第13話 同じ景色を、あなたと
雨の日から数日が過ぎた。共同事業は変わらず忙しく、ヴァレンティア商会には朝から人の出入りが絶えない。ルビー・ロッサの加工品は王都でも評判となり、新しい取引の話も次々と舞い込んでいた。リディアも毎日のように商会へ通い、書類に目を通し、職員たちと意見を交わしている。そんな慌ただしい日々の中にも、楽しみにしている時間があった。
「今日も書店へ寄りますか?」
打ち合わせを終えた帰り道、リディアが尋ねる。
「もちろんです」
「予定変更ではないのですね」
「今日は最初から予定に入っています」
「珍しいですね」
「私も予定を立てることくらいありますよ」
「守るかどうかは別でしょう?」
「……ずいぶん言うようになりましたね」
カイルが笑い、リディアもつられて笑った。こんな軽口を交わすことにも、すっかり慣れた。ただ、一つだけ以前とは違う。カイルと話していると楽しい理由を、今のリディアは知っていた。
* * *
書店街は今日も賑わっていた。店先に新刊を並べる店主、本を選ぶ親子、広げた地図と旅行記を見比べる旅装束の青年。いつもと同じ店、いつもと同じ道。それなのに今日は、少しだけ違って見えた。隣を歩く人を好きだと気づいてしまったからだ。
「何か気になる本はありましたか?」
「はい。これです」
リディアは一冊の旅行記を手に取った。
「前にお話しした港町です」
表紙には、白い街並みと青い海が描かれている。
「新しく出た版ですね」
「ご存じなのですか?」
「以前の版なら読みました」
「では、こちらを読んだら違いを比べてみませんか?」
「いいですね」
リディアは本を開いた。海沿いの市場。白い家々。夕暮れの港。以前なら、その景色だけを想像していただろう。けれど今は、その中にもう一人の姿まで浮かびそうになる。
「……」
慌ててページをめくった。
「どうしました?」
「何でもありません」
「そうですか?」
カイルが不思議そうにこちらを見る。その視線に気づき、今度はリディアが落ち着かなくなった。
「カイル様」
「はい?」
「あまり見ないでください」
「本を見ていただけですが」
「……そうでしたか」
恥ずかしい。完全に自意識過剰だった。リディアが黙って本へ視線を戻すと、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「今、笑いました?」
「いいえ」
「笑いましたよね?」
「気のせいでは?」
「絶対に笑いました」
顔を上げると、カイルはやはり笑っていた。リディアもとうとう堪えきれず、笑ってしまう。好きだと気づいても、何もかもが変わるわけではないらしい。それが少し嬉しかった。
* * *
書店を出る頃には、夕暮れが近づいていた。二人は王都の中央広場を通って商会へ戻る。噴水の周りでは子どもたちが走り回り、ベンチでは老夫婦が肩を寄せて話している。花売りの少女の声が響き、その向こうを買い物帰りらしい親子が歩いていた。
「前にも、この道を歩きましたね」
「ええ」
リディアは少し足を緩めた。
「同じ場所なのに、前とは少し違って見えます」
「どう違うのですか?」
尋ねられ、広場を見渡す。花売りの少女から花を買った女性が、隣にいる幼い子どもへ一輪を渡した。子どもが嬉しそうに笑い、つられるようにリディアの口元も緩んだ。
「前は、景色しか見ていなかった気がします」
「景色?」
「綺麗な噴水があるとか、人が多いとか。それだけでした」
リディアは親子の姿を目で追った。
「でも今は、ここにいる人たちにも、それぞれ毎日があるんだなって思うんです。あの方は誰に花を贈るのかしら、とか。あの子は何がそんなに楽しいのかしら、とか」
言ってから、少し照れくさくなった。
「変でしょうか?」
「いいえ」
カイルは首を横に振る。
「前より、周りを見る余裕ができたのかもしれませんね」
その言葉に、リディアは少し考えた。以前の自分は、この道を歩きながら何を考えていただろう。約束の時間。次の予定。失礼がなかったか。忘れていることはないか。いつも頭の中には、しなければならないことが並んでいた。
「……そうかもしれません」
リディアは頷いた。
「最近、立ち止まることが増えました」
「立ち止まる?」
「本屋を覗いたり、知らないお店に入ってみたり。今日みたいに、誰かを眺めたり」
少し考えてから笑う。
「前より、寄り道が増えました」
「それは大変です」
「なぜですか?」
「私の影響だと思われそうです」
「違うのですか?」
「……否定はできませんね」
リディアが吹き出した。
「では、カイル様のせいですね」
「とうとう私のせいになりましたか」
「少しくらいは」
「責任重大ですね」
二人で笑う。以前なら、寄り道は予定から外れることだった。今は、その寄り道の先で見つけたものを、好きだと思える。それでいいのだと思った。
* * *
商会が見えてきた頃、リディアはふいに足を止めた。
「カイル様」
「はい」
「ありがとうございます」
カイルも足を止める。
「何がです?」
「……いろいろと」
「ずいぶん大雑把ですね」
「私もそう思います」
リディアは笑った。けれど、言っておきたかった。
「カイル様と知り合ってから、知らなかったことをたくさん知りました。本のことも、市場のことも、仕事のことも。それに……予定通りでなくても、意外となんとかなることも」
「それは私から学ばない方がいい気がします」
「全部真似するつもりはありません」
「安心しました」
また笑ってから、リディアは夕暮れの街へ目を向けた。
「教えていただいたこともたくさんあります。でも最近は、自分で見つけたものも増えました」
好きな本。楽しい仕事。行ってみたい場所。そして――好きな人。最後の一つだけは、まだ口にできない。
「だから、お礼を言いたかったんです。きっかけをくださって、ありがとうございます」
カイルは少し黙っていた。やがて、穏やかに笑う。
「……どういたしまして」
それだけだった。けれどリディアには、それで十分だった。
「戻りましょうか」
「はい」
二人は再び歩き出した。夕陽が街を橙色に染め、石畳に二人の影が長く伸びている。
少し進んだところで、リディアが隣を見た。
「カイル様」
「はい?」
「歩くの、少し速くないですか?」
「そうですか?」
「少しだけ」
「これは失礼しました」
カイルが歩調を緩める。けれど数歩進むと、リディアもほんの少しだけ歩幅を広げた。どちらからともなく、ちょうどいい速さになる。
カイルは気づいたようだったが、何も言わなかった。リディアも何も言わない。ただ、隣を歩く。同じ夕暮れを見ながら、同じ道を、同じ歩幅で。
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