第18話 これからも隣で
想いを伝え合った日から、数週間が過ぎた。
共同事業は、いよいよ最後のまとめへ入っていた。ルビー・ロッサは王都だけでなく近隣の領地にも広がり、新たな販路も次々と決まっていく。
商会の中は今日も忙しい。けれど、その忙しさは以前とは違っていた。
誰もが笑顔だった。
成功を確信しているからだ。
「おはようございます、リディア様」
「おはようございます、カイル様」
朝の挨拶も、もうすっかり日常になっていた。けれど、恋人になってからは少しだけ違う。
目が合うと自然に笑ってしまう。その笑顔につられるように、相手も笑う。ほんの小さな変化だった。
けれど、それだけで一日の始まりが少し幸せになる。
「会頭」
横からエマが声を掛ける。
「はい?」
「最近、ご機嫌ですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
即答だった。
「以前より笑顔が増えました」
カイルは照れたように笑う。
「仕事が順調ですから」
「もちろん、それだけではありませんよね」
エマは意味ありげに微笑み、そのまま仕事へ戻っていった。
その視線の先では、リディアが職員たちと楽しそうに話している。その笑顔を見るだけで、カイルの頬は自然と緩んだ。
昼休み。
二人は市場裏の小さな食堂へ足を運んでいた。
「懐かしいですね」
リディアが笑う。
「初めてご一緒した時のお店です」
「あの時は、随分緊張していらっしゃいました」
「今思い返すと恥ずかしいです」
「私は嬉しかったですよ」
「え?」
「こうして一緒に昼食を取れるようになって」
さらりと言われ、リディアは思わず頬を染めた。
「どうかなさいましたか?」
不思議そうに首を傾げるカイルに、リディアは小さく笑う。
「カイル様は、そういうことを何気なくおっしゃいますよね」
「そうでしょうか」
「そうなのです」
二人で顔を見合わせ、笑った。
焼きたてのパンを頬張りながら、本の話や市場で見つけた珍しい品の話をする。どれも他愛のない会話だった。
けれど、その何気ない時間が、今は何より大切だった。
午後。
共同事業最後の報告会が開かれた。
各地から届いた報告は、どれも喜ばしいものばかりだった。
「北部への販路も順調です」
「加工品も好調です」
「来月から新しい取引も始まります」
報告が終わるたび、会議室には拍手が起こる。
最後にカイルが立ち上がった。
「皆さん、本当にありがとうございました」
穏やかな声が響く。
「この事業がここまで成功したのは、一人の力ではありません。ここにいる皆さんが、それぞれの力を貸してくださったからです」
職員たちの表情が誇らしげに輝く。
「そして」
カイルはリディアへ視線を向けた。
「新しい風を運んでくださった方にも、感謝しています」
一斉に拍手が起こった。
リディアは驚き、慌てて首を振る。
「私は……」
「いいえ」
カイルは優しく微笑む。
「あなたがいてくださったから、私たちは新しい景色を見ることができました」
胸がいっぱいになる。
自然と笑みがこぼれた。
夕方。
職員たちは口々に挨拶を交わしながら帰っていく。賑やかだった商会は、少しずつ静けさを取り戻していった。
会議室には、リディアとカイルだけが残っている。
窓の外では夕日が街を茜色に染めていた。
「終わってしまいましたね」
リディアがぽつりと呟く。
カイルは静かに頷いた。
「少し寂しいですか?」
「はい」
素直に答えた。
「毎日ここへ来るのが当たり前になっていましたから」
少し照れながら笑う。
「私もです」
カイルは窓の外へ目を向けた。
「共同事業は、今日で一区切りです」
「はい」
「最初は、この事業が終われば、それで終わりだと思っていました」
少しだけ苦笑する。
「ですが、終わりが近づくにつれて気付いたのです」
リディアは静かに耳を傾ける。
「このまま毎日お会いできなくなる未来を想像すると、どうにも落ち着かなくて」
照れたように笑う。
「仕事が終わることが寂しいのではありません」
一歩、リディアへ近づく。
「あなたと離れることが、寂しかったのです」
胸が熱くなる。
リディアは何も言えなかった。
ただ、その言葉が嬉しかった。
「少し歩きませんか」
「はい」
◇
二人は最初によく歩いた川沿いの遊歩道へ向かった。
夕焼けが川面を黄金色に染めている。風が心地良かった。
「ここへ来るのも久しぶりですね」
リディアが笑う。
「最初に一緒に歩いた頃は、こんな日が来るとは思いませんでした」
「私もです」
静かに歩く。
もう沈黙は気まずくなかった。
隣にいるだけで安心できる。
そんな関係になっていた。
やがてカイルが足を止める。
「リディア」
名前で呼ばれる。
その声が、優しく胸へ響いた。
「はい」
振り返ると、カイルは少し照れたように笑っていた。
「私は予定通りに生きるのが苦手です」
「知っています」
「でしょうね」
二人とも笑った。
緊張が少しだけ和らぐ。
「ですが」
その瞳は真剣だった。
「あなたと過ごす未来だけは、ずっと望んでいました」
胸が熱くなる。
「予定通りにならない人生でもいい」
優しい声だった。
「失敗してもいい」
これまで何度も救われてきた声。
「遠回りしてもいい」
カイルはそっと手を差し出す。
「だから」
一瞬だけ緊張したように息を吐く。
それから微笑んだ。
「私と結婚してください」
リディアの目から涙が零れる。
正しいからではない。
条件が良いからでもない。
ただ、この人と一緒にいたい。
そう思えたから。
リディアは差し出された手を取った。
「はい」
迷いなく答える。
「喜んで」
その瞬間、カイルが心から安堵したように笑った。
その笑顔を見て、リディアも笑う。
夕暮れの風が二人の間を優しく吹き抜ける。
初めて市場を歩いた日。
一緒に昼食を食べた日。
本を貸し借りした日。
「本当はどうしたいのですか」と問い掛けられた日。
失敗ではなく、経験だと教えてもらった日。
想いを伝え合った日。
一つひとつの思い出が、胸の中で温かく重なっていく。
あの日、婚約を解消された時には想像もしなかった未来だった。
あの別れは、終わりではなかった。
自分の人生を、自分で選び直すための始まりだったのだ。
未来に答えはない。
正解もない。
それでも。
自分たちで選んだこの未来なら、何度でも歩いていける。
失敗しても。
遠回りしても。
二人なら。
そう信じられた。
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