第8話 東京ビッグサイト
金曜日の夜。
明日に迫った『コスクロ』に向けて、俺は自室のデスクで一人、祝杯の缶ビールを開けていた。モニターには、東京ビッグサイトの広大な会場マップが映し出されている。
「南ホールと東ホールを全使用か……。これだけ広ければ、偶然を装って接触するのも不自然じゃないな」
俺は冷えたビールを喉に流し込みながら、復元データから見つけた網代のスケジュール表を再度確認した。明日の参加予定は間違いなく事実だ。
「会社では完璧なキャリアウーマン気取りのあの女の前に突然俺がやってきたらどんな顔をするか……」
想像するだけで、腹の底からドス黒い笑いが込み上げてくる。
いきなり弱みを突きつけて脅すような、三流の真似はしない。あくまで偶然の出会いを装うことで、俺が彼女のHDDを握っている事実を完全に隠し通す。
相手に一切警戒させず、完全に逃げ道を塞いでから、真綿で首を絞めるように精神的ないたぶりを仕掛けるのだ。
ピリリリリッ。
その時、テーブルの上に放り出していたスマートフォンが震えた。画面には、先日俺が底に穴をあけた紙コップを使い、コーヒーで重要書類をダメにさせた後輩の名前が表示されている。
「はい、亜久嶋です。どうした?」
「亜久嶋主任!夜分遅くに本当にすみません!」
「構わないよ。何かトラブルか?」
俺は即座に声のトーンをワントーン上げ、目尻を下げて「頼れる好青年」の仮面をすっぽりと被った。
「いえ!先日の再提出の書類、無事に役員会の事前審査を通りました!主任が最後までフォローしてくださったおかげです!」
「そうか、それは良かった。お前が最後まで諦めずに頑張った結果だよ」
「本当にすみません……あの時、コーヒーが漏れる事件にさえならなければ、こんなご迷惑をおかけすることは……」
「気にするな。誰にでも不運な事故はあるさ。大事なのはその後、どう挽回するかだろ?」
「はいっ……!主任のそのお言葉、胸に刻みます!俺、これからも主任に一生ついていきます!」
「大げさだな。まあ、週末はゆっくり休んでくれ。月曜からまた忙しくなるぞ」
「はい!失礼いたします!」
通話が切れ、俺は鼻で笑ってスマホをデスクに放り投げた。
「一生ついていく、ね。おめでたい頭だこと」
他人のミスを人為的に誘発させておいて、フォローに回れば簡単に熱狂的な信者が出来上がる。人間なんて、少しの細工と見せ方次第で、簡単に手のひらの上で踊る単純な生き物だ。
「さあて、網代。お前は俺の前で、どんな面白いダンスをしてくれるんだ?」
俺は再びモニターに視線を戻し、『漆黒のアルケミスト』のエレノアの過激な衣装を眺めながら、明日仕掛ける完璧な計画を脳内で組み上げていった。
+++
翌日、土曜日の昼下がり。
抜けるような青空の下、そびえ立つ東京ビッグサイトの逆三角形のシルエットが目の前に迫っていた。
二日間で約十五万人を動員するという国内最大級のイベント『コスクロ』。最寄り駅から会場へと続くプロムナードは、すでに見渡す限りの人、人、人で埋め尽くされている。
「す、すみません!通ります!」
「おい、押すなよ!」
「あっちの列、最後尾どこだ!?」
飛び交う怒号と、異様な熱気。すれ違う連中は皆、大きなキャリーケースを引きずり、キャラクターのグッズをじゃらじゃらとカバンにぶら下げている。
「……ふぅ、むさ苦しい連中だな。空調が効いてるはずなのに、汗の臭いで吐き気がしそうだ」
俺は清潔感のある休日のジャケットスタイルに身を包み、明らかに周囲から浮いている自分を自覚しながらも、圧倒的な優越感に浸って歩みを進めた。
こんな底辺の連中が崇拝しているのが、会社で俺を見下してきたあの鉄面皮の堅物女なのだと思うと、滑稽で仕方がなかった。
「写真いいですかー!」
「はい、ポーズ決めますねー☆」
通路の脇では、露出度の高い魔法少女の格好をした女が、カメラ小僧たちに向けて必死にあざとい笑顔を振りまいている。
「……痛々しいな。承認欲求の塊vs性欲モンスターかよ」
俺は冷ややかな視線を向け、鼻で笑った。
あんな安っぽい女たちと、あのプライドの高い網代が同じ空間で、同じように愛想を振りまいているのだろうか。いや、復元した写真の彼女は、もっと圧倒的で、群を抜いて冷酷なオーラを放っていたはずだ。
「ええと、コスプレの撮影エリアは……東ホールの屋外と、南ホールの特設スペースか」
入り口で受け取ったパンフレットを片手に、俺は人の波をかき分けて進む。
「おい、急ごうぜ!あっちのエリア、超大物レイヤーが来てるらしいぞ!」
「マジで!?あの超絶美麗って噂の!?」
「ああ!カメコの囲みが凄すぎて、もう壁際まで列が伸びてるってよ!」
すれ違った青年二人が、興奮した様子で東ホールへ向かって走り去っていく。
「大物レイヤーね……」
俺はパンフレットを丸めてポケットに突っ込み、彼らの後を追うように歩き出した。
網代がどれほどの人気を集めているかは知らないが、あの過激なハイレグレザーボディスーツ姿なら、間違いなく群衆の目を引くはずだ。
「楽しみだなぁ、網代。会社じゃ絶対に見せないお前の本当の顔……いや、無様に引き攣る顔を、最前列で拝ませてもらうぞ」
俺の心臓は、これまでにないほど高鳴っていた。ドSとしての嗜虐心と、絶対的な優位に立っているという全能感が、俺の足取りを軽くさせる。
巨大なシャッターを抜け、熱気が渦巻く東ホールに足を踏み入れた瞬間――。
「最後尾はこちらです!立ち止まらないでください!」
「目線くださーい!」
「最高です!もっと見下すような表情で!」
無数のフラッシュが瞬く、異様な光景が広がっていた。
俺はその熱狂の中心へ向けて、ゆっくりと、そして確実に、獲物を狩るような笑みを浮かべて近づいていった。




