第39話 ジャンク屋の裏切り
首に巻き付くレザーの冷たい感触が、俺がもう自由な人間ではないことを常に自覚させていた。
ついさっき、網代真緒菜のタワーマンションで首に装着された、GPS内蔵のチョーカー。そして左手の薬指には、俺の心拍数や体温などのバイタルデータを24時間休むことなく彼女の端末へ送信し続ける、チタン製のウェアラブルセンサーリング。
俺の肉体も、プライバシーも、そして社会的な生命も、すべてがあの狂気に満ちた怪物の掌の中に握られている。
マンションからの帰り道、足取り重く秋葉原の路地裏を歩いていた。
メイドの客引きや観光客の喧騒が遠ざかり、怪しげなパーツショップが立ち並ぶエリア。かつてはここを歩く時、俺は「他人の秘密を買いに行き、優越感に浸る支配者」としての高揚感に満ち溢れていた。だが今は違う。周囲のネオンや雑踏すべてが、俺の愚かさを嘲笑っているように見えた。
色あせた看板が掲げられた行きつけのジャンクパーツ店、「タカミヤ電脳堂」。
俺は薄汚れたガラス戸を乱暴に引き開け、店内へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい。……おや、亜久嶋さんか。今日は随分と殺気立ってるじゃないか」
カウンターの奥でタバコの煙を燻らせながら、白髪交じりの無精髭を撫でる男。店主の高宮耕三だ。使い古した作業着姿で、適当な親父を装っているが、こいつの正体を俺はもう知っている。
「ふざけるなよ、耕三さん……!」
俺はカウンターに両手をつき、身を乗り出して男を睨みつけた。
「あんた、グルだったんだな。あの時俺に売った『素人が持ち込んだ』っていう2テラバイトのHDD……あれは偶然なんかじゃなかった。最初から俺に買わせるために、あんたが仕組んだ罠だったんだろ!」
俺が怒りに任せて怒鳴りつけると、高宮は驚く様子もなく、ただ灰皿にタバコを押し付けて短く鼻を鳴らした。
「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。俺はジャンク屋だ。客の要望に合わせて、指定された品物を、指定された相手に売っただけだぜ」
「客の要望だと……?」
「ああ。ある日突然、とんでもない額の工作報酬を提示されてね。このHDDを、亜久嶋って名前の男が来たら必ず買わせるように仕向けろってな。金さえ積まれりゃ、俺は依頼人の要望通りに動く。それだけのことだ」
高宮は飄々とした態度で、あっさりと自分の関与を認めた。
悪びれる様子など微塵もない。かつて秋葉原でも腕利きのエンジニアだったというこの男にとって、大手企業の社員である俺がどんな目に遭おうが、知ったことではないのだろう。
「あんたのせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ!あのHDDに仕込まれていたトロイの木馬のせいで、俺のパソコンの中身は全部あいつに……っ!」
言いかけて、俺はハッと口をつぐんだ。
パソコンの中身をすべて抜き取られた。それは事実だが、その中身が「他人のHDDから復元した違法な覗き見データ」や「盗撮動画のコレクション」であることは、いくらなんでも口に出せない。
「ん?なんだ、急に黙り込んで。中身をどうされたって?」
高宮がニヤリといやらしい笑みを浮かべ、カウンター越しに顔を近づけてきた。
「俺はね、破格の報酬をもらって、指定された通りにHDDを売っただけだ。それに仕込まれていた中身のデータが何だったのかも、お前さんがそれを買った後、一体どんな事態になったのかも、なーんにも知らねえんだよ」
「……」
「で、何があったんだ?お前さん、あの中にあった何かを見て、よっぽど酷い目に遭ったみたいだが」
好奇心に満ちた目で尋ねてくる高宮。
だが、俺に答えられるわけがない。
『他人の秘密を覗き見ようとして罠にハマり、その結果、資産家の令嬢である究極のド変態女に脅され、今はGPS付きの首輪をつけられて完全服従の奴隷に成り下がっています』――そんな事実、誰に言えるというのか。
俺はギリッと奥歯を噛み締め、屈辱で顔を真っ赤に染めながら拳を握り込んだ。
「……なんでも、ない。あんたを問い詰めたところで、もうどうにもならないことくらい、わかってる」
俺が自業自得の袋小路に迷い込んでいることを見透かしているのか、高宮は深く追及することなく、「そいつは残念だったな」と適当に同情するフリをして見せた。
「まあ、自己責任ってやつだ。他人の秘密なんて危ないもんに首を突っ込むから、足元をすくわれるのさ」
「……もういい。二度とこの店には来ない」
俺は吐き捨てるように言い、逃げるように踵を返して出口へと向かった。
背後から、高宮の悪びれない声が追いかけてくる。
「おい、待てよ亜久嶋さん。ちょうど今朝、入荷したばかりの極上の中古HDDがあるんだが。どうだ、憂さ晴らしに一つ買っていかねえか?」
その言葉が、俺の脳裏に昨夜の絶望的な恐怖を鮮明にフラッシュバックさせた。
他人のHDD。データの復元。覗き見の快楽。そのすべてが、今は自分を縛り付ける呪いの鎖へと変わっている。
首に巻かれたレザーのチョーカーが、まるで生き物のようにギリリと喉を締め付けてくるような錯覚に陥った。
「かんべんしてくれ!もう……もうこりごりだ!!」
慌ててパンドラの箱の蓋を閉めようとしても、もう遅い。絶望という名の災厄は、とうの昔に俺のすべてを飲み込んでしまった後なのだから。
俺は頭を抱えて叫び、ガラス戸を突き破るような勢いで「タカミヤ電脳堂」を飛び出した。
背後で高宮の「あっははは!」という大きな笑い声が響いた気がしたが、俺は振り返ることなく、秋葉原の雑踏の中へと無様に逃げ帰った。
決して開けてはいけない本物のパンドラの箱を開けてしまった、ただの一人の哀れな奴隷として。




