第15話 そういうことですか
夜会から数日が過ぎても、カイルの頭には時折あの夜のことが浮かんでいた。正確には、夜会そのものではない。リディアが元婚約者のロイと二人でテラスへ出ていったことだ。何を話していたのだろう。そう思うことが、一度や二度ではなかった。
もちろん、聞くつもりはない。戻ってきたリディアは「話せて良かった」と言っていた。それなら、それでいい。「過去と仲直りできた気がします」と笑った彼女を見て、自分も嬉しかった。――そのはずなのだが。
「会頭」
声をかけられ、カイルは顔を上げた。ニコラスが書類を抱えて立っている。
「先ほどから、同じところを読んでいませんか?」
「……そうですか?」
「はい。かなり長いこと」
「気のせいでしょう」
「そういうことにしておきます」
妙に含みのある言い方を残し、ニコラスは書類を机へ置いた。
「北方からの追加注文です。確認をお願いします」
「分かりました」
「今度はちゃんと読んでくださいね」
「ニコラス」
「失礼しました」
まったく反省していない顔で去っていく。カイルは小さく息を吐き、手元の書類へ視線を戻した。確かに、同じ一文を三度ほど読んだ気がする。
「……らしくありませんね」
誰にも聞こえない声で呟き、今度こそ仕事へ意識を戻した。
* * *
その日の午後、商会に一人の青年が訪れた。南部で複数の商店を営む商家の次男、アーノルド・レイナー。二十五歳。父親の商会を手伝いながら、最近では王都との取引も任されている。今回、ルビー・ロッサを使った加工品を南部でも扱いたいという話があり、その打ち合わせに訪れたのだ。
「こちらが、共同事業を担当されているリディア様です」
カイルが紹介すると、アーノルドは丁寧に一礼した。
「お会いできて光栄です。お噂は伺っています」
「噂、ですか?」
「贈答用の商品を提案されたのは、リディア様だとか」
「私一人で考えたわけではありません。皆さんと話している中で出た案です」
「それでも、実際に形にされたのでしょう? 南部でも評判ですよ」
まっすぐ褒められ、リディアが少し照れたように笑う。
「ありがとうございます」
カイルはそのやり取りを聞きながら、資料を開いた。
商談は順調に進んだ。アーノルドは若いが商売に慣れている。話も早く、こちらの条件もよく理解していた。南部での販売方法、輸送にかかる日数、商品の保存期間、贈答用として扱う場合の価格。リディアも必要なところで意見を出し、話は予定していた時間より早くまとまった。
「では、こちらの条件で進めましょう」
「ありがとうございます」
アーノルドが資料を閉じる。そこで彼の視線が、机の端に置かれていた一冊の本へ向いた。
「それは旅行記ですか?」
リディアが目を瞬かせる。
「あ、はい。少し前に買ったものです」
「北方の港町ですね」
「ご存じなのですか?」
リディアの声が少し弾んだ。カイルは何となく顔を上げる。
「ええ。昨年、仕事で一月ほど滞在しました」
「一月も?」
「冬でしたけれどね。夏とはまったく景色が違うんですよ」
「そうなのですか?」
リディアが身を乗り出す。好きなものについて話す時の顔だ。目が少し輝いて、いつもより言葉が増える。カイルはその表情をよく知っていた。
「港の北側に古い灯台がありまして。そこから見る夕暮れが綺麗なんです」
「旅行記には載っていませんでした」
「地元の人しか行かない場所ですから。もし行かれることがあれば、ぜひ。ほかにも面白い場所がありますよ」
「行ってみたいです」
リディアも楽しそうに笑った。
その瞬間、カイルは妙な感覚を覚えた。何かがおかしい。商談はうまくいった。条件にも問題はない。アーノルドにも悪いところは見当たらない。むしろ話しやすく、信用できそうな青年だ。なのに。
「カイル様?」
呼ばれて顔を上げる。
「はい?」
「どうかなさいましたか?」
「いえ」
リディアが不思議そうにこちらを見ている。
「何でもありません」
そう答えると、アーノルドが再び口を開いた。
「そうだ。旅行記がお好きでしたら、南部について書かれた本も面白いですよ」
「南部の?」
「ええ。今度王都へ来る時に、よろしければお持ちします」
「本当ですか?」
「もちろんです」
リディアが嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます」
まただ。カイルは手元の資料へ視線を落とした。別に、おかしなことではない。本を貸すだけだ。自分だって何度も貸している。むしろ共通の趣味がある相手と話が弾むのは当然だろう。
――共通の趣味。
なぜか、その言葉が妙に引っかかった。
「会頭?」
今度はアーノルドに呼ばれた。
「何でしょう?」
「最後にこちらへ署名を」
「ああ、失礼しました」
カイルは何事もなかったようにペンを取った。
* * *
「感じのいい方でしたね」
アーノルドを見送ったあと、リディアが言った。
「そうですね」
「南部のお話も面白かったです」
「ええ」
「おすすめの旅行記も持ってきてくださるそうです」
「聞いていました」
「……カイル様?」
リディアが首を傾げる。
「何ですか?」
「今日は少し変ではありませんか?」
「そうでしょうか」
「はい」
即答され、カイルは一瞬言葉に詰まる。
「お疲れなのでは?」
「そうかもしれませんね」
「でしたら、少し休んでください。以前のように昼食を抜いたりしていませんよね?」
「今日は食べましたよ」
「それなら良かったです」
心配そうだった表情が少し緩む。それを見ただけで、先ほどまでの妙な引っかかりも少し薄れた。
「では、私はこの資料をエマに渡してきますね」
「お願いします」
リディアが部屋を出ていく。その背中を目で追っていると、隣から声がした。
「なるほど」
カイルはゆっくり振り返った。いつの間に来たのか、ニコラスが書類を抱えて立っている。
「何がです?」
「いえ、何でも」
「今、明らかに何か言いましたよね」
「独り言です」
ニコラスは涼しい顔で答えた。
「ところで会頭」
「はい」
「先ほどのレイナー様、ずいぶんリディア様と話が合っていましたね」
「そうですね」
「年も近そうですし」
「それが何か?」
「いえ。別に」
ニコラスは書類を机へ置く。
「感じのいい方でしたね」
「リディア様と同じことを言いますね」
「おや、リディア様も?」
「言っていましたよ」
「そうですか」
なぜかニコラスの口元が緩んだ。
「何です、その顔は」
「何でもありません」
「今日はそればかりですね」
「会頭も先ほどおっしゃっていましたよ」
返す言葉がない。ニコラスは満足そうに一礼した。
「では、失礼します」
扉へ向かいかけて、ふと振り返る。
「南部との取引、増えるといいですね」
「もちろんです」
「そうすれば、レイナー様も王都へ来る機会が増えそうですし」
「……ニコラス」
「失礼します」
今度こそ逃げるように出ていった。カイルは閉じた扉を見つめる。
「まったく……」
余計なことを言う。アーノルドが王都へ来る。それがどうしたというのだ。仕事なのだから当然だ。それにリディアが誰と話そうと、彼女の自由だ。旅行記を借りることだって、楽しそうに話すことだって、何もおかしくない。分かっている。分かっているのに、どうにも面白くない。
そこまで考えて、カイルの手が止まった。
「……面白くない?」
自分で口にした言葉に眉を寄せる。なぜだ。
* * *
夕方、仕事を終えたリディアが執務室へ顔を出した。
「カイル様」
「はい」
「今日は先に失礼します」
「分かりました。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
そのまま帰るのかと思ったが、リディアは扉のところで立ち止まった。
「あの」
「何でしょう?」
「今度、書店へ行く時にお付き合いいただけますか?」
「もちろんです」
考えるより先に答えていた。リディアが笑う。
「良かった。新しい旅行記が入ったそうなんです」
「港町の?」
「それも見たいのですが、今度は南部のものも探してみようかと」
一瞬、昼間の青年の顔が浮かんだ。
「アーノルド様がお話しされていたからですか?」
「それもあります」
リディアは楽しそうに頷いた。
「知らない場所の話を聞くと、もっと知りたくなってしまって」
「そうですか」
「カイル様は南部にも行ったことがありますよね?」
「何度か」
「でしたら、おすすめを教えてください」
何の迷いもなく言われ、カイルは瞬きをした。
「私でいいのですか?」
「もちろんです」
リディアが不思議そうな顔をする。
「カイル様と本を探すの、楽しいですから」
それだけ言って、彼女は笑った。
「では、また明日」
「……ええ。また明日」
扉が閉じる。静かになった執務室で、カイルはしばらく動かなかった。やがて、椅子の背へ身体を預ける。
ロイと何を話していたのか、気になった。今日も、リディアが別の男と楽しそうに話しているのを見て、妙に落ち着かなかった。姿が見えれば目で追う。笑っていれば、自分まで嬉しくなる。好きなものの話をしている時の表情も知っている。面白いものを見つければ、教えたくなる。仕事が終わったあとも、もう少し一緒にいたいと思う。そしてどうやら、自分以外の誰かが彼女を楽しそうに笑わせているのは、あまり面白くないらしい。
そこまで考えて、ようやくすべてが一本につながった。
「……そういうことですか」
小さく呟く。最初は、放っておけなかっただけだった。頑張りすぎて、自分を責めてばかりいる人。だから、少し肩の力を抜ければいいと思った。それだけだったはずなのに。
いつからだろう。彼女が商会へ来ると嬉しくなった。姿が見えないと、どこにいるのか気になった。笑っていれば、つい目で追うようになった。もっと話したい。もっと知りたい。できるなら、明日も、その次の日も、隣で笑っていてほしい。
カイルは額へ手を当てた。
「なるほど」
今度は、少し笑った。ずいぶん前から、答えは出ていたのかもしれない。自分が気づいていなかっただけで。
リディアが好きなのだ。
そう認めてしまえば、今日一日の自分の態度まで、すべて腑に落ちた。
「ニコラスには、知られたくありませんね」
あの顔を見る限り、もう遅い気もする。カイルは苦笑して、机の上の書類を手に取った。けれど、文字を追う前にまた思い出す。
――カイル様と本を探すの、楽しいですから。
口元が緩んだ。
「……今日はもう帰りましょうか」
仕事になりそうになかった。




