第15話 失いたくない
共同事業の成功を祝う夜会から、数日が過ぎた。
ルビー・ロッサは王都でもすっかり定着し、新たな販路の話も順調に進んでいる。商会は今日も朝から活気に満ちていた。
忙しい。
けれど、その忙しさはどこか心地よい。
そんな日々を送りながらも、カイルには一つだけ困ったことがあった。
仕事中も。
書類を見ている時も。
ふとした瞬間に、リディアのことを考えてしまう。
夜会で見せた笑顔。
本を受け取った時の嬉しそうな表情。
市場を歩きながら楽しそうに話していた姿。
思い出すたび、自然と口元が緩んでしまう。
「……我ながら重症ですね」
小さく呟いた、その時だった。
「何がですか?」
背後から声がする。
振り返ると、エマが書類を抱えて立っていた。
「聞いていたのですか」
「聞こえました」
悪びれる様子はまったくない。
「それで?」
首を傾げる。
「何が重症なのですか?」
カイルは少し考え、それから苦笑した。
「秘密です」
「そうですか」
エマはあっさり頷いた。
その反応に、少し拍子抜けする。
だが次の一言で、見事に覆された。
「リディア様のことですね」
カイルは思わず咳き込んだ。
「……なぜそうなるのですか」
「違いますか?」
「違いませんが」
言ってから、自分で驚く。
エマは肩をすくめた。
「素直ですね」
「最近は隠せる気がしません」
「その方が会頭らしいですよ」
そう言って笑うと、エマは書類を置いて部屋を出て行った。
午後。
共同事業の打ち合わせが終わり、職員たちがそれぞれ持ち場へ戻っていく。執務室には穏やかな空気が流れていた。
カイルも資料をまとめながら、今日の予定を確認する。
その時だった。
「会頭」
再びエマが顔を出した。
「何でしょう」
「共同事業も、もう終盤ですね」
何気ない一言だった。
けれど、その言葉にカイルの手が止まる。
「そうですね」
「ここまで順調でしたから、このままいけば予定通り終わるでしょう」
予定通り。
その言葉が、妙に胸へ引っ掛かった。
共同事業には終わりがある。それは最初から分かっていたことだ。成功すれば、それで一区切り。リディアが毎日のように商会へ通う理由もなくなる。
市場を一緒に歩くことも。
本の感想を聞くことも。
何気ない昼食も。
それが当たり前ではなくなる。
考えた瞬間、胸の奥が静かに締めつけられた。
「会頭?」
エマが心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「……ええ」
返事はした。
けれど、自分でも少し驚いていた。
共同事業が終わる。
その事実が、こんなにも寂しいとは思っていなかった。
夕方。
中庭へ出ると、職員たちが笑いながら話していた。その輪の中に、リディアの姿がある。
楽しそうに笑っている。
以前なら、決して見られなかった笑顔だった。
その姿を見ているだけで、自然と胸が温かくなる。
初めて出会った日のことを思い出す。
真面目で。
頑張りすぎて。
失敗を何より恐れていた人。
放っておけなかった。
もっと笑ってほしいと思った。
その願いは、いつの間にか少しずつ形を変えていた。
もっと話したい。
もっと知りたい。
一緒に笑っていたい。
同じ景色を見ていたい。
その時、リディアがこちらに気付いた。
目が合う。
彼女は柔らかく微笑んだ。
カイルも思わず笑い返す。
それだけで、胸が満たされる。
けれど同時に、不安も生まれた。
もし。
共同事業が終わったら。
この笑顔を見る機会がなくなったら。
今のように隣を歩けなくなったら。
その未来を想像しただけで、胸が苦しくなった。
やがてリディアは、職員たちと共に建物の中へ戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、カイルは静かに息を吐いた。
仕事には終わりがある。
共同事業にも終わりがある。
それは当然のことだ。
けれど。
彼女との時間まで終わらせたくはなかった。
市場を歩いた日々も。
本を貸し合った時間も。
他愛ない会話も。
何気ない笑顔も。
どれも失いたくない。
その想いだけは、もう誤魔化せなかった。
「会頭」
いつの間にか、隣にエマが立っていた。
「何でしょう」
「後悔だけは、なさいませんように」
それだけ言うと、エマは静かに微笑んで去っていく。
カイルは、その背中を見送りながら小さく笑った。
商談では、決断が遅れることはない。けれど人生で一番大切なことほど、人は慎重になってしまうらしい。
夕暮れの空が茜色へと染まっていく。
その空を見上げながら、カイルはゆっくりと息を吸った。
この想いを伝えなければ、きっと後悔する。
彼女が笑っていてくれる未来を願うのなら。
もう、自分の気持ちから目を逸らしてはいけない。
夕暮れの風が静かに吹き抜ける。
その風は、背中をそっと押してくれているようだった。




