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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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15/21

第15話 失いたくない

 共同事業の成功を祝う夜会から、数日が過ぎた。


 ルビー・ロッサは王都でもすっかり定着し、新たな販路の話も順調に進んでいる。商会は今日も朝から活気に満ちていた。


 忙しい。


 けれど、その忙しさはどこか心地よい。


 そんな日々を送りながらも、カイルには一つだけ困ったことがあった。


 仕事中も。


 書類を見ている時も。


 ふとした瞬間に、リディアのことを考えてしまう。


 夜会で見せた笑顔。


 本を受け取った時の嬉しそうな表情。


 市場を歩きながら楽しそうに話していた姿。


 思い出すたび、自然と口元が緩んでしまう。


「……我ながら重症ですね」


 小さく呟いた、その時だった。


「何がですか?」


 背後から声がする。


 振り返ると、エマが書類を抱えて立っていた。


「聞いていたのですか」


「聞こえました」


 悪びれる様子はまったくない。


「それで?」


 首を傾げる。


「何が重症なのですか?」


 カイルは少し考え、それから苦笑した。


「秘密です」


「そうですか」


 エマはあっさり頷いた。


 その反応に、少し拍子抜けする。


 だが次の一言で、見事に覆された。


「リディア様のことですね」


 カイルは思わず咳き込んだ。


「……なぜそうなるのですか」


「違いますか?」


「違いませんが」


 言ってから、自分で驚く。


 エマは肩をすくめた。


「素直ですね」


「最近は隠せる気がしません」


「その方が会頭らしいですよ」


 そう言って笑うと、エマは書類を置いて部屋を出て行った。


 午後。


 共同事業の打ち合わせが終わり、職員たちがそれぞれ持ち場へ戻っていく。執務室には穏やかな空気が流れていた。


 カイルも資料をまとめながら、今日の予定を確認する。


 その時だった。


「会頭」


 再びエマが顔を出した。


「何でしょう」


「共同事業も、もう終盤ですね」


 何気ない一言だった。


 けれど、その言葉にカイルの手が止まる。


「そうですね」


「ここまで順調でしたから、このままいけば予定通り終わるでしょう」


 予定通り。


 その言葉が、妙に胸へ引っ掛かった。


 共同事業には終わりがある。それは最初から分かっていたことだ。成功すれば、それで一区切り。リディアが毎日のように商会へ通う理由もなくなる。


 市場を一緒に歩くことも。


 本の感想を聞くことも。


 何気ない昼食も。


 それが当たり前ではなくなる。


 考えた瞬間、胸の奥が静かに締めつけられた。


「会頭?」


 エマが心配そうに覗き込む。


「大丈夫ですか?」


「……ええ」


 返事はした。


 けれど、自分でも少し驚いていた。


 共同事業が終わる。


 その事実が、こんなにも寂しいとは思っていなかった。


 夕方。


 中庭へ出ると、職員たちが笑いながら話していた。その輪の中に、リディアの姿がある。


 楽しそうに笑っている。


 以前なら、決して見られなかった笑顔だった。


 その姿を見ているだけで、自然と胸が温かくなる。


 初めて出会った日のことを思い出す。


 真面目で。


 頑張りすぎて。


 失敗を何より恐れていた人。


 放っておけなかった。


 もっと笑ってほしいと思った。


 その願いは、いつの間にか少しずつ形を変えていた。


 もっと話したい。


 もっと知りたい。


 一緒に笑っていたい。


 同じ景色を見ていたい。


 その時、リディアがこちらに気付いた。


 目が合う。


 彼女は柔らかく微笑んだ。


 カイルも思わず笑い返す。


 それだけで、胸が満たされる。


 けれど同時に、不安も生まれた。


 もし。


 共同事業が終わったら。


 この笑顔を見る機会がなくなったら。


 今のように隣を歩けなくなったら。


 その未来を想像しただけで、胸が苦しくなった。


 やがてリディアは、職員たちと共に建物の中へ戻っていく。


 その後ろ姿を見送りながら、カイルは静かに息を吐いた。


 仕事には終わりがある。


 共同事業にも終わりがある。


 それは当然のことだ。


 けれど。


 彼女との時間まで終わらせたくはなかった。


 市場を歩いた日々も。


 本を貸し合った時間も。


 他愛ない会話も。


 何気ない笑顔も。


 どれも失いたくない。


 その想いだけは、もう誤魔化せなかった。


「会頭」


 いつの間にか、隣にエマが立っていた。


「何でしょう」


「後悔だけは、なさいませんように」


 それだけ言うと、エマは静かに微笑んで去っていく。


 カイルは、その背中を見送りながら小さく笑った。


 商談では、決断が遅れることはない。けれど人生で一番大切なことほど、人は慎重になってしまうらしい。


 夕暮れの空が茜色へと染まっていく。


 その空を見上げながら、カイルはゆっくりと息を吸った。


 この想いを伝えなければ、きっと後悔する。


 彼女が笑っていてくれる未来を願うのなら。


 もう、自分の気持ちから目を逸らしてはいけない。


 夕暮れの風が静かに吹き抜ける。


 その風は、背中をそっと押してくれているようだった。


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