を覚ました。隣には、まだカイルがいる。いつも自分より早く起きている人が、珍しく眠っていた。
リディアは起こさないよう身体の向きを変え、そっとその顔を見る。仕事をしている時とも、自分をからかっている時とも違う、力の抜けた寝顔だった。
「……こんな顔で眠るのですね」
「どんな顔?」
「きゃっ」
突然返事があり、リディアが飛び起きた。カイルが目を開けて笑っている。
「起きていたんですか?」
「途中から」
「言ってください」
「俺の寝顔を見てる妻を邪魔するのも悪いかなと思って」
「見ていただけです」
「そんなに熱心に?」
「……カイル様だって、いつも私を見ているじゃないですか」
「それを言われると弱いな」
リディアは少し得意そうにカイルを見る。
「今日は私の番です」
「じゃあ、好きなだけ見ていいよ」
「もう起きてしまったので結構です」
「残念」
「何がですか?」
「もう少し見ていてほしかった」
「……そういうこと、朝から言わないでください」
リディアは寝台から降りる。
「今日は何をしたい?」
問われて、リディアは振り返った。
「昨日とは反対側の海岸へ行ってみたいです。それから、港の近くに小さな料理店がありましたよね。あそこで昼食を食べて、午後は昨日買った本を読みたいです」
「いいね」
「では、そうしましょう」
「うん」
リディアは満足そうに頷き、支度を始める。カイルはその背中を眺めながら、静かに笑った。
* * *
ロッサ島で過ごす最後の夜、二人はまた海辺を歩いていた。初日に見た海と同じはずなのに、もう少しだけ身近に感じる。寄せては返す波を眺めながら、二人は肩を並べて歩いた。
「次は、どこへ行きたい?」
カイルが尋ねる。リディアはすぐには答えなかった。読んだ本に出てきた湖。春になると花でいっぱいになるという北の町。まだ見たことのない街や景色が、いくつも頭に浮かぶ。
以前なら、どこへ行くべきかを考えただろう。侯爵家の娘として相応しい場所。仕事に役立つ場所。行く意味のある場所。けれど今は、少し違う。
「今度は、私が決めてもいいですか?」
「もちろん」
「では、帰ったら一緒に地図を見ましょう」
「いいね」
「私が行ってみたい場所を選びますね」
「楽しみにしてる」
カイルが差し出した手を、リディアは自然に握った。
「カイル様」
「何?」
「たくさんありますね」
「何が?」
「行ってみたい場所です」
口にすると、なんだか嬉しくなった。知らない街。知らない景色。読んでみたい本も、食べてみたいものも、まだたくさん
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
面白かったら、ブックマークや評価(★)をいただけると、とても励みになります。




