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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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15/22

第15話 そういうことですか

 夜会から数日が過ぎても、カイルの頭には時折あの夜のことが浮かんでいた。正確には、夜会そのものではない。リディアが元婚約者のロイと二人でテラスへ出ていったことだ。何を話していたのだろう。そう思うことが、一度や二度ではなかった。

 もちろん、聞くつもりはない。戻ってきたリディアは「話せて良かった」と言っていた。それなら、それでいい。「過去と仲直りできた気がします」と笑った彼女を見て、自分も嬉しかった。――そのはずなのだが。

「会頭」

 声をかけられ、カイルは顔を上げた。ニコラスが書類を抱えて立っている。

「先ほどから、同じところを読んでいませんか?」

「……そうですか?」

「はい。かなり長いこと」

「気のせいでしょう」

「そういうことにしておきます」

 妙に含みのある言い方を残し、ニコラスは書類を机へ置いた。

「北方からの追加注文です。確認をお願いします」

「分かりました」

「今度はちゃんと読んでくださいね」

「ニコラス」

「失礼しました」

 まったく反省していない顔で去っていく。カイルは小さく息を吐き、手元の書類へ視線を戻した。確かに、同じ一文を三度ほど読んだ気がする。

「……らしくありませんね」

 誰にも聞こえない声で呟き、今度こそ仕事へ意識を戻した。


* * *


 その日の午後、商会に一人の青年が訪れた。南部で複数の商店を営む商家の次男、アーノルド・レイナー。二十五歳。父親の商会を手伝いながら、最近では王都との取引も任されている。今回、ルビー・ロッサを使った加工品を南部でも扱いたいという話があり、その打ち合わせに訪れたのだ。

「こちらが、共同事業を担当されているリディア様です」

 カイルが紹介すると、アーノルドは丁寧に一礼した。

「お会いできて光栄です。お噂は伺っています」

「噂、ですか?」

「贈答用の商品を提案されたのは、リディア様だとか」

「私一人で考えたわけではありません。皆さんと話している中で出た案です」

「それでも、実際に形にされたのでしょう? 南部でも評判ですよ」

 まっすぐ褒められ、リディアが少し照れたように笑う。

「ありがとうございます」

 カイルはそのやり取りを聞きながら、資料を開いた。

 商談は順調に進んだ。アーノルドは若いが商売に慣れている。話も早く、こちらの条件もよく理解していた。南部での販売方法、輸送にかかる日数、商品の保存期間、贈答用として扱う場合の価格。リディアも必要なところで意見を出し、話は予定していた時間より早くまとまった。

「では、こちらの条件で進めましょう」

「ありがとうございます」

 アーノルドが資料を閉じる。そこで彼の視線が、机の端に置かれていた一冊の本へ向いた。

「それは旅行記ですか?」

 リディアが目を瞬かせる。

「あ、はい。少し前に買ったものです」

「北方の港町ですね」

「ご存じなのですか?」

 リディアの声が少し弾んだ。カイルは何となく顔を上げる。

「ええ。昨年、仕事で一月ほど滞在しました」

「一月も?」

「冬でしたけれどね。夏とはまったく景色が違うんですよ」

「そうなのですか?」

 リディアが身を乗り出す。好きなものについて話す時の顔だ。目が少し輝いて、いつもより言葉が増える。カイルはその表情をよく知っていた。

「港の北側に古い灯台がありまして。そこから見る夕暮れが綺麗なんです」

「旅行記には載っていませんでした」

「地元の人しか行かない場所ですから。もし行かれることがあれば、ぜひ。ほかにも面白い場所がありますよ」

「行ってみたいです」

 リディアも楽しそうに笑った。

 その瞬間、カイルは妙な感覚を覚えた。何かがおかしい。商談はうまくいった。条件にも問題はない。アーノルドにも悪いところは見当たらない。むしろ話しやすく、信用できそうな青年だ。なのに。

「カイル様?」

 呼ばれて顔を上げる。

「はい?」

「どうかなさいましたか?」

「いえ」

 リディアが不思議そうにこちらを見ている。

「何でもありません」

 そう答えると、アーノルドが再び口を開いた。

「そうだ。旅行記がお好きでしたら、南部について書かれた本も面白いですよ」

「南部の?」

「ええ。今度王都へ来る時に、よろしければお持ちします」

「本当ですか?」

「もちろんです」

 リディアが嬉しそうに笑う。

「ありがとうございます」

 まただ。カイルは手元の資料へ視線を落とした。別に、おかしなことではない。本を貸すだけだ。自分だって何度も貸している。むしろ共通の趣味がある相手と話が弾むのは当然だろう。

 ――共通の趣味。

 なぜか、その言葉が妙に引っかかった。

「会頭?」

 今度はアーノルドに呼ばれた。

「何でしょう?」

「最後にこちらへ署名を」

「ああ、失礼しました」

 カイルは何事もなかったようにペンを取った。


* * *


「感じのいい方でしたね」

 アーノルドを見送ったあと、リディアが言った。

「そうですね」

「南部のお話も面白かったです」

「ええ」

「おすすめの旅行記も持ってきてくださるそうです」

「聞いていました」

「……カイル様?」

 リディアが首を傾げる。

「何ですか?」

「今日は少し変ではありませんか?」

「そうでしょうか」

「はい」

 即答され、カイルは一瞬言葉に詰まる。

「お疲れなのでは?」

「そうかもしれませんね」

「でしたら、少し休んでください。以前のように昼食を抜いたりしていませんよね?」

「今日は食べましたよ」

「それなら良かったです」

 心配そうだった表情が少し緩む。それを見ただけで、先ほどまでの妙な引っかかりも少し薄れた。

「では、私はこの資料をエマに渡してきますね」

「お願いします」

 リディアが部屋を出ていく。その背中を目で追っていると、隣から声がした。

「なるほど」

 カイルはゆっくり振り返った。いつの間に来たのか、ニコラスが書類を抱えて立っている。

「何がです?」

「いえ、何でも」

「今、明らかに何か言いましたよね」

「独り言です」

 ニコラスは涼しい顔で答えた。

「ところで会頭」

「はい」

「先ほどのレイナー様、ずいぶんリディア様と話が合っていましたね」

「そうですね」

「年も近そうですし」

「それが何か?」

「いえ。別に」

 ニコラスは書類を机へ置く。

「感じのいい方でしたね」

「リディア様と同じことを言いますね」

「おや、リディア様も?」

「言っていましたよ」

「そうですか」

 なぜかニコラスの口元が緩んだ。

「何です、その顔は」

「何でもありません」

「今日はそればかりですね」

「会頭も先ほどおっしゃっていましたよ」

 返す言葉がない。ニコラスは満足そうに一礼した。

「では、失礼します」

 扉へ向かいかけて、ふと振り返る。

「南部との取引、増えるといいですね」

「もちろんです」

「そうすれば、レイナー様も王都へ来る機会が増えそうですし」

「……ニコラス」

「失礼します」

 今度こそ逃げるように出ていった。カイルは閉じた扉を見つめる。

「まったく……」

 余計なことを言う。アーノルドが王都へ来る。それがどうしたというのだ。仕事なのだから当然だ。それにリディアが誰と話そうと、彼女の自由だ。旅行記を借りることだって、楽しそうに話すことだって、何もおかしくない。分かっている。分かっているのに、どうにも面白くない。

 そこまで考えて、カイルの手が止まった。

「……面白くない?」

 自分で口にした言葉に眉を寄せる。なぜだ。


* * *


 夕方、仕事を終えたリディアが執務室へ顔を出した。

「カイル様」

「はい」

「今日は先に失礼します」

「分かりました。お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

 そのまま帰るのかと思ったが、リディアは扉のところで立ち止まった。

「あの」

「何でしょう?」

「今度、書店へ行く時にお付き合いいただけますか?」

「もちろんです」

 考えるより先に答えていた。リディアが笑う。

「良かった。新しい旅行記が入ったそうなんです」

「港町の?」

「それも見たいのですが、今度は南部のものも探してみようかと」

 一瞬、昼間の青年の顔が浮かんだ。

「アーノルド様がお話しされていたからですか?」

「それもあります」

 リディアは楽しそうに頷いた。

「知らない場所の話を聞くと、もっと知りたくなってしまって」

「そうですか」

「カイル様は南部にも行ったことがありますよね?」

「何度か」

「でしたら、おすすめを教えてください」

 何の迷いもなく言われ、カイルは瞬きをした。

「私でいいのですか?」

「もちろんです」

 リディアが不思議そうな顔をする。

「カイル様と本を探すの、楽しいですから」

 それだけ言って、彼女は笑った。

「では、また明日」

「……ええ。また明日」

 扉が閉じる。静かになった執務室で、カイルはしばらく動かなかった。やがて、椅子の背へ身体を預ける。

 ロイと何を話していたのか、気になった。今日も、リディアが別の男と楽しそうに話しているのを見て、妙に落ち着かなかった。姿が見えれば目で追う。笑っていれば、自分まで嬉しくなる。好きなものの話をしている時の表情も知っている。面白いものを見つければ、教えたくなる。仕事が終わったあとも、もう少し一緒にいたいと思う。そしてどうやら、自分以外の誰かが彼女を楽しそうに笑わせているのは、あまり面白くないらしい。

 そこまで考えて、ようやくすべてが一本につながった。

「……そういうことですか」

 小さく呟く。最初は、放っておけなかっただけだった。頑張りすぎて、自分を責めてばかりいる人。だから、少し肩の力を抜ければいいと思った。それだけだったはずなのに。

 いつからだろう。彼女が商会へ来ると嬉しくなった。姿が見えないと、どこにいるのか気になった。笑っていれば、つい目で追うようになった。もっと話したい。もっと知りたい。できるなら、明日も、その次の日も、隣で笑っていてほしい。

 カイルは額へ手を当てた。

「なるほど」

 今度は、少し笑った。ずいぶん前から、答えは出ていたのかもしれない。自分が気づいていなかっただけで。

 リディアが好きなのだ。

 そう認めてしまえば、今日一日の自分の態度まで、すべて腑に落ちた。

「ニコラスには、知られたくありませんね」

 あの顔を見る限り、もう遅い気もする。カイルは苦笑して、机の上の書類を手に取った。けれど、文字を追う前にまた思い出す。

 ――カイル様と本を探すの、楽しいですから。

 口元が緩んだ。

「……今日はもう帰りましょうか」

 仕事になりそうになかった。

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