表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

その3 オモロイド売り(広島)

「思い通りにならんのう。」


男は口から不意に言葉を溢した。その言葉は発すると同時に飲み込まれ、胸のあたりから滲み出て、じんわりと不幸に黒ずみ、消去の方法が野蛮な方法しか思いつかないほどの厄介な深い染みになって、それは当たり前のように緊張感を伴うヒビを走らせ、その嫌な隙間から、経過と共に仕方なく漏れたような言葉だった。

夏至を迎えようとする真上からの六月の日差しは、張りを失いつつある皮膚の細胞に差し込むぐらい結構強く、じっと小さく座り込んだその男とは関係ないように、頭上の空は真っ青で、誰からも咎められることなく無秩序に広がり、その後に来る茹だる様な真夏を予感させていた。確かに目の前には太田川放水路河川敷の青々と茂る下草の緑が眩しかったが、それに引き換え、新しい季節に向かう薄皮を剥ぐような勢いが重りのように佇む男には既になかった。男の視界に入る向こう側、そう、どうしても、一本跨る広い川の向こう、灰色の建物が立ち並ぶ街の景色に湿気多くまとわりつくような不安な薄い靄がかかっていて、その半透明の仕立ての悪いカーテンが、攻略しようにも、難攻不落、どうしようもない灰色の壁となって男の前に立ちふさがる。あの壁の向こう側、ずっと前から若い太陽に照らされて、屈託なく、燦然と輝く世界は、すでに、その男にとっては、羽目殺しのガラス窓から見える黄色いタンポポのように、決して手の届かない場所。まるで見たこともない月の裏側のような立ち入ることが出来ない彼岸。だが、膝を抱えて座り込んでいた男には分かっていた。あれはとっくに逃してしまったもの。先に手を挙げられた簡単な回答。反対車線で停留書から発車したバス。過去に遡らない限りは、いや、遡ってさえ、手に入れられるか怪しい代物。

「オモロイド売りにならん者?なんや、そりゃ聞き逃すことが出来んなあ。ワイの商売邪魔すんのか?」

男は後ろから突然甲高い声に話しかけられ、錆びついた重い首をゆっくりと百十度右に回す。肩越しに目だけが後ろの人物をじっくりと捉えた。まず、そこには白く塗られた顔があった、その粉吹いた凹凸のある白いキャンバスには、大胆に跳ね上げられた赤い太い線が燃え上がり始めた炎のように勢い良く上昇の曲線を描いていた。それは威嚇するために吊りあがった眼に見せるため、食らいつくような獰猛な大きな口に見せるために、赤く縁どられた大胆なメイクだった。それに煌めく紫色のダブルのスーツを着ていた。座り込んだ男は二度大きく瞬きをした後、再び首を前に向け、黙って見過ごそうかと思ったが、この期に及んで、度量の狭い男と思われたくないと瞬間的に思ってしまい、すこし上ずった声でその姿に突っ込んでみる。

「なんなんじゃ、お前はジョーカーなんか?」

男が必死になって発掘した言葉はその程度だった。立合いなら、この時点で勝負はついていた。座ったままの男は中央から真二つに切り裂かれていたことだろう。しかし、ここには研ぎ澄まされた刀は無く、あるのは、緩い風と強烈な日差しだけだった。しかし、白塗りの怪物は、破綻より継続を選んだ。

「ええよ、わい、ジョーカーやったるわ。だったら、あんたはレブルや。ええな?」

字の汚い招待状のように何十年来の親しみさえ感じられる問いかけ。男は返す言葉に突き放すようにそっけないものを選んだが、実はどうして、言葉の角はそろそろ取れて、久々の意志の疎通、継続に期待するようなくすぐったさを忍ばせて、分かりきったような素朴な疑問を投げかける。

「レブルってなんだよ?」

ジョーカーは流れを塞き止めることなく、加速度を増すように、予定裏にあるように、実直、丁寧に続ける。

「反逆者っちゅう意味や。まあ、深く考えな。ほんならわしらは本田兄弟としてコンビを組むで、ええな?しかしなあ、レブル、君はあかんぞ。オモロイド売りを否定したらあかん。ええか?オモロイド売りの起源はなあ、宇宙世紀ミラクル元年からって、相当な歴史があるんや。」

「なんだよそれ?宇宙世紀って、数十億年も前からあるのか?」

「いや、楽天が奇跡の優勝をしてからや。」

「それって、半年前じゃないか!」

レブルとなってしまった男はグダグダな会話の果てに突っ込みながら思わず、すっと立ち上がってしまった。暗幕が下りるような血液の下降、多少の立ちくらみが、新生児の気持ちを味わった様に新鮮だった。景色の薄皮が剥がれた様に、空気がヒリヒリとしたものに変質した。

結果的にはレブルは無意識にジョーカーの懐に乗り込んでしまったのだ。横に並ぶとジョーカーの頭はレブルの肩ぐらいしか無く、レブルはジョーカーが案外小さいことに気が付いた。それに顔に塗りたくられた白粉は汗ばんで溶ける様に滴っている。少し剥げ上がった生え際は白粉が完全でなくて、ちょっとした境目に黒ずんだ肌色が見えて、なんだか、世間をまだ知らぬ中学生達の学芸会のような素人丸出しの手作り感が強く、正直、程度が低く、貧乏くさかったが、そこをいじるとジョーカーが貧しい雰囲気を纏い、どうにも気の毒なように思われて、それに関しては言うまいと言葉を飲んだ。

「おお、その気になってきたな。ええぞ、まあ、オモロイドを売ることは中々難儀や。そんじょそこらでは扱っとらん。しかしなあ、専用の券売機が駅にある。」

「何?オモロイドって切符のことなのか?」

そこへちょうどよく河川にかかる鉄橋を渡り、横川駅に入っていく電車がカタコトとのどかな音を立てる。河川の水面は太陽の光を浴びて、釣りあげられた魚の鱗のように光り、その湿った光が逆光となって、電車の客席の人影だけを黒く映している。

「ちょっと、違うけどな。まあええ、ワイが駅員やるさかい、レブルは乗客や。えー、それでは、切符を拝見しまーす。」

敬礼に始まるジョーカーによる駅員の仕草が始まり、仕方なくレブルは話に合わせて切符を摘まむふりをする。そして、ジョーカーにそれをそっと差し出す。

「おまえ、なめとんのか!今のご時世、切符切りなんておるか!自動改札機や!」

「じゃあ、切符を拝見なんて聞くな!」

歯を剥き出し、大声で罵り合った後、ここで成り行きに任せてレブルはジョーカーの肩をグっと押した。レブルは自分より小さいジョーカーがぐらりと来るかと思ったが、電信柱を押すぐらいビクともしないで、ジョーカーは岩のように何事もなく立ち尽くす。レブルは青空の下、突如として、真っ黒な壷を覗き込んだような底知れぬ恐怖を感じたが、急流を流れる自分が流した笹船を追うように、すでに後戻りは出来なかった。

「それよりレブルくん、ドンって何のことか知っとるか?」

さっきまでのことはワイパーでふき取られた様に一切なくなった。仕切り直されたジョーカーは穏やかに語りかける。レブルは切り替えに戸惑ったが、この立ち位置において、狩に連れ出された犬のようにジョーカーという目的物の追及しか、することが無くなっていた。咄嗟に答を求められ、脳内のシナプスを手繰り寄せ、ずっと奥の方に隠されていたドンと言う言葉の検索に余念がなかった。

「ああ、それは、通貨のことだろ。」

「そうそう、ベトナムの通貨って、ここでは関係あらへん!ワイが言いたいのは敬称の事や。様とか殿とか様みたいに使うらしいけど、使ったことあるか?」

「いいや、ない。」

「じゃあ、使ってみよう。レブルドン、ドドンがドンはドンな感じ?」

ジョーカーは楽しそうで穏やかな雰囲気。レブルはそれがどうにも気に入らない。わざとらしく感じられて、分かりきった子供だましを試されているかのように、知恵が無いのを見下されたような不相応な不愉快さが増してくる。だから、とたんに飽きてしまった。

「なにが?」

「何がやあらへん!ドドンガドンの話をしとるんや!」

ジョーカーはこの二人の会話で建造されつつある世界を壊すまいと、ぶっきらぼうな反乱者を威嚇するように口調を強めた。だが、レブルは壊しにかかる。

「白い顔して、何がドドンがドンなんだよ!ジョーカー!」

「おい、ちょい待てえ!ちゃんとドンの敬称着けんかい!ジョーカードンやろが!」

そう言うと、ルールを守ろうとしないレブルに対して、正義の名のもとにキレたジョーカーがレブルの胸ぐらを掴んで、台に置いたカバンを持ち上げるように力を入れると、掴んだレブルの足が地上から離れた。月面の無重力に漂うように軽々と宙に浮いたのだ。吊り上げられたレブルから見える上目遣いのジョーカーの形相はメイクも相まって、半狂乱の鬼のような、生理的に恐ろしい印象をレブルに与えた。訳の分からぬ恐怖と物理的な吊り上げで頸動脈を締められたので、レブルの胸は激しく鼓動を打った。息苦しい。そうなると命に係わる恐怖がレブルの言葉を失わせた。死が近づいている。こうなると、打開すべく必死で口をよじらせ、よだれを垂らしながら、何とか、こじ開ける。

「・・悪かった、こんどから敬称はすべてドンにする。許してくれ。ジョーカーどん。」

上ずった嘆願によりレブルは地面に戻された。ジョーカーの形相は固まったまま、レブルはせき込みながら、静まり返った教室にあるような緊張感を持って

「それで・・・ドドンがドンって、ドドンガ様ってこと?」

と怪我人にハンカチを渡すようにそっと聞いてみた。

「なんや、分かっとるやないか!そうや、そのドドンンがドンなんやけどな。どんどん言うて、もう、訳分からんぞ!わははははは。」

 それはこっちのセリフだ!と突っ込んでみたかったが、さっきあった死の淵を思い出し、レブルは躊躇した。仕方なく無難な返しを考えたが、あまりいいものが浮かんでこなかった。だが、ここで何か会話の世界に貢献しようとしているという意思表示をみせないと、この二人においての実質的な支配者であるジョーカーからの許しのようなものを得ることが出来ない。なんだっていい。会話の糸口というものは、得てして意味不明な、役に立たないがらくたが正体であるということは周知の事実だ。

「ジョーカーどん、だとしたら「どんべえ」って、「べえどん」が正解になるの?」

一応返してみたが、じっとジョーカーはレブルを見つめるだけで、何も言わずに少しだけ時間が過ぎた。教師に対して間違えて「おかあさん!」と思わず呼んでしまったような妙な失敗感が湧きだす。途端レブルは急に顔を覆いたくなるほど恥ずかしくなり、無言のすっかり冷めた様なジョーカーから目を逸らした。だだっ広い河川敷で二人きりだったが、目を逸らすとたった一人になれた。相変らず短く刈り込まれた草むらは緑色が眩しく、生き生きとしている。大きな川はゆったりと流れ、空の素直な青を映している。水面を走ってきた風が、何時の間にか勢い切らして、最後の吐息のように、レブルの頬をそっと撫でる。そこに僅かな生きる隙間のようなものを見つけてほっとすると、不意に子供たちのことが脳裏に浮かんだ。ボールを投げてやるだけで子供たちは声を上げて喜んでいた。犬のように走って追いかけて、掴んだかと思うと踊るようなフォームで届きもしないのに投げ返したりして、ほんの半年前、ちょうどこの河川敷で行われたことだった。

「話は終わっとらんぞ!」

大きな声と共に、目の前にジョーカーの顔がにょっきりと出てきた。思い出は遥か彼方、岸の向こうに消えていく。レブルはうんざりしていたが、この場から逃れる術を見失っていた。入り込むための隙間を見失った者は、紐で引っ張られる操り人形のように、何時までも強制的に、その場で踊り続けるしかないのだ。「これは社会的活動だ。」レブルは腹を括った。そうなれば演じるだけの事。楽しくもないのに笑顔を作った。それは今までやってきたことだった。胸に空気を溜め込め、自分を捨てて、機嫌よく早起きしたように快活に声を出す。

「ジョーカーどん、どんどん行きましょう。」

「ワイは西郷どんか!どんなんてもうええ!それよりな、最近は犬を飼うのも一苦労や。うんこ袋持ってしっぽ追っかけよるなあ。よし、それじゃあ、犬の散歩やってみようや。わいが犬やるで、レブル、君は初心者マークの飼い主や。わんわん!」

ジョーカーは犬のお座りの格好をして舌をだしてハアハア言い出した。素直な犬の可愛い表情をつくったジョーカーにレブルはイラつき、この話題の展開に着いていこうか一瞬戸惑ったが、すでに猛スピードに達していた笹船を見失ったわけではなかった。いや、もしかしたら、この場では笹船を追いかけることしかできないのかもしれない。レブルは右腕を少し持ち上げ、鎖を持つ仕草をした。

「わんわんわん。」

「よしよしジョーカー、散歩に行くか。」

「わふん、わふん!」

ジョーカーの舌を出した喜んだ犬の表現は見事なものだった。嬉しそうな声を上げて、ジョーカーはレブルに飛びつき、大きく口を開けて長い舌をレブルの頬にべろりと這わせた。これにはレブルも寒気を感じて鳥肌を立てる。顔を白く塗ったおっさんに顔をピチャピチャと舐め尽くされる恐怖。ジョーカーの口臭はいい匂いの訳が無く、こんにゃくより不安定な柔らかな舌の感触が顔の神経を撫でまわし、胃液の酸味が混ざった強い匂いが生暖かい唾液と共に顔中に塗りたくられる。レブルは気持ち悪くて、恐ろしくて、衝動的に纏わりつくジョーカーを突き放そうと手足を伸ばして躍起になったが、ジョーカーは機械のようにレブルを挟み込み、自由を完全に奪った。だが、足場は河川敷の法面、傾斜は強く、暴れるレブルにジョーカーもバランスを保つことは出来なくなり、二人して倒れ込んで、引力に逆らうことなく転落、草原を三回転がり、ステージを変えて、その下の板チョコの様な模様のコンクリートブロックの固い斜面を転がり落ちる。レブルは目を閉じていたので、赤みのかかった暗闇と痛みによるチカチカした閃光が頭の中でこんがらがって、鈍い痛みがゆっくりと体に巻きついてくる。ドラム式全自動洗濯器に押し込まれて回されているようなめちゃくちゃな回転をしながら、少し熱を持った固いコンクリートの斜面を転がって、天地逆さま、青い空が地面に巻き込まれ、コンクリートが目の前を通り過ぎ、鼻先が捻じ曲げられ、肩や肘なんかの体の角を削られながら、ゴロゴロと二人は絡まり合って転がっていく。その間、レブルは通勤していた頃の駅の雑踏を思い出していた。

轟のような回転は落下の終了と共にピタリと止み、あとは乾いた土の匂いと、湿った草の匂い、それにコンクリートのどうしようもない固さだけが残った。目を開けると灰色の煤けた地面が水際まで伸びて、対照的に目の前に小さな石が転がっている。これまで停止していた世界のささやかな音がいきなり耳元に戻ってくる。起き上がろうとすると、首筋や膝の裏、背中の下の方からビリビリとした痛みが電撃のように突き抜けた。手足を中心に集める様に体を縮めて、指先が動くことを感じて、レブルは自分が生きていることを実感した。途端、ひどく安心した。安心すると、ジョーカーの安否が気になったが、白い皮靴と紫色の太いズボンがすぐに見つかった。ジョーカーはすでに目の前に立っていた。レブルは倒れたまま見上げた。降り注ぐ光を背にしたジョーカーの表情は逆光で見づらかったが、髪が乱れていて、頬の肉は平らで、目元口元も、せっかくのメイクでも隠し切れないぐらい平坦で、すっかり表情が消えていた。レブルはそれが、いかにも現実的に感じられて、急かされるように一気に立ち上がった。その間に、元の時間に戻そうと、さっきまでの会話を思い出し、取り繕うように言葉を出した。

「ジョーカー、さっきの敬称どんって、オモロイドをオモロイドン、つまりおもろい人って繋げ方にするための会話だったのか?今気が付いたんだ。それに、ジョーカーって、もしかして、ジョーカーじゃなくて、オモロイドだったってこと?」

レブルはこの場に合流しようと早口で頑張ってみた。

「はあ?そんなことはどーでもええ。振り返って見てみい。」

河川を背にしたジョーカーが転倒で爛れてしまったメイクにも関わらず、真面目な表情でレブルに顎で振り返る様に促す。レブルは落ちてきた斜面の方をゆっくりと振り向く。

河口部に繋がる整備されている河川敷は全長十七キロメートルにおよぶ。河川敷はほぼコンクリートで護岸を形成されており、一定の緩やかな斜面が幾何学的に続いている。だが、振り向いたそこには、欠けがあった。連続するはずのコンクリートの壁がホールのケーキを切り取る様に三角形に切り取られ、コンクリートの上端に頂点を置き、そこから二等辺が開度三十度で斜めに降りている。それは奥側にも一辺を置かれ、いわば、透明な三角錐が埋め込まれたように、斜面から切り取られていた。その切り取られた面は空の色を映したような水色で塗り込まれていて、斜めから入る太陽の光によって、左右の直角三角形は微妙に色を変えていた。北側の直角三角形は眩しいぐらい照らされ夏の空を思わせる明るい水色となっていたが、南側の直角三角形は、太陽が直射ではなかったので、比べると、すこし菫色がかった、冬の空を思わせる深い水色だった。目の前に現れた立体的に空を閉じ込めたような、高さ五メートルを超える三角錐。レブルはその大きな水色の三角を現実のものとは思えなかったが、ただ、こうやって目の当たりにすると、認めるしかなかった。

「見てみい!もし、転がり落ちた時、三角の切欠きのところに転がりこんだら、直接地面にズドンやったぞ、下手すりゃ死んでもおかしくない。レブル、お前たいがいにせえよ。」

ジョーカーが責める様にレブルに苦言する。しかし、その苦言の意味が理解できないレブルはボーっとして切っ掛けのような、延々と続く連続を遮断する水色の三角形に見入っていた。三角形の頂は刃物のように天に向かって尖っていて、その鋭角は様々な怒りを代弁している様に見えた。その怒りの反対の下側はコンクリートの地面に、仕方ないように斜めに落ちていて、その奥側にも水色の一辺が真っ直ぐに落ちている。落ちた先に正三角形の床が現れる。それは限りなく世界の底だった。いわば三角形の隙間のようで、レブルは、すぐに三角の中に強烈にひかれた。あの、三角形に行きたい。理由なんて思いもつかなかったが、ただ、その隙間が居心地がよく、その場に捕らわれたいという幼稚な衝動だけがレブルを支配しようとしていた。

「あそこから眺めたらどんなに楽しいだろう。」

率直な言葉がレブルの口から漏れた。それは、興味と希望に満ちていて、斜面を転がったため、砂や草に塗れ、全身をコンクリートに削られたボロボロな様子が、より一層際立ってしまった。だが、レブルは最後に見つけた、いや、今まで気が付かなかった自分の思いをようやく胸に抱いた感激で、悲壮感など微塵もなく、ただただ、楽しくなっていた。

「おい、やめい!そんなものに興味を持つな!レブル、あんなもの見るな!あれはオモロイドやない!オモロイドは大河原先生がデザインしたんや!けっして、そんな単純なものやないんや!目を覚ませ!よし、わしが歌うとうてやる。ワイの歌を聞け!

♪オモロイド純恋歌♪

♪世界が危ないとおもったら イエイ!

オモロイドが胸いっぱい突撃発進!

行き過ぎたオーバーテクノロジーで、イエイ!

すこしやりすぎました!

変身合体繰り返せ!でもね、間に合わない。♪」

 ジョーカーは拳を振り上げ、頼りないメロディーで思い出しながら、いや、思いつきながら妙な歌を歌った。レブルはそんなものを相手にもしないで、開いたエレベーターに乗り込むように当然のごとく、三角錐に入っていく。近づけば近づくほど、その三角錐の大きさが思ったより大きく、切り取られた後に塗り込められたコンクリートの処理が雑で、遠くからいつも眺める山を登った時のような、少し残念な気もしたが、しかし、奥側が斜めに落ち込んだ一辺が2メートルの三角形に足を踏み入れることが出来た。目の前の六十度の角となった辺が上下に伸びて右と左に水色の面が迫っている。頭上さえ塗られた水色に覆われる。音は切り取られた面に反射して、風がフィンフィンと籠った音に変形されていた。水色の壁に反射される光が、そのままペンキの水色を映しこみ、レブルの体を眩しいばかりの水色に映した。固い空に対面するようにレブルはじっと目の前の水色の壁を見つめる。その壁は圧倒的で、凹凸もなく、レブルはこのまま水色の壁に吸い込まれ、暴力的に塗り込められることを望んだ。この一部になれるのなら、そのまま、石となっても構わない。手をそっと水色の面に当てると、日の光で熱せられていて、塗られて日が浅いペンキは力尽きそうな粘着力をさりげなく発揮していた。レブルは心残りがあったのか、九十度回転して、その際に、三角の半天井が回転する様を楽しんで、河川側に振り返った。斜めの三角の底だったので、そのまま縋る様に倒れ込み、角に背中を押し込み、面と面との隅に挟まれて、太陽の熱に温められた面に心地よく挟まれ、大きな水色の三角形の窓からジョーカーを、その後ろの河川を、その向こう岸、その後ろにある街並みを見上げる様に眺めた。この三角の切欠き、隙間から世界を眺めると、ジョーカーの顔さえ柔らかく、景色には危険なものが取り除かれて、すべてが身近に感じられた。それは、久々に心地よかった。

 「おい、ジョーカー、オモロイド売りは分からなかったが、思い通りにはなった気がするよ。お前さえ、ここからなら優しく見える。」

 ジョーカーは水色の三角形にはめ込まれたレブルの姿を見て、勝った様に笑う。

 「そりゃ、良かったな。最後に聞くが、思い通りにならんかったって、なにが思い通りにならんかったんや?」

 レブルは家族や仕事のことを一瞬思い出したが、本当に思い通りにならなかったことをここでは、もう話したくなかった。あれはずっと向こうにある過去の事、河川敷を流れる放水路の向こう、彼岸での出来事。今は三角形に捕らわれて至福感に包まれている。

 「電話のむこうの年寄りどもが、思い通りに金を振り込まなかったんだ。おれはずっと年下のボスに怒られるし、でも、まあ、たんまり稼げたよ。」

 レブルは重い荷物を下ろすように晴れやかにジョーカーに告げた。

 「こっちは、おかげで思い通りや。かんねんせい!」

 ジョーカーが手を上げると何もなかった空に複雑な形をした影が音もなく、すっと広がった。鳥の集団が襲ってきたのかとレブルは身構えたが、空にヒビを入れたのは、緑色のナイロン製の網だった。パサリと網が落下した音の後、レブルは三角の窓を奪われ、急に我に返り、網を掴んで拭おうとしたが、斜面を下りる複数の足音と共に十数人の警官隊に囲まれた。レブルは取り乱したが、仕方ないように、その場に沿って、大人しくなった。これが終わりなのだろう。レブルがそう思った時、上空からバタバタとヘリコプターの音が急に大きく聞こえた。

 「タチバナケイ、詐欺容疑で逮捕する。」

 近づいた警官の声はヘリコプターの風切音でズタズタに切り裂かれたが、レブルはタチバナケイとして口の動きと状況から内容を悟り、それにしても大がかりな逮捕劇だと他人の事のように感心した。ヘリコプターの操縦士は上空からの水色の三角、警官隊、ジョーカーなどの箱庭の景色が賑やかな感じで、まるで何かの楽しいイベントのように見えた。

 

 一段落して護送車やパトカーはほとんど帰って行った。残されたパトカーは一台。さっきまでの人の気配が残ってはいたが、そのうち何もなかったように消えていく。ジョーカーは、すでにくたびれてしまったような水色の三角錐に目を向けて、なにやら損したような気分になった。白い皮靴の底はツルツルで護岸の斜面を登るのには向いてなかったが、爪先立ちでよろけながらゆっくりと斜面を登って行く。なんとなく呼ばれた様にジョーかが振り返ると川の向こうの午後の街が、少しオレンジかかった午後の日の光に照らされていて、何となくだが、世の中が微量の温度を失った様に感じた。

 「片山警部、お疲れ様です。さすがですね。これなら相手に怪我人がでないし、片山警部の顔を覚えられることもない。まさに一石二鳥ですね。」

 若手の山下巡査からのこれまで何回か聞いたような賞賛、ジョーカーのメイクを濡れたタオルで落としながら片山は、一仕事終えた満足感で一杯だった。ただ、あの護岸の切欠きの復元をどうするか少し気になったが、多少の費用が掛かっても悪が一つ摘まれたわけだから誰も文句を言わないだろうと自分に言い聞かせた。タオルから顔を引き上げ、白いタオルについた鼻血を延した様な不愉快なメイク汚れをじっと見ながら

 「それより山下、慣れない関西弁をこれからも使うかどうかが問題だ。」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ