第18話 これからも、あなたと
想いを伝え合った日から、数週間が過ぎた。共同事業は、いよいよ最後のまとめへ入っていた。ルビー・ロッサは王都だけでなく近隣の領地にも広がり、新たな販路も次々と決まっている。
「おはようございます、リディア様」
「おはようございます、カイル様」
朝の挨拶は以前と何も変わらない。ただ、目が合うとどちらからともなく笑ってしまうようになった。
「会頭」
「はい?」
「最近、ご機嫌ですね」
書類を抱えたエマが、何気ない顔で言った。
「仕事が順調ですから」
「そういうことにしておきます」
「……何ですか、その言い方は」
「別に?」
エマは涼しい顔で去っていく。少し離れたところでは、ニコラスがリディアに何かを確認していた。
「こちら、北部支店へ送る分です」
「ありがとうございます。あら、ここだけ数字が違いませんか?」
「えっ」
ニコラスの顔が固まる。
「……本当だ」
「まだ間に合いますよ」
「直してきます!」
「お願いします」
慌てて駆けていくニコラスを見送り、リディアが笑う。その姿を見ていたカイルの口元も、自然と緩んだ。
「会頭」
「……何です?」
「やっぱり、ご機嫌ですね」
「仕事に戻ってください」
「はいはい」
今度こそ、エマは笑いながら去っていった。
* * *
昼休み、二人は市場裏の小さな食堂へ足を運んだ。
「懐かしいですね」
席に着いたリディアが店内を見回す。
「初めてご一緒した時のお店です」
「あの時は、ずいぶん緊張していらっしゃいました」
「……覚えているのですか?」
「もちろんです」
リディアは少しだけ視線を逸らした。
「今思い返すと、恥ずかしいです」
「私は嬉しかったですよ」
「え?」
「今では、こうして一緒に昼食を取るのが当たり前になりましたから」
あまりにも自然に言われて、リディアの頬が熱くなる。
「カイル様は、そういうことを何気なくおっしゃいますよね」
「そうでしょうか」
「そうなのです」
「では、気をつけます」
「……それはそれで困ります」
口にしてから、リディアは目を瞬いた。カイルも一瞬黙り、やがてその口元が楽しそうに緩む。
「では、このままで」
「もう……」
焼きたてのパンを食べながら、最近読んだ本や市場で見つけた珍しい品の話をした。特別なことなど何もない。それでも、リディアはこんな時間が好きだった。
* * *
午後、共同事業最後の報告会が開かれた。
「北部への販路は順調です」
「加工品も、当初の予想を上回っています」
「来月から新しい取引も始まる予定です」
報告が読み上げられるたび、会議室の空気が明るくなる。リディアは手元の資料へ目を落とした。そこには、自分たちが積み重ねてきた仕事の結果が数字となって並んでいる。
最初からうまくできたわけではない。分からないことも、間違えたこともあった。そのたびに誰かに聞き、皆で考え、やり直してきた。それでも、ここまで来た。
「最後に」
カイルが立ち上がった。
「皆さん、本当にありがとうございました。この事業がここまで育ったのは、一人の力ではありません。ここにいる全員が、それぞれできることを積み重ねてくださった結果です」
職員たちが顔を見合わせる。
「そして、私たちに新しい視点をくださった方にも、感謝しています」
カイルの視線がリディアへ向き、拍手が広がった。一瞬だけ、胸の奥が落ち着かなくなる。
以前なら、すぐに否定していただろう。自分だけの力ではない。もっと頑張った人がいる。自分が褒められるほどではない。けれど今は、リディアは立ち上がり、その言葉をまっすぐ受け取った。
「ありがとうございます。私一人では、ここまで来られませんでした。皆さんと一緒に仕事ができたことを、とても嬉しく思っています」
顔を上げると、エマが笑っていた。ニコラスが誰よりも大きく拍手している。そしてカイルも、嬉しそうに笑っていた。リディアも笑う。
できなかったことではなく、できたことを喜んでいい。ようやく、そう思えるようになっていた。
* * *
夕方、仕事を終えた二人は川沿いの遊歩道を歩いていた。夕日が川面を金色に染め、涼しい風が髪を揺らしていく。
「ここへ来るのも久しぶりですね」
「そうですね」
リディアは川へ目を向けた。以前ここを歩いた時、カイルに聞かれた。本当は、どうしたいのですか、と。あの頃は、自分の望みを口にするだけでも勇気が必要だった。今では、それが少し懐かしい。
「リディア」
「……はい?」
足が止まった。初めて呼び捨てにされた名前が、思っていた以上に優しく胸へ届く。振り返ると、カイルは少しだけ緊張したように笑っていた。
「私は、予定通りに生きるのが苦手です」
「知っています」
「即答ですか」
「何度振り回されたと思っているのですか」
「それは申し訳ありません」
「本当にそう思っています?」
「……半分ほどは」
「カイル様」
二人で笑う。その笑いが収まるのを待ってから、カイルは改めてリディアを見た。
「これから先も、きっと予定通りにはいかないと思います。間違えることもあるでしょうし、考えが合わないこともあるかもしれません」
リディアは黙って聞いていた。
「それでも、そのたびに二人で考えていきたい」
カイルが手を差し出す。
「あなたと、これからも一緒にいたい」
一度だけ息を吸い、まっすぐリディアを見つめた。
「私と結婚してください」
胸の奥が熱くなった。けれど、迷いはなかった。家柄でも、条件でも、誰かに勧められたからでもない。この人と一緒にいたい。嬉しいことも、思い通りにならないことも、この人となら一緒に考えていきたい。それが、リディア自身の望みだった。
だから今度は、待たなかった。差し出された手へ、自分から手を重ねる。
「はい」
カイルの瞳がわずかに揺れた。リディアは笑う。
「私も、あなたと一緒に生きていきたいです」
その瞬間、カイルの肩から力が抜けた。
「……良かった」
「そんなに不安だったのですか?」
「もちろんです」
「カイル様でも?」
「私を何だと思っているのですか」
「予定変更に強い方です」
「これは予定変更されたくありません」
リディアは吹き出した。
「では、ご安心ください」
「はい?」
「今のところ、変更する予定はありません」
「今のところ?」
「未来のことは分かりませんから」
カイルが目を丸くする。リディアは少しだけ得意げに笑った。
「分からないことを、今から心配しても仕方がないのでしょう?」
一拍置いて、カイルが笑い出した。
「本当に、ずいぶん変わりましたね」
「そうでしょうか」
「ええ」
「でも、これも私です」
「そうですね」
カイルが重ねた手を握る。
「私の好きなリディアです」
また頬が熱くなった。
「……そういうことを急に言うのは、ずるいです」
「気をつけましょうか?」
「それは……」
リディアは少し考えた。
「たまになら、許します」
「分かりました」
目が合って、二人で笑った。川面では、夕日の光が揺れている。
――本当は、どうしたいのですか。
かつては答えられなかった問い。けれど今なら、答えられる。
過去をなかったことにする必要はない。間違えたことも、迷ったことも、傷ついたこともある。それも含めて、自分の人生だった。そして、これから先は、正しいかどうかではなく、自分がどうしたいのかを考えていけばいい。
リディアは隣にいるカイルを見上げた。この人と歩いていきたい。今は、それが自分の答えだった。
重ねた手を、自分から少しだけ強く握る。カイルも同じように握り返した。
「帰りましょうか」
「はい」
二人はもう一度歩き出す。夕暮れの川沿いを、同じ歩幅で。
これから先も、きっと予定通りにはいかない。それでも、そのたびに二人で考えればいい。隣には、同じ景色を見ながら歩いていきたい人がいる。それだけで、今は十分だった。
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