第13話 同じ景色
雨の日から数日が過ぎた。
共同事業は変わらず忙しく、ヴァレンティア商会には朝から人の出入りが絶えない。ルビー・ロッサの加工品は王都でも評判となり、新しい取引の話も次々と舞い込んでいた。
リディアも毎日のように商会へ通い、書類に目を通し、取引先との調整に追われている。
そんな慌ただしい日々の中でも、一つだけ変わらない時間があった。
「今日も書店へ寄りますか?」
打ち合わせを終えた帰り道、リディアが尋ねる。
カイルは少し笑った。
「もちろんです」
「予定変更ではないのですね」
「今日は最初から予定に入っています」
「珍しいですね」
二人で顔を見合わせ、小さく笑う。
その何気ないやり取りさえ、カイルには以前とは違って感じられた。
雨の日以来、この気持ちはもう見ないふりができなくなっていた。
◇
書店街は今日も賑わっていた。
新刊を並べる店主。本を選ぶ親子。旅装束の青年が地図を広げながら旅行記を探している。
以前と何も変わらない景色。
けれど、不思議だった。
同じ通りなのに、以前より明るく見える。
カイルは隣を歩くリディアへ視線を向けた。
彼女は真剣な顔で本棚を眺めている。
「何か気になる本はありましたか?」
「はい」
そう言って一冊の旅行記を手に取る。
「前に話した港町です」
表紙には、白い街並みと青い海が描かれていた。
「新しく出た版ですね」
「ご存じなのですか?」
「ええ。一度読んだことがあります」
リディアは嬉しそうにページをめくる。
その横顔を見ながら、カイルは思う。
以前なら、本を楽しそうに読む人だと思っていただけだった。
今は違う。
そんな何気ない表情まで愛おしく感じてしまう。
自分でも困るくらいに。
「カイル様?」
呼ばれて我に返る。
「どうかしましたか?」
「いえ」
危なかった。
見つめすぎていたらしい。
「何でもありません」
そう答えると、リディアは少しだけ首を傾げたものの、それ以上は何も聞かなかった。
書店を出ると、夕暮れが近づいていた。
二人は王都の中央広場を通って商会へ戻る。
噴水の周りでは子どもたちが笑いながら走り回り、ベンチでは老夫婦が穏やかに話をしている。
平和な夕暮れだった。
「前にも、この道を歩きましたね」
リディアが呟く。
「ええ」
「同じ景色なのに」
空を見上げながら笑う。
「前とは少し違って見えます」
その言葉に、カイルの胸が静かに揺れた。
「どう違いますか?」
リディアは少し考えてから答える。
「前は、景色を見ていただけでした」
噴水を見つめる。
子どもたちの笑い声に耳を澄ませる。
「今は、その場所にいる人たちまで目に入るんです」
花を売る少女。
楽しそうに話す夫婦。
買い物帰りの親子。
「皆さん、それぞれの毎日を過ごしているのだと思うと、不思議と世界が広く感じます」
その横顔は穏やかだった。
カイルは静かに微笑む。
「それはきっと」
一度言葉を切る。
「リディア様の世界が広がったからでしょう」
リディアは目を丸くした。
「私の世界、ですか?」
「ええ」
初めて会った頃の彼女は、自分のことばかり責めていた。正しくあることだけを見つめていた。
けれど今は違う。
周りの人の笑顔を見て。
景色を楽しんで。
本を読み。
未来の話をするようになった。
「同じ景色でも、見る人が変わると違って見えるものです」
リディアはその言葉をゆっくり噛みしめるように頷いた。
「そうかもしれません」
そして、少し照れたように笑う。
「以前の私なら、この景色を見ても何も思わなかった気がします」
その笑顔を見て、カイルも自然と笑みを浮かべる。
――本当に変わった。
景色ではない。
変わったのは彼女だ。
そして。
彼女を見つめる自分も。
◇
商会が見えてきた頃だった。
「カイル様」
「はい」
「ありがとうございます」
突然の言葉に、カイルは立ち止まる。
「何がですか?」
「分かりません」
リディアは困ったように笑う。
「でも、お礼を言いたくなりました」
その笑顔は夕陽に照らされ、柔らかく輝いていた。
カイルは思わず目を細める。
「どういたしまして」
そう返すのが精一杯だった。
本当は、ありがとうと言いたいのは自分の方だった。
彼女が笑うようになったこと。
自分の気持ちを口にできるようになったこと。
隣を歩いてくれること。
その一つひとつが、何より嬉しかった。
本当は伝えたいことがある。
けれど、今ではない。
彼女はようやく、自分らしく笑えるようになったばかりなのだから。
その笑顔を守りたい。
急がず、焦らず。
今はただ、彼女の隣で同じ景色を見ていたい。
夕焼けに染まる王都を歩きながら、二人は自然と歩幅を合わせていた。
誰が合わせたわけでもない。
気付けば、二人の歩幅はぴたりと重なっていた。
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