第16話 今度は、私から
その日の帰り道、リディアは馬車の窓から夕暮れの街並みを眺めていた。店じまいを始める商店、家路を急ぐ人々、通りの向こうで手を振り合う親子。景色はゆっくりと後ろへ流れていく。
リディアは膝の上に置いた手を、そっと握った。夜会でロイと話してから、胸の奥にあったものが少し軽くなった気がしていた。過去をなかったことにしたわけではない。あの頃の自分も、自分なりに精一杯だった。そう思えるようになっただけだ。
そして今、リディアの心には別の人がいる。カイル。その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が少し温かくなった。
* * *
屋敷へ戻ると、リディアは自室の本棚の前に立った。そこには、商会へ通うようになってから増えた本が並んでいる。冒険譚、旅行記、歴史書。その中から、一冊の旅行記を手に取った。いつか行ってみたいと思っている、あの港町の本だ。
白い街並み。青い海。夕暮れに金色へ染まる水面。ページを開けば、今でも胸が弾む。そして、その景色を思い浮かべる時、いつからか隣にはカイルがいた。
「……やっぱり、一緒に見たいです」
小さく呟く。
カイルといる時間が好きだ。一緒に仕事をするのも、本の話をするのも、予定外の出来事に二人で笑うのも。会えない日は少し寂しくて、明日会えると思うと嬉しい。その気持ちには、もうとっくに名前がついている。
好き。
問題は、その先だった。
リディアは旅行記を閉じた。このままでも、きっと楽しい。商会へ行けば会える。一緒に仕事をして、ときどき市場へ出て、帰りに書店へ寄る。今の関係を壊さなければ、それはこれからも続くかもしれない。だからこそ、怖かった。想いを伝えて、カイルが同じ気持ちでなかったら、今までのようにはいられなくなるかもしれない。
「……怖いですね」
声にすると、少しだけ胸が苦しくなった。けれど、リディアは本の表紙へ目を落とす。
――本当は、どうしたいのですか?
いつかカイルに聞かれた言葉を思い出す。できるかどうかではなく、正しいかどうかでもなく、自分はどうしたいのか。
答えは、もう分かっていた。
「伝えたい」
今度は、はっきりと言った。
怖くても、うまくいくか分からなくても、好きだという気持ちをなかったことにはしたくない。
リディアは窓辺へ歩いた。窓を開けると、夕暮れの風が頬を撫でる。以前の自分なら、きっと待っていただろう。相手が気づいてくれるのを。相手が答えを差し出してくれるのを。けれど今は、自分から選びたい。
カイルがどう答えるかは、カイルが決めること。そして、自分の気持ちを伝えるかどうかは、自分で決めていい。
それなら。
リディアは小さく息を吸った。
「明日、会いに行きましょう」
口元に、自然と笑みが浮かぶ。仕事があるからではない。共同事業のためでもない。自分が、会いたいから。
会って、自分の言葉で伝えよう。
好きです、と。
夕暮れの空を見上げながら、リディアはもう一度、小さく笑った。怖さはまだ残っている。それでも明日は、自分から一歩を踏み出そうと思った。
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると励みになります。




