第17話 想いを伝えて
リディアが覚悟を決めてから、数日が過ぎた。
共同事業は変わらず順調だった。職員たちは忙しく働き、商会には今日も活気が満ちている。
周囲から見れば、いつもと変わらない日常だった。けれど、リディアの胸の内だけは違っていた。
伝えよう。
自分の気持ちを。
そう決めてから、ずっと機会を探していた。緊張はする。怖くないわけではない。
それでも逃げたくはなかった。
これは誰かに求められた答えではない。
自分で選んだ一歩だから。
◇
その日の夕方。
仕事を終えたリディアは商会の庭園へ向かった。裏庭にある小さな庭園には季節の花が咲き、夕暮れの柔らかな光が辺りを包んでいた。
そのベンチに、カイルが一人座っている。
何かを考えるように、静かに空を見上げていた。
「カイル様」
声を掛ける。
カイルは振り返り、少し驚いたように目を瞬かせた。
「リディア様」
すぐに穏やかな笑顔になる。
「どうしました?」
その笑顔を見るだけで、胸が温かくなった。
やはり好きだ。
その想いは、もう揺らがない。
「少し、お話がしたくて」
カイルは優しく隣を示した。
「もちろんです」
リディアはゆっくり腰を下ろす。鼓動が早い。けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。
しばらく沈黙が流れる。風が花を揺らし、遠くから職員たちの笑い声が聞こえてきた。
穏やかな時間だった。
「私」
リディアは静かに口を開く。
「ずっと正しい答えを探していました」
カイルは何も言わず耳を傾ける。
「侯爵令嬢として。婚約者として。失敗しないように。期待に応えられるように」
あの頃は、それだけを考えていた。
何がしたいかではなく。
何が正しいかだけを。
「でも」
小さく笑う。
「幸せにはなれませんでした」
今なら、その事実も受け入れられる。過去を責めることなく、自分を責めることなく。
「それはリディア様が悪かったからではありません」
カイルが静かに言う。
リディアは頷いた。
「はい」
微笑みながら続ける。
「あの頃の私は、あの頃の私なりに精一杯だったのだと思います」
その言葉を口にすると、胸の奥が少し温かくなった。
カイルも優しく微笑む。
その笑顔が、最後の勇気をくれた。
「そして今は」
リディアは胸へ手を当てる。
「あの日までの私なら、誰かが決めてくれるのを待っていました。相手が選んでくれるのを待っていました」
一度、息を吸う。
「でも、もう違います」
真っ直ぐカイルを見る。
「私は、自分で選びたいと思っています」
カイルの表情が静かに引き締まる。
しばらく見つめ合う。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「その前に、一つだけ聞いてもよろしいですか」
「はい」
「もし私が商会を失ったら、どうしますか」
思いがけない問いだった。
けれどリディアは迷わなかった。
「一緒に次の方法を考えます」
「男爵位を失っても?」
「変わりません」
「財産まで失ったら?」
「それでもです」
静かな声だった。
けれど、少しも揺らがない。
カイルは小さく笑った。
「安心しました」
「安心?」
「ええ」
ゆっくりとリディアを見つめる。
「あなたが見てくださっていたのは、肩書きでも商会でもなく、私自身だったのですね」
その言葉に、リディアは首を横に振った。
「当然です」
頬が少し熱くなる。
それでも目は逸らさない。
「私は、商会長だから好きになったわけではありません」
一度だけ深呼吸をする。
「カイル様だからです」
庭園が静まり返る。
夕風だけが優しく吹いていた。
「私は……」
少し照れながら笑う。
「あなたが好きです」
ようやく伝えられた。
ずっと胸に抱いてきた想いだった。
カイルは何も言わなかった。
驚いたように、ただリディアを見つめている。
やがて、小さく笑った。
「……参りました」
その笑顔は、どこまでも優しかった。
「本当は」
一度言葉を切る。
「私から、お伝えするつもりだったのですが」
少し困ったように笑う。
「先を越されてしまいましたね」
その一言に、リディアも思わず笑ってしまう。張り詰めていた緊張が、少しだけほどけた。
カイルはゆっくり立ち上がる。
そして、リディアの前へ歩み寄った。
「最初は、放っておけない人だと思っていました」
穏やかな声が響く。
「真面目で、人のためには頑張れるのに、自分には優しくなれない人でした」
懐かしそうに微笑む。
「もっとあなたに笑ってほしいと思いました」
一歩、近づく。
「もっとあなたのことを知りたいと思いました」
そして。
「気付けば」
優しく目を細める。
「あなたが笑う理由になりたいと、そう願うようになっていました」
リディアの瞳が揺れる。
「あなたが笑うと嬉しい。落ち込んでいると気になる。一緒にいる時間が、何より心地いい」
静かに息を吸う。
「リディア様」
真っ直ぐ見つめる。
「私も、あなたを愛しています」
その瞬間、リディアの目から涙がこぼれた。
悲しい涙ではない。
胸いっぱいに広がる、幸せの涙だった。
「ありがとうございます……」
それしか言えなかった。
カイルは少しだけ困ったように笑う。
「泣かせるつもりはなかったのですが」
「嬉しくて……」
二人とも笑う。
夕暮れの庭園に、穏やかな笑い声が溶けていった。
やがてカイルは、ためらうように右手を差し出す。
「手を……つないでもよろしいですか」
その言葉に、リディアは涙を拭って微笑んだ。
「はい」
そっと手を重ねる。
指先から伝わる温もりは、思っていたよりも優しかった。
その温もりを確かめるように、お互い少しだけ力を込める。
もう言葉はいらなかった。
夕暮れの風が二人の間を静かに吹き抜ける。
その温もりだけで、十分だった。




