その4、ごせあつめ(山口)
「続けんといかんですいね。」
「まつり」の語源は「あつまり」から来ているに違いない。たった一人で、いくら騒いだところで、それは「まつり」とは言えないからだ。
山口県西部の内陸、俵山温泉と一の俣温泉の中間ぐらいに位置する。鬱蒼と茂山の奥、すっかり過疎化の進んだ限界集落である豊田町平山地区でも、明日集まりがある。住人の誰もそれを「まつり」とは言わず、「ごせあつめ」と呼び、その行事は毎年五月の中ごろに行われる。その集まりは古びた大社造の神社のある薄暗い鎮守の森の裏、特に地図に記載が有るわけでない平山地区の人しか知らない秘密の場所で行われる。その秘密の場所は昼でも薄暗い杉林の奥にあり、そこだけ直径三十メートルの範囲に木が無く、その真ん中には「ごせ沼」と呼ばれる一辺が十五メートルの正方形の田んぼのような沼がある。
ごせ沼は天を覆うような大きな杉林に囲まれ、ひっそりと暗く、近隣の山頂から吹き降ろす風から守られて、音を忘れたくらい静かだった。そのおかげで波紋もなく、雨の日以外、水面は音が途絶えた冷たい鏡のように、じっと沈黙を守もっている。
もし、空から沼を眺める機会があって、色の濃い杉林のなかにごせ沼を運よく見つけることが出来きたならば、今日あたりだったら、ぽっかりと森に開いた丸い穴の中、屋根に据えられたはめ殺しの天窓のような真っ青な五月の空を映し込んだごせ沼の姿を見ることができるだろう。
ごせ沼の周りは日の光があまり届かないため、芝生のような下草が白けたように広がるばかりで、自然ではあるが、何やら殺風景、閉じた印象を与える。周りには杉林からの湿気た杉の匂いがずっしりと質量を持って立ち込めている。明日の集まりの長となっていた徳三は、その湿気た杉の匂いを吸い込んでいた。しばらくすると皺の刻まれた四角い顔は、赤みを失い、目は虚ろ、肩は角を失い、いつの間にか、まるで年中薄暗い杉林の一部になったかのように無色に呆けていた。
「徳さん、ボケっとせんで、テントの裾、引っ張ってえや。」
グレーの作業帽をかぶった義春に声をかけられ、徳三は企みを見透かされたように驚き、胸を棒切れで突かれたような衝撃を受けた。徳三は小柄だが、そのがっちりした体をピンと伸ばして硬直させ、唐突に我に返った。
「いきなり話しかけなや、心臓が止まるか思うたで。お前みたいに若こうないんじゃ。」
「三つしか変わるまあが、それに七十過ぎたら動けるか動けんかで若い若くないが決まるんじゃ。徳さんとわしじゃあ、変わらんよ。」
徳三は幼少の頃から一緒に過ごしてきた年下の義春をいつまでも若造と思っていたが、目の前にいるのは、作業ズボンのチャックが開いたままの間の抜けた、ついでに歯も抜けた、上下にひょろ長い爺さんに違いなく、お互い元気だからと言って気にも留めない様にしていたが、間違いなく自分たちは高齢者だということを仕方なく再確認した。
「ほいじゃが、うちの集落には動けるもんばかりで、皆、若いで。」
「徳さん、皆、体は若いかもしれんが、頭が若こうない。なんもかんも忘れてばっかりじゃ。やっぱ平山は爺さん婆さんの集まりにはちがいないで。」
徳三は言われるままテントの裾を持ち引っ張った。白いナイロンはシュルシュルと擦れる音を立て、皺を伸ばして乾いた草っ原の上にハッキリと広がっていく。同時にバンと空気を跳ね返す音を立ててテント地を張ると、二人はお互い声を掛けあうこともなく、あうんの呼吸でテント地を金属パイプの骨組みに慣れた手つきで素早く張っていく。「平山地区こども会」と書かれたテント地を張り終えると二人で両端の鉄パイプの梁を軽々と持ち上げ、泥のついた長靴の足で関節の曲がった鉄パイプの脚をコンっと蹴り上げ、瞬く間に全長五メートルのテントを建てた。
「こんなもん、明日の朝にでもすりゃあ、ええんじゃが。」
口を尖らすように義春がつぶやくと、徳三は諦めがちに、なだめる様にすぐさま返す。
「前の日の昼までに準備するのが決まりじゃけえ仕方がない。さあ、婆さんらの椅子を並べるで。トラックまで取りにいこうや」。
円を描く広場の端に、切掛けのような入口があり、そこから枯れた杉葉の絨毯の裂け目のような薄暗い小道を辿り、徳三の軽トラックの止めてある神社に向かう。
「しかし、嫌じゃ。なんでわしが長をせんといけんのんじゃ。」
「徳さん、そりゃあ、順番じゃけえ、仕方ないよ。」
「ほいでも、二度目で。一回やっとるんで!厄払いに四十代ですることを、なんで七十過ぎてせんといけんのんじゃ!」
「若いのがおらんけえ、仕方ないじゃろう。そんなに嫌じゃったら、さとし君に家に戻るように言えばいいんじゃ。うちのより二つ若いけえ、四十五になろうが。」
「さとしは帰ってこんよ。転勤ばっかりで、今、愛媛におる。それに長は、長う住んどるもんじゃなきゃ、やっちゃいけんことになっとる。」
「まあ、今更帰ってきて、ごせさんするのは、無理じゃろう。ごせさん、ありゃ、毎年見るが、怖いけえねえ。ああ、徳さん、もしかして、ごせさん恐れて弱気になっとるん?」
義春がじゃれつく様に軽口を叩くと、徳三は癪に障り口を噤んだ。しかし、義春の言っていることは間違いではなかった。徳三は明日、長となって「ごせ」と正面から向き合うことになることを考えると、正直、恐ろしくて眠れない程憂鬱になっていた。物心付く頃から「ごせ集め」を見てきたが、どうしても「ごせ」に馴染めず、未だに「ごせ」が登場する悪夢に魘されることがある。
「おい、生意気いいよると、わし、今晩、ぽっくり死ぬで。そしたら、おまえが順番で長の当番になるんど。そうなっても、ええんか?」
徳三はすっと立ち止まり、ゆっくりと振り返り、義春の顔を見て凄味を出して本気で脅した。義春は徳三の雰囲気にたじろぎ、風もなく物音一つしない、閉じたような空の遠い薄暗い杉林の、逃げ場のない湿った冷気を全身で感じることになった。
二人して無言で歩くこと二十分、ようやく杉林が途切れ、日の当たる小さな神社の境内に着いた。白い軽トラックの荷台に徳三は飛び上ると、積んである鉄製の折りたたみ椅子を境内の静寂を破壊するように、ガシャガシャと激しい金属音を立てて広場に投げた。義春は腕を伸ばして、投げられた白菜を受け取るように、飛んでくる椅子を音も立てず柔らかく受け取った。それから素早く椅子を五脚づつ地面にそっとまとめた。徳三は最後の一脚を投げ終えると同時に軽トラックの車体を揺らして荷台から飛び降りて、積んである椅子を片腕に五脚づつ抱え、がっちり掴み、すでに徳三のように椅子を十脚抱える義春に続いて、再び神社の裏手から、薄暗い杉林の中へ、音のない駆け足で消えて行った。
今年のごせあつめがある五月二十一日の正午を迎えようとしていた。テントの下には椅子が二十ほど並べられ、七十を超える婆様達がほとんどで、若い母親が二人ほど、一人は三歳の男の子を膝の上に乗せて、もう一人は生後間もない赤ちゃんを胸に抱えている。三歳の子は母親の膝の上から降りることに躍起で、母親はのたうち回る息子に苦戦しながらも祭りの始まりの静寂さを守っていた。赤ちゃんの方は、日差しが柔らかくなったテントのぼんやりとした明かりに安心して、ぐっすりと眠っている。婆様方は身を乗り出して椅子に座り、長の掛け声を黙って待っている。
ごせ沼は静まり返っている。平山地区の平均年齢七十三歳の男たちは円陣を組んで沼の粒子の細かい泥に膝まで足を沈めている。雪解けが溜まった沼の水は切れるほど冷たく、ふんどし姿の徳三たちを爪先から芯までキンキンに冷やしていた。もうじき太陽が沼の上空を通る。徳三たちは沼に突き刺さった杭のように微動だにしなかった。水面は静寂を守り、青空をそのまま映し、その映像は写真のように揺れることが無かった。
沼を中心とした周囲の景色が全く動かないので、時間が止まったように見えたが、やはり地球は確実に自転し、太陽が見かけ上の運動で迫ってくる。唐突に杉の木の天辺あたりから日が当たりだして、周囲が徐々に明るくなった。杉林にぽっかり開いた筒に日差しが入ってきた。差し込む真っ白な光が徳三の眼を突いた。沼の端に白い太陽が光を破ったようにギラついた。徳三は鼻の穴を広げ、胸一杯に杉林の空気を吸い込んだ。湿った土の匂いがした。冷えた体に冷たい空気が入り込んだが、使命を背負った徳三の命が、それを熱く沸騰させる。肺の中で熱気を帯びた空気が渦を巻き、世界に飛び出ようとする。徳三は目を瞑り、体中の力を胸に溜め、圧縮し、満杯、これ以上は溢れてしまうところまで溜め込み、そこでついに爆発させる。渦巻く力は肺から続く細くなった気管を通り、流速を早め、勢いを増して、大きく開けた徳三の口から空気を破って世界に発せられる。徳三の最大限の声量が、静まり返った杉林を真っ二つに割る。それは野獣の叫びにも似ていたし、激しい落雷のようにも聞こえた。空気が震え、反響し、振動が八方向に一気に広がっていく。見えない突風が吹いた。
「ごーせ!」
ごせあつめが始まった。徳三の怒号のような第一声に続いて、円陣を組む十八人の男たちが、低く唸るような声で地面を揺するように
「ごーせ、ごーせ、ごーせ。」
と続けた。徳三の掛け声が天焦がす荒狂う炎であるならば、続いた集団の掛け声は地面のうねり、マグマの胎動、地鳴りだった。男たちの発した声で、杉林の湿った空気がかきまわされ、熱気を帯びた渦となる。徳三たちの掛け声は交互に繰り返され、四拍子の空気の渦巻きはゆっくりと、しかし力強く回り始め、加速度を増していく。見ていた婆様達は瞬きを忘れ固唾を飲んで見守っている。三歳の子供は掛け声を単純に恐れて、母親の胸にぎゅっと顔を埋めた。遠くで異変を感じた鳥たちがギャーギャーと騒ぎ始めた。静寂から一転、森がざわめく。
太陽が四角い沼の真ん中に、巨大な槍のような白い光を突き刺した。水面に映った眩しい光が跳ね返り、屋外の写真撮影でレフ板を使ったように徳三たちの顔を白く照らす。眩しい白い光が顔に当たると男たちは耐えきれず目を閉じた。しかし、長である徳三は目を閉じてはならない。止めることなく「ごーせ!」と掛け声を上げながら、ギラギラとする水面に映った太陽を網膜が焼切れようと見続けなくてはならない。延々と続くような掛け声に喉が枯れても目を瞑ってはいけない。水面の変化を見逃したら、ごせあつめは失敗に終わってしまう。激しい白い光は容赦なく徳三の眼の裏を焦がす。しかし徳三は歯を食いしばり、全霊を鼓舞し、振り絞るような力いっぱいの掛け声を上げ、鼻の頭が光にくすぐられるように不快であっても、瞬きさえしない。あまりの激しさにこめかみが脈打ち、鼻血が出そうになったが、ここで失敗してはならない。何百年も続いてきた平山地区の営みを自分の代で途切れさせるわけにはいかない。しかし、七十過ぎた徳三の体には心底堪えた。緊張が神経の束をギリギリと攻撃し、集中力が切れかけた。頭の中が視界と同じように真っ白になろうとした。もう耐えられない。余命が尽きてしまう。徳三は一瞬弱気になった。今朝、妻から「無理することはないんよ、もう、若い人がおらんけえ、ごせあつめは無理なんじゃけえ。誰も責めんよ。」としんみりとした優しい声を掛けられたことを思い出した。同時に妻が寂しそうな顔をして、良く晴れた日に縁側に座るイメージが浮かび上がる。もし俺が失敗したなら、妻は肩身が狭いだろう。それに我が故郷、平山はどうなってしまうんだろう。いや、失敗したことを考えるべきではない。生きている限りは、生きるためには、するべきことをやらなくてはならない。十字架を背負わされるような、逃げ場のない思いを抱き、それを振り払うかのように自分を奮い立たせた。
ギラギラと白く輝く太陽の光に銀色がかかってきた。徳三は三十年前のごせあつめを思い出した。働き盛りの四十代の頃、もっと平山地区には人がいた。ごせ集めを五十人で行い、その人数で、ごせ沼があふれる程で、その時、長である自分は皆から注目され、地区の英雄のように誇らしく感じていた。遠い日の記憶は昨日の出来事のように、生々しく思い出される。変わらない太陽、変わらないごせ沼、経験が教えてくれる。もうすぐだ。もうすぐ、泡が立つ。
水面がほんの少しだけ盛り上がった。徳三は見逃さなかった。途切れかけた視界で、それを見つけた。見つけたと同時に素早く腕を伸ばし水面に指から突っ込んだ。凍えるような水は固かったが、ポシャンと音を立て、水面の静寂を破った。
指先の繊細な神経は、その冷たさに激しく反応し、疲労と緊張で熱せられた体の芯は急激に冷やされ、真っ白になりかけた視界に緑、青、茶色と色彩がテレビのスイッチをつけたようにハッキリと戻ってきた。突っ込んだ手のひらを水中で反して、腰に力を入れて、重い水を地表から剥ぐように突き上げた。水は腕を水中に留めようと必死に纏わりついて抵抗したが、徳三の腕は機械のように振り上げられ、張力により張り付いた水を打ち破り、飛沫を上げて、水面に映った太陽に水を飛ばした。飛沫により破られた映り込みの太陽の下、水面から出ようとした「もの」は驚き、一旦は引っ込んだが、再度、日の目を見ようと盛り上がった。戦いが始まった。徳三に続いて、円陣を組んだ男たちも水に手を突っ込み、水遊びを真剣にするように水をかき上げ、燃え盛る炎を消すように中心に水を当てた。
パシャパシャと水が音を立てて、水面が激しく割れた。映された太陽の光はガラスの破片が散るようにばら撒かれ、あちこちでキラキラと光った。男たちは激しく舞う飛沫で頭の先からずぶ濡れになっていった。知らない人が見れば、爺様たちが裸になって、浮かれすぎて、田んぼで水のかけっこをしているように見えるかもしれないが、十八人の男たちは必死だった。テントの下の婆様達は立ち上がりそうになっていた。それは、もっと見ようという野次馬的な前向きな行動ではなく、その場から立ち去ろうとする後ろ向きな動機によるものだった。ついに出てくる。女たちは落ち着きを無くし、足元が消えて無くなるように恐れた。三歳の子を抱える母親は子供をぐっと抱きかかえた。赤ちゃんを抱える母親は後ろを向きたかったが、我慢して、しっかりと赤ちゃんを抱きしめた。
男たちは腕が千切れるほど振り回し、かき上げ、気が狂ったように必死に水をかけ続けた。ごせ集めは「イサメ」のターンに入った。掛け声は、徳三と男たちの交互ではなくなり、四拍子から三拍子の連続したものに変わった。息を吸いながら「ご」と言い、「せ」で切る様に息を吐いた。長く伝わる「イサメ呼吸」によって、「ごーせっ!ごーせっ!ごーせっ!」という独特のリズムが刻まれる。その掛け声は行動の同調の為ではなく、これから起こる恐怖に打ち勝つための、自分は一人ではないという確認の為のものになっていた。力を合わせて打ち勝つための掛け声、それは暴力的な程必死で、怒号でも、振動でもなく、最後の祈りのように、周囲の空気を平面的なものにしようと躍起になっていた。その切なる人間の感情を逆なでするように
「ゾヨ、ゾヨ、ゾヨ」
ヒキカエルが鳴くような、小さな鳥が喉をつぶしたような気味の悪い高い声が、激しく揺れる水面の合間からじんわりと湧き出てきた。そのおぞましい声は徳三の理性をはぎ取るような恐怖を与えた。他の男たちも、まとわりつく気味の悪い声を聴き、恐怖で体の芯がギュッと締め付けられた。恐怖で心臓は激しく鼓動し、あまりの寒気に鳥肌が立ち、これから始まる恐怖に喉が締め付けられ、渇いたが、「ごーせっ!ごーせっ!ごーせっ!」の掛け声を止めるわけにはいかなかった。止めたら、どうなるか、平山地区に伝わる昔話で聞いていた。「ごせ」の掛け声を止めると、ごせさまが暴れ出す。暴れたごせさまは皆を食らう。呪われ不作となる。病が流行り全滅する。誰も見たことのない恐ろしい伝記が平山地区の住人には明確なイメージとなって幼いころから刷り込まれている。そんな恐怖のイメージが住人達を戒めてきた。そのため平山地区の住人達は従順で温和だった。闘争心は年に一度だけ、ごせあつめの為に溜め込まれていた。
「うわあ、でたあ!」
義春の妻が水面に顔を出したごせに気が付いて思わず声を上げた。他の婆様たちも恐ろしいが目を凝らし、男たちが戦う相手であるごせの姿を確認した。大きさは両手にすっぽり収まるくらい。表面はつやつやとして、形はゆで卵のように少し間伸びた球体で、しかし、なすびほどではないが歪んでいる。色は乳白色だが、見ようによっては、幼い子の眼球のように青がかった白にも見える。その白い物体には細い目があり、低い鼻もついている。口元は薄く、しかし、そこだけ赤色で、この世にあるものでたとえると、おたふくのお面にそっくりだった。そんなごせが四角い沼の真ん中から沢山、泡のように湧き出てくる。水を掛けると怯むが、どんどん、止まることなく湧き出てくる。能面のようなごせの顔が男たちの輪の中でうず高く積み上がっていく。テントの下の婆様達は見上げる程うず高く積まれるごせの山を見つめ、巨大な蛇に睨まれた様に鳥肌を立てて恐怖した。ごせの恐怖が一気に広がる。早くここから抜け出したい。婆様達は長である徳三の動向に期待を寄せた。
溢れる程増えたごせたちは、男たちの円陣を突き破ろうと必死に飛び掛かってきた。しかしそれは、毛を剥かれた鶏をぶつけられるぐらいで、力学的な衝撃は大したことはなかったが、異形で、つるっとしたごせの姿が際限なく迫ってくることよる心理的な衝撃は大きかった。ごせはヌメッとした粘液に覆われて、蛇のようにヒンヤリとしていた。ゆで卵のようにつるつるとして、生肉のような弾力があった。それがウジャウジャと水面にとめどなく浮かんできて、膨大に増えていく様は大量発生した生きている芋虫を一升瓶一杯に詰め込んだように気味悪く、生首が畑にばら撒かれた様に異様だった。「ゾヨゾヨゾヨ」と気味の悪い声が炭酸の泡が弾けるように目の前でざわめいている。ごせたちは集中豪雨のように勢いを増す。水をかけても効かなくなってきた。徳三は迫りくる恐怖にさいなまれ、同時に生死をかけた戦いに興奮をしていたが、長としての冷静さを持ち合わせていた。もうすぐ終わる、いや、これからが本番。昼寝から目覚めたような聡明さで「シバリ」のターンにごせ集めを進める。徳三は水面から手を上げて水平に手を伸ばした。伸ばした先に何も無かったが、徳三の無言の意志に気配のようなものを感じ、頃合いに気が付いた義春も水面から手を抜き、徳三の右手を握った。目の前の視界がごせたちの大きな笑い顔で塞がれた中、お互い、繋がれた冷え切った手の奥、皮膚の底に広がる人間の手の温かみを感じて、心底、安堵した。徳三の伸ばした左手にも、ふっくらとした杉浦範義の手が握られる。太った杉浦は徳三のゴツゴツした大きな手が頼もしかった。しかし、地権者である杉浦範義は今年の秋に始まる高速道路の建設により、この沼が無くなることを申し訳なく思った。そんなことは知らない徳三は力強く握られた両手を広げ、ようやく翼を得た鳥のように、生きる自信のようなものを取り戻した。目の前で騒ぐ小さなごせなど、もう怖くない。もはや自分は無力な一人ではない。
徳三を長とする十八人の男たちの手は自然に鎖のように繋がれ、びくともしない強靭な大きな輪になった。
「ごーせっ、ごーせっ、ごーせっ!」
掛け声がぴったりと揃い、追い風のような迫力がついた。お互いの手を手繰り寄せ、手の平から手首に掌を少しずつだが、ナメクジが這うように移動させる。集まったごせは高さ五メートルを超えていた。徳三の反対側にいる忠義は百八十もある大きな男だったが、目の前に立ちはだかる集まったごせの塊を見上げた。見上げることに慣れていない忠義は口が開いたままで、ごせが自分の方に流れ込んでくるのではと恐怖したが、このごせの山の向こう、繋がれた手の先に知った人間がいることを思い出し、大丈夫だと確信した。
これから男たちは円陣を狭めてごせを集めて、締めていく。テントから眺めていた婆様達は「シバリ」ターンになって、ようやく椅子から立ち上がり声を上げることを許される。男たちの掛け声に合わせて「ごーせ、ごーせ、ごーせ!」と必死に声を合わせる。戦う男たちにようやく合流できた女たちは、期待と興奮を織り交ぜて、まるで娘時代に戻ったように、顔を皺くちゃにして、きゃっきゃと嬉しそうに声を上げる。
ごせとの戦いに、平山地区の皆が陶酔した。同調する掛け声が、胸を震わせ、血が沸き立ち、全身を巡る神経は高ぶり、体のずっと底の方から、くすぐる様に力が湧いた。同じものに立ち向い、声を合わせる一体感に、心の底から安心した。みんなが繋がっている。嬉しかった。みんなで一致団結して、一人ではとうてい敵わない巨大な存在と命をかけて対立し、生きているこの瞬間、互角に、怯むことなく、恐れることなく戦えることが誇らしかった。
男たちの腕の輪は締め上げられ、十八人が肩を組んでごせをさらに締め上げていた。ヌルヌルになりながら、体全部を使って、ぶつかって行く様にごせを閉じ込めようとした。顔の前に気味の悪い真っ白な幾つものごせの顔が押し当てられたが、もう、怖くなかった。
ついにごせが集められ、沢山いたごせたちがくっつき始めた。白い表面が溶けあい、集まったごせは真っ白な大きなマシュマロのような塊となり、そこに目、鼻、口が浮かんできた。大きな細い目が開かれ、金色の瞳が目の前の徳三を睨み付ける。大ごせに変化した。徳三は負けなかった。集団であることで、恐怖に打ち勝つことが出来ていた。金色の大きな目に怯むことなく、腰に力を入れ、腕を締め上げ、体を絞り切る様に掛け声を上げる。十八人の男たちが最後の力を振り絞り、人のの輪によって、おおきな白いごせの顔を掛け声とともに締め上げる。
「ごせっ、ごせっ、ごっせ!」
一体となった声が力強く弾んだ。お互いの筋肉が盛り上がった肩を掴み、とどめを指すように一気に締めあげた。大ごせは苦しそうに「ゾヨゾヨゾヨ」と耳元でささやくような、しかし、血に伝わるほどの振動で、呪いのような気味の悪い声を上げ、おぞましい大きな笑顔を捻じ曲げ、窮屈に歪めていたが、とうとう、「ボユン」と大きな音を立てて弾けてしまった。大ごせのおたふくの微笑は真っ二つに引き裂かれ、裂け目から半透明の紫色がかった液体が吹き出した。ついに、徳三たち住人一同は、ごせを倒したのだ。悪夢を乗り越えたことに徳三は歓喜した。身が軽くなり、解放されたかのように雄叫びを上げた。男たちは裸で抱き合い、お互いを湛え、白い歯を剥いて喜びに沸いた。テントの中の婆様達は手を取り合って、キャーキャーと声を上げて嬉しさにはしゃいだ。あまりの騒ぎ様に眠っていた赤ちゃんが目を覚ました。
森にあいた大きな穴から覗き込むと、戦い終わって、沼のほとりに皆で円を描き座り込んでいた。屈託ない笑い声が響き合う中、ごせ集めのことを肴に酒を酌み交わし、持ち合ったご馳走を頬張り、かき集めたごせから出た紫色の液体をみんなでお椀に分けて口をつけていた。ごせから出たそれに味はないが、生ぬるく、少し生臭い。しかし、ずっと昔から平山地区の住人は知っている。それを飲めば一年間、病気することなく、不思議な力が湧くことを。




