第17話 正解じゃなくても
リディアが覚悟を決めてから、数日が過ぎた。共同事業は変わらず順調で、商会には今日も朝から人の出入りが絶えない。周囲から見れば、いつもと変わらない日常だった。けれど、リディアの胸の内だけは違っている。
伝えよう。自分の気持ちを。
そう決めてから、ずっと機会を探していた。緊張はする。怖くないわけでもない。それでも、もう逃げようとは思わなかった。これは誰かに求められた答えではない。自分で決めたことだから。
* * *
その日の夕方、仕事を終えたリディアは、商会の裏手にある小さな庭園へ向かった。季節の花々が夕風に揺れ、柔らかな光が庭を包んでいる。ベンチには、カイルが一人で座っていた。
「カイル様」
声をかけると、カイルが振り返った。
「リディア様」
少し驚いたように目を瞬かせ、それからいつものように笑う。
「どうしました?」
「少し、お話がしたくて」
「もちろんです」
カイルが隣を示し、リディアは腰を下ろした。鼓動が速い。膝の上で重ねた指先にも、わずかに力が入っていた。
「私、ずっと正しい答えを探していました。侯爵令嬢としても、婚約者としても、間違えないようにしなければと思っていました。でも、今は少し違います」
「違う?」
「はい」
リディアは小さく笑った。
「あの頃の私は、あの頃の私なりに精一杯だったのだと思えるようになりました」
カイルは何も言わず、ただ続きを待っている。いつもそうだった。答えを押しつけるのではなく、自分で見つけるまで待ってくれた。
「それから、もう一つ分かったことがあります」
「何でしょう?」
「誰かが答えをくれるのを待たなくてもいいのだと」
リディアはカイルを見る。
「自分がどうしたいのか、自分で決めてもいいのだと、ようやく思えるようになりました」
カイルの表情がわずかに変わった。リディアの鼓動がさらに速くなる。それでも、目を逸らさなかった。
「私は、カイル様といる時間が好きです。仕事の話をするのも、本の話をするのも、一緒に市場を歩くのも好きです。予定が変わった時に、二人で笑うのも」
「……はい」
「最初は、不思議な方だと思っていました」
「それは、あまり否定できませんね」
リディアの口元が緩んだ。
「予定通りに動いてくださらないので、困ったこともありました」
「申し訳ありません」
「でも、今はそれも嫌いではありません」
「それは良かった」
二人で小さく笑う。張り詰めていたものが、少しだけほどけた。リディアは膝の上で握っていた手を緩める。
「カイル様」
「はい」
今度こそ、まっすぐ目を見た。
「私は、あなたが好きです」
静かな声だった。けれど、迷いはなかった。
「商会の会頭だからでも、伯爵だからでもありません。あなたと一緒にいたいと、私が思ったんです」
風が二人の間を通り抜けた。カイルは何も言わず、ただ驚いたようにリディアを見つめている。数秒が、ひどく長く感じられた。
やがてカイルが息を吐く。
「……先を越されてしまいましたね」
「え?」
「本当は、私からお伝えするつもりだったんです」
困ったように、それでも嬉しそうに笑っている。その表情を見た瞬間、リディアの肩から力が抜けた。
「では……」
「はい」
カイルはゆっくり立ち上がり、リディアの前へ回った。
「最初は、放っておけない人だと思っていました。人のためにはいくらでも頑張れるのに、ご自分にはずいぶん厳しい方だな、と」
「……そうでしたね」
「それがいつの間にか、あなたが商会へ来るのを楽しみにしていました。面白いものを見つければ話したくなる。本を読めば感想を聞きたくなる。綺麗な景色を見れば、一緒に見たいと思う」
カイルは少しだけ笑った。
「共同事業が終われば、あなたに会う理由までなくなってしまうような気がして。それが嫌だったんです」
リディアはしばらく彼を見つめ、ふっと笑う。
「理由がなくても、会えばいいのではありませんか?」
カイルが黙った。一拍遅れて、声を立てて笑う。
「本当に、その通りですね」
「カイル様が教えてくださったことでしょう。予定より、大切なことを優先するのだと」
「これは一本取られました」
リディアも笑った。やがてカイルの表情が、ゆっくりと真剣なものへ変わる。
「リディア様」
「はい」
「私も、あなたが好きです」
胸の奥が熱くなった。
「理由がなくても会いたい。あなたと話したいし、隣で笑っていたい」
カイルが微笑む。
「これから先も、私の隣にいてくださいますか?」
以前なら、正しい返事を探していたかもしれない。けれど今は、探す必要などなかった。
「はい」
リディアは笑った。
「私が、そうしたいです」
言葉にした途端、視界が少しだけ滲んだ。カイルが困ったように眉を下げる。
「泣かせるつもりはなかったのですが」
「違います。これは……嬉しくて」
「それなら、安心しました」
リディアは指先で涙を拭い、笑った。カイルも笑う。それから少しためらうように、右手を差し出した。
「手をつないでもよろしいですか?」
「はい」
リディアは自分から、その手に手を重ねた。温かい。カイルの手に少しだけ力がこもり、リディアも握り返した。
それは、誰かに決められた未来ではない。正しいから選んだ道でもない。自分がこの人と歩いていきたいと思ったから、選んだ。
夕暮れの庭を、柔らかな風が吹き抜けていく。リディアは隣に立つカイルを見上げた。目が合い、どちらからともなく笑った。
もう、理由はいらない。
会いたい時には、会えばいい。




