第14話 過去と仲直り
共同事業の成功を祝う夜会が開かれた。
ルビー・ロッサを中心とした共同事業は予想以上の成果を上げ、今では王都でも広く知られるようになっている。新たな販路の話まで持ち上がり、その成功を祝うため、王都でも名高い侯爵家の大広間には、多くの貴族や商人たちが集まっていた。
煌びやかなシャンデリアが輝き、楽しげな談笑が会場を満たしている。
リディアはその光景を見渡しながら、小さく息を吐いた。
最初は不安だった。
共同事業など経験がなかった。
失敗したらどうしようと、そればかり考えていた。
けれど今は違う。
自分の仕事に誇りを持てていた。
「リディア様」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、カイルが立っている。黒の礼装姿は普段よりも一層洗練されて見えた。
「こんばんは」
「カイル様、こんばんは」
自然と笑みが浮かぶ。
その笑顔を見て、カイルも優しく目を細めた。
「とても楽しそうですね」
「そう見えますか?」
「ええ」
迷いなく頷く。
「初めてお会いした頃は、こんなふうに笑ってくださるとは思いませんでした」
「失礼ですね」
思わず笑う。
二人で顔を見合わせる。こうして肩の力を抜いて話せるようになったことが、不思議なくらい嬉しかった。
数か月前の自分なら、想像もできなかっただろう。
その穏やかな時間を破るように、一人の声が響いた。
「リディア」
身体がわずかに強張る。
振り返ると、一人の男性が立っていた。
ロイ・ベルモント。
元婚約者だった。
数か月ぶりの再会だった。整った容姿も、真面目そうな雰囲気も変わらない。ただ、以前より少しだけ疲れて見えた。
カイルもロイへ視線を向ける。二人の間に流れた空気だけで、その男性が誰なのか察したのだろう。
「リディア様。では、またあとで」
穏やかに一礼する。
「はい。またあとで」
リディアは微笑んで頷いた。
その笑顔を見届けてから、カイルは静かにその場を離れる。商人たちに声を掛けられ、会話へ加わる。
けれど。
無意識に、視線だけはテラスの方へ向いてしまう。
二人が並んで立っていた。
大丈夫。
彼女ならきっと。
そう思うのに、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
◇
「お久しぶりです」
「久しぶりだな」
ロイは静かに頷く。
「先ほどご一緒にいた方が、ヴァレンティア商会の会頭かな?」
「ええ、そうです」
昔なら胸が苦しくなっていたかもしれない。
けれど今は、不思議なくらい穏やかだった。
「共同事業の成功、おめでとう」
「ありがとうございます」
「実に見事だった」
その言葉に嘘はなかった。
リディアは微笑む。
「ヴァレンティア商会をはじめ、皆さんと一緒に作り上げた結果です」
自然にそう言えた。
以前なら、自分一人が頑張らなければならないと思っていた。失敗してはいけないと、自分を追い込んでいた。
ロイはそんな彼女を静かに見つめる。
柔らかく笑っている。
肩の力も抜けている。
昔のリディアとは、まるで違っていた。
「少し、お話できますか」
「もちろんです」
二人はテラスへ出た。
夜風が心地よく頬を撫でる。会場の賑わいが遠く聞こえていた。
しばらく沈黙が続く。
先に口を開いたのはロイだった。
「なんだか楽しそうだな」
ぽつりと言う。
リディアは少し驚き、それから微笑んだ。
「そうでしょうか」
「ああ」
ロイも小さく笑う。
「昔より、ずっとリラックスしているように見える」
リディアは夜空を見上げた。
正しい婚約者でいようとしていた頃。
期待に応えようとしていた頃。
失敗を恐れていた頃。
あの頃の自分が、遠い昔のことのように思えた。
「私も知りませんでした」
静かに言う。
「こんなふうに笑えるとは思っていませんでした」
ロイは目を伏せた。
夜風だけが二人の間を通り抜ける。
「……私は、勘違いしていたのかもしれない」
「え?」
「君のことを理解したつもりになっていた」
苦く笑う。
「今なら分かる」
そして、静かに続けた。
「後悔している」
リディアは何も言わなかった。
「君を理解したつもりになっていたことを」
ロイは夜空へ視線を向ける。
「私は君を見ているつもりだった」
一度、言葉を切る。
「でも、本当に見ていたのは『理想の婚約者』だった」
静かな声だった。
「君が何を好きで、何を望んでいるのか。私は一度も聞こうとしなかった」
責める気持ちは、不思議となかった。
怒りもない。
ただ少しだけ切なかった。
あの頃の二人は、お互いに余裕がなかったのだ。
「私も後悔していました」
リディアは穏やかに口を開く。
ロイが顔を上げた。
「もっと頑張れば良かったのではないか。もっとできたのではないかと、ずっと考えていました」
少し前までの自分なら、それが答えだった。
けれど今は違う。
「あの頃の私は」
一呼吸置く。
「私なりに精一杯だったのだと思います」
自然と言葉がこぼれた。
以前なら言えなかった一言だった。
ロイはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「そうだな」
その表情は少し寂しく、それでもどこか安堵しているようにも見えた。
「君は変わった」
「そうでしょうか」
「いや」
ロイは首を横に振る。
「違うな」
そして穏やかに笑った。
「今の方が君らしい」
一瞬、言葉を失う。
それからリディアは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
もう過去へ戻りたいとは思わない。
あの時間があったからこそ、今の自分がいる。
そう思えた。
◇
リディアが会場へ戻ろうとした、その時だった。
ロイの視線の先にカイルがいた。談笑していたカイルが、ふとこちらを見る。
二人の視線が重なった。
カイルは穏やかに微笑む。
それだけだった。
けれど、その笑顔を見たリディアは、ほっとしたように笑みを返す。
何も言わなくても伝わる。
そんな空気が、二人の間には流れていた。
ロイは静かに目を伏せる。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
そうか。
あの笑顔を、自分は知らなかった。
肩の力が抜けた表情。
何も飾らない笑顔。
安心しきった眼差し。
失ったのは今日ではない。
婚約を解消した日でもない。
もっと前から少しずつ、彼女の心は離れていたのだ。
「行っておいで」
ロイは静かに言った。
リディアは少し驚き、それから柔らかく微笑む。
「ありがとうございます」
その背中を見送りながら、ロイは夜空を見上げた。
後悔はある。
きっと、この先も消えることはないだろう。
けれど、それも自分が選んだ人生だ。
だから願う。
今度こそ、彼女が幸せでありますように。
◇
リディアが戻ってくると、カイルは安心したように微笑んだ。
「何か、お話があったようですね」
リディアは少し考え、それから穏やかに笑う。
「過去と仲直りできた気がするのです」
その一言で十分だった。
詳しく聞く必要はない。
彼女の表情を見れば分かる。
本当に吹っ切れたのだと。
「それは良かったです」
カイルが静かに言う。
その笑顔を見て、リディアも微笑み返した。
そんな二人を見ていた職員たちが声を掛ける。
「会頭、そろそろ乾杯が始まります」
「今行きます」
歩き出したリディアの隣へ、カイルも自然に並ぶ。
歩幅が合う。
それが、今では当たり前になっていた。
胸の奥が静かに満たされる。
……本当に困りましたね。
カイルは小さく苦笑した。
彼女が笑うと嬉しい。
落ち込んでいると気になる。
何か面白いものを見つけると、一番に見せたくなる。
もう理由は分かっている。
けれど、この想いを伝えるには、もう少しだけ時間が欲しかった。
彼女はようやく、自分らしく笑えるようになったばかりだから。
その笑顔を、もう少し隣で見ていたい。
夜会の灯りが二人を優しく照らしていた。
過去は静かに幕を閉じる。
そして未来は、ゆっくりと動き始めていた。




