第9話 大物レイヤー
熱気と喧騒が渦巻く、東京ビッグサイトの東ホール。
空調がフル稼働しているはずなのに、むせ返るような熱気と汗の臭いが充満している。俺は無数のオタクどもを掻き分けながら、一つの巨大な人だかりに行き当たった。
「最後尾はあちらです!通路を塞がないでください!二列に並んで!」
「すいません、最後尾札ここですか!?」
怒号のようなスタッフの声と、参加者たちの熱狂が入り混じる中、そこには他を圧倒するほどの長蛇の列が形成されていた。列の先頭に掲げられた巨大なポスターと、サークル名の看板を見て、俺は思わず吹き出しそうになる。
「サークル『ナオマ』……真緒菜を逆から読んだだけか。堅物女らしく、ネーミングセンスも単純で固い」
にやりと歪んだ笑みを浮かべ、俺は少し離れた位置からそのブースを観察した。
そして――群衆の隙間から彼女の姿を捉えた瞬間、俺は息を呑んだ。
「……嘘だろ。あれが、本当にあの網代なのか?」
そこに立っていたのは、会社の地味な姿からは到底結びつかない、圧倒的な存在感を放つ網代真緒菜だった。
『漆黒のアルケミスト』のドS幹部、エレノア・フォン・クライシス。
漆黒のタイトなハイレグ風レザーボディスーツが、彼女のグラマラスな肢体をこれでもかと強調している。深紅の裏地がついたロングマントを翻し、冷徹な眼差しでカメラを見下ろすその姿は、周囲の空気を完全に支配していた。
パソコンのモニター越しに復元データで写真は見ていたが、生で見る迫力はまるで次元が違った。
なんだこの圧倒的な美しさは……。ただのオタクのコスプレなんて、いい年した大人の痛々しいごっこ遊びだと思ってたが……。
違う。これは一つの完成された芸術だ。
指先の角度、冷ややかな視線の流し方、レザーの質感。すべてが計算し尽くされ、彼女自身の生来の美貌と完璧に融合している。俺はこれまでオタク文化を見下してきたが、初めてコスプレというものに対して明確な「芸術性」を感じ、理屈抜きで目を奪われてしまっていた。
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「ナオマ様!こっち目線お願いします!」
「あああ、見下すような表情たまんねぇ……っ!」
「次のポーズお願いします!」
群がるカメコたちの熱狂的な絶叫で、俺はハッと我に返った。
いかん、見惚れてどうする。俺はあいつを絶望のどん底に叩き落としに来たんだ。あの冷徹な芸術品のような女が、俺の前で怯えて泣き崩れる姿を想像しろ。
「さて、と……まずは証拠固めからいくか」
俺は一般参加者のふりをして最後尾の列に並び、少しずつ進んでいく。やがてブースの机に平積みされている自費出版の写真集を手に取った。
パラパラとページをめくり、思わず口角が深く吊り上がる。
「ビンゴだ。あのHDDから復元したデータにあったコスプレ写真……。あの過激なポーズの写真が、全部そのまま使われてるじゃないか」
データで見た艶やかな写真の数々が、上質な紙にフルカラーで印刷され、立派な一冊の写真集として販売されている。しかも一冊数千円は下らない値段設定にもかかわらず、飛ぶように売れていく。
俺たちの勤める東都フーズは、堅い社風で副業を厳しく禁止している。これだけ大規模に販売し、明らかに多額の利益を得ているとなれば、言い逃れのできない立派な副業規定違反だ。
「これ一冊、もらうよ」
「はい、ありがとうございます!三千円になります!」
売り子のスタッフに金を払い、俺は一冊購入した。これを会社に突きつければ一発でアウトだ。これからの俺のシナリオにおいて、これは最強の動かぬ証拠になる。俺はそれを丁寧にカバンに忍ばせた。
「はい、撮影エリアのロープ張り直します!皆さん、もう少し下がって!ナオマ様のスペースを確保して!」
ふと見ると、カメコ集団の先頭で、一際目立つ男が野太い声を張り上げている。
ガタイが良く、無駄のない引き締まった体躯の男だ。彼はプロ仕様のバズーカーのような超望遠レンズを構えながら、周囲の取り巻きたちを完璧な手際で統率している。まるで要人を守るプロのSPのようだ。
「すごいなあの人、ナオマ様の専属カメコ兼スタッフの伸治さんだろ?」
「ああ。あの人が仕切ってくれるから、俺たち一般参加者も安心して撮れるんだよな。マジでリスペクトだわな」
周囲のオタクたちが、その男――伸治を崇めるようにヒソヒソと話している。
俺は、熱狂の渦に巻き込まれている一般ファンや、必死にシャッターを切る伸治たちを、ひどく冷ややかな目で見下ろした。
「滑稽だな。お前らがどれだけこの女を神格化して崇め奉ろうが、俺だけがもう一つの顔(社会人)を知っている。いや、あの過激なBL趣味も含めれば、裏の顔は二つか?」
俺の胸の中で、ドSとしての嗜虐的な優越感がこれ以上ないほどに極限まで膨れ上がっていく。
お前らが崇めているこの美しく気高い女の「正体」を、職場での致命的な「弱み」を、この広い会場の中で俺だけが完全に握っているのだ。俺の一声で、この女の築き上げたここでの完璧なキャリアも、この熱狂も、すべてが砂上の楼閣のように簡単に崩壊する。
「さあ、見せてくれよ網代。お前のその完璧で美しい仮面が、俺の目の前で無様に剥がれ落ちる瞬間を」
優越感がピークに達し、俺は恍惚とした笑みを浮かべた。
最高潮に達した全能感に背中を押されるように、俺はカメラの砲列を掻き分け、フラッシュの瞬く中心――真緒菜の元へとゆっくり歩み寄っていった。




