番外編 ロッサ島で、あなたと未来を歩く
結婚式から一か月ほどが過ぎた。
共同事業も落ち着き、ヴァレンティア商会には、いつもの忙しい日常が戻ってきている。
そんなある日、エマが書類を机へ置きながら言った。
「会頭」
「はい」
「そろそろ休んでください」
「休んでいますよ」
「昨日も一昨日も商会へいらっしゃいました」
「……そうでしたか」
「覚えていないのですか」
エマは小さくため息をついた。
「リディア様も同じです」
「え?」
「お二人とも働きすぎです」
ぴしゃりと言われ、カイルは苦笑した。
「共同事業も一段落しました。今しかありません」
そう言って差し出されたのは、二枚の船券だった。
「これは?」
「ロッサ島行きです」
エマは満足そうに微笑む。
「新婚旅行へ行ってきてください」
◇
数日後、二人は王都の港から船へ乗り込んでいた。
潮風が頬を撫で、白い帆が風を受けて大きく膨らむ。船はゆっくりと王都を離れ始めた。
リディアは手すりへ寄り、遠ざかる街並みを眺める。その横顔は少し緊張していて、けれど瞳はどこか嬉しそうだった。
「船旅は初めてですか?」
隣へ立ったカイルが尋ねる。
「はい」
リディアは少し照れながら笑った。
「少しだけ緊張しています」
「実は私もです」
「カイル様も?」
「妻との旅行は初めてですから」
その一言だけで、頬が熱くなる。
まだ「妻」と呼ばれることには慣れない。そんなリディアを見て、カイルは少しだけ楽しそうに笑った。
ロッサ島は、まるで一枚の絵画のようだった。
どこまでも続く青い海。白壁の家々。石畳の坂道。風に揺れるオリーブの木々。そして丘一面に広がる、真っ赤なルビー・ロッサの畑。
「なんて、きれい……」
リディアは思わず立ち止まる。
夕日に照らされた果実は、本当に宝石のようだった。
「すべてはここから始まったのですね」
「ええ」
カイルも畑を見渡す。
「この島で育った果実が王都へ運ばれ、共同事業が始まりました」
「そして、私たちは出会いました」
二人は自然と顔を見合わせた。
もしあの日、共同事業がなかったら。もしあの日、あの商会へ行かなかったら。きっと今はなかった。
翌日、二人は島をゆっくり散策した。
市場には焼きたてのパンの香りが漂い、店先には色鮮やかな果物が並ぶ。島の人々は笑顔で二人を迎えた。
「おふたり、新婚さんですか?」
「おめでとうございます」
「末永くお幸せに」
祝福されるたびに、リディアは照れながら頭を下げた。
歩き疲れた頃、小さな海辺の店へ入る。運ばれてきたのは、ルビー・ロッサを使った冷たい果実菓子だった。
「甘いですね」
「ええ。でも少し酸味もあります」
二人で顔を見合わせる。
「どこか似ていますね」
「何がですか?」
「人生です」
カイルが真面目な顔で答えた。
リディアは思わず吹き出す。
「それは少し大げさではありませんか?」
「そうでしょうか」
「ええ」
二人の笑い声が、店内へ優しく広がった。
夕暮れ。
二人は宿へ戻った。
部屋へ入ったリディアは、思わず足を止める。
「あ……」
広い部屋の中央には、大きな寝台が一つだけ置かれていた。カイルも同じように寝台を見つめ、小さく咳払いをする。
「……新婚旅行でしたね」
その一言で、二人とも顔を赤くした。
しばらく目を合わせられない。やがてリディアがくすっと笑う。
「ちょっとだけ、緊張しますね」
「ええ」
カイルも照れたように笑った。
「ですが……こうしていると、夫婦になったのだと実感します」
その言葉に、リディアの胸はじんわりと温かくなった。
夜。
二人は宿の近くの海岸を歩いていた。
波の音だけが静かに響いている。月明かりが海を銀色に照らしていた。
「夜の海、静かですね」
「ええ」
リディアはゆっくり海を眺める。
「私、この島が好きです」
「私もです」
「でも」
少し照れながら微笑む。
「一番好きなのは」
言葉が止まる。
「……?」
カイルが首を傾げた。
「あなたと一緒に見ている、この景色です」
その言葉に、カイルは少しだけ目を見開いた。
それから照れたように笑う。
「そういうことを、さらりと言うようになりましたね」
「そうでしょうか?」
「ええ」
カイルは視線を少し逸らした。
「私ばかり、どきどきしています」
その姿が可笑しくて、リディアは笑ってしまった。
「笑わないでください」
「ごめんなさい」
笑いながら謝る。
その穏やかな時間が、何より愛おしかった。
やがてカイルが立ち止まる。
「リディア」
「はい」
そっと彼女の頬へ手を添えた。
「今日は、もう答えを聞かなくてもいいですね」
「え?」
「あなたは私を選んでくださいました」
リディアは優しく微笑む。
「もちろんです」
カイルも穏やかに笑った。
「でしたら」
少しだけ照れながら言う。
「夫として、一つお願いがあります」
「何でしょう」
「……口づけをしてもいいですか」
リディアは頬を赤く染め、小さく頷いた。
「はい」
カイルはゆっくり距離を縮める。
唇がそっと重なった。
短くて、優しくて。
お互いを大切に想う気持ちが伝わる口づけだった。
離れたあとも、二人は照れくさそうに笑う。
「新婚旅行らしくなりましたね」
カイルが照れ隠しのように言う。
リディアは吹き出した。
「そういう感想なのですか」
「他に何と言えばいいのでしょう」
「ふふ」
笑いながら、そっと彼の手を握る。
その手は温かかった。
「カイル様」
「はい」
「私、この島へ来られて本当に良かったです」
「私もです」
迷いなく答える。
「景色が変わっても」
カイルは繋いだ手を少しだけ握り返した。
「仕事が変わっても」
「年を重ねても」
穏やかな笑顔で続ける。
「あなたと一緒なら、きっと幸せです」
リディアの目元が少し潤んだ。
「私もです」
それだけで十分だった。
しばらく二人は波の音へ耳を傾ける。やがてカイルが静かに尋ねた。
「次は、どこへ行きたいですか?」
リディアは少し考え、それから優しく笑った。
「あなたと一緒なら、どこへでも」
その答えを聞いたカイルも、嬉しそうに微笑む。
二人は寄り添いながら、月明かりに照らされた海を眺めた。
ロッサ島から始まった共同事業。そこで結ばれた縁。そして、自分たちで選んだ未来。
波の音は、これからも続いていく二人の人生を祝福するように、静かに響いていた。
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