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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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13/22

第13話 同じ景色を、あなたと

 雨の日から数日が過ぎた。共同事業は変わらず忙しく、ヴァレンティア商会には朝から人の出入りが絶えない。ルビー・ロッサの加工品は王都でも評判となり、新しい取引の話も次々と舞い込んでいた。リディアも毎日のように商会へ通い、書類に目を通し、職員たちと意見を交わしている。そんな慌ただしい日々の中にも、楽しみにしている時間があった。

「今日も書店へ寄りますか?」

 打ち合わせを終えた帰り道、リディアが尋ねる。

「もちろんです」

「予定変更ではないのですね」

「今日は最初から予定に入っています」

「珍しいですね」

「私も予定を立てることくらいありますよ」

「守るかどうかは別でしょう?」

「……ずいぶん言うようになりましたね」

 カイルが笑い、リディアもつられて笑った。こんな軽口を交わすことにも、すっかり慣れた。ただ、一つだけ以前とは違う。カイルと話していると楽しい理由を、今のリディアは知っていた。


* * *


 書店街は今日も賑わっていた。店先に新刊を並べる店主、本を選ぶ親子、広げた地図と旅行記を見比べる旅装束の青年。いつもと同じ店、いつもと同じ道。それなのに今日は、少しだけ違って見えた。隣を歩く人を好きだと気づいてしまったからだ。

「何か気になる本はありましたか?」

「はい。これです」

 リディアは一冊の旅行記を手に取った。

「前にお話しした港町です」

 表紙には、白い街並みと青い海が描かれている。

「新しく出た版ですね」

「ご存じなのですか?」

「以前の版なら読みました」

「では、こちらを読んだら違いを比べてみませんか?」

「いいですね」

 リディアは本を開いた。海沿いの市場。白い家々。夕暮れの港。以前なら、その景色だけを想像していただろう。けれど今は、その中にもう一人の姿まで浮かびそうになる。

「……」

 慌ててページをめくった。

「どうしました?」

「何でもありません」

「そうですか?」

 カイルが不思議そうにこちらを見る。その視線に気づき、今度はリディアが落ち着かなくなった。

「カイル様」

「はい?」

「あまり見ないでください」

「本を見ていただけですが」

「……そうでしたか」

 恥ずかしい。完全に自意識過剰だった。リディアが黙って本へ視線を戻すと、隣から小さな笑い声が聞こえた。

「今、笑いました?」

「いいえ」

「笑いましたよね?」

「気のせいでは?」

「絶対に笑いました」

 顔を上げると、カイルはやはり笑っていた。リディアもとうとう堪えきれず、笑ってしまう。好きだと気づいても、何もかもが変わるわけではないらしい。それが少し嬉しかった。


* * *


 書店を出る頃には、夕暮れが近づいていた。二人は王都の中央広場を通って商会へ戻る。噴水の周りでは子どもたちが走り回り、ベンチでは老夫婦が肩を寄せて話している。花売りの少女の声が響き、その向こうを買い物帰りらしい親子が歩いていた。

「前にも、この道を歩きましたね」

「ええ」

 リディアは少し足を緩めた。

「同じ場所なのに、前とは少し違って見えます」

「どう違うのですか?」

 尋ねられ、広場を見渡す。花売りの少女から花を買った女性が、隣にいる幼い子どもへ一輪を渡した。子どもが嬉しそうに笑い、つられるようにリディアの口元も緩んだ。

「前は、景色しか見ていなかった気がします」

「景色?」

「綺麗な噴水があるとか、人が多いとか。それだけでした」

 リディアは親子の姿を目で追った。

「でも今は、ここにいる人たちにも、それぞれ毎日があるんだなって思うんです。あの方は誰に花を贈るのかしら、とか。あの子は何がそんなに楽しいのかしら、とか」

 言ってから、少し照れくさくなった。

「変でしょうか?」

「いいえ」

 カイルは首を横に振る。

「前より、周りを見る余裕ができたのかもしれませんね」

 その言葉に、リディアは少し考えた。以前の自分は、この道を歩きながら何を考えていただろう。約束の時間。次の予定。失礼がなかったか。忘れていることはないか。いつも頭の中には、しなければならないことが並んでいた。

「……そうかもしれません」

 リディアは頷いた。

「最近、立ち止まることが増えました」

「立ち止まる?」

「本屋を覗いたり、知らないお店に入ってみたり。今日みたいに、誰かを眺めたり」

 少し考えてから笑う。

「前より、寄り道が増えました」

「それは大変です」

「なぜですか?」

「私の影響だと思われそうです」

「違うのですか?」

「……否定はできませんね」

 リディアが吹き出した。

「では、カイル様のせいですね」

「とうとう私のせいになりましたか」

「少しくらいは」

「責任重大ですね」

 二人で笑う。以前なら、寄り道は予定から外れることだった。今は、その寄り道の先で見つけたものを、好きだと思える。それでいいのだと思った。


* * *


 商会が見えてきた頃、リディアはふいに足を止めた。

「カイル様」

「はい」

「ありがとうございます」

 カイルも足を止める。

「何がです?」

「……いろいろと」

「ずいぶん大雑把ですね」

「私もそう思います」

 リディアは笑った。けれど、言っておきたかった。

「カイル様と知り合ってから、知らなかったことをたくさん知りました。本のことも、市場のことも、仕事のことも。それに……予定通りでなくても、意外となんとかなることも」

「それは私から学ばない方がいい気がします」

「全部真似するつもりはありません」

「安心しました」

 また笑ってから、リディアは夕暮れの街へ目を向けた。

「教えていただいたこともたくさんあります。でも最近は、自分で見つけたものも増えました」

 好きな本。楽しい仕事。行ってみたい場所。そして――好きな人。最後の一つだけは、まだ口にできない。

「だから、お礼を言いたかったんです。きっかけをくださって、ありがとうございます」

 カイルは少し黙っていた。やがて、穏やかに笑う。

「……どういたしまして」

 それだけだった。けれどリディアには、それで十分だった。

「戻りましょうか」

「はい」

 二人は再び歩き出した。夕陽が街を橙色に染め、石畳に二人の影が長く伸びている。

 少し進んだところで、リディアが隣を見た。

「カイル様」

「はい?」

「歩くの、少し速くないですか?」

「そうですか?」

「少しだけ」

「これは失礼しました」

 カイルが歩調を緩める。けれど数歩進むと、リディアもほんの少しだけ歩幅を広げた。どちらからともなく、ちょうどいい速さになる。

 カイルは気づいたようだったが、何も言わなかった。リディアも何も言わない。ただ、隣を歩く。同じ夕暮れを見ながら、同じ道を、同じ歩幅で。

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