第36話 思い出鑑賞会
真緒菜は破壊されたスマホの残骸を足で払い除けると、新しくワイングラスを二つ用意し、芳醇な香りを放つ赤ワインを注いだ。
「ほら、乾杯しましょ。私たちの、新しい主従関係の始まりに」
差し出されたグラスを、俺は両手で受け取った。だが、手の震えが止まらず、グラスの中の真紅の液体がチャプチャプと波打っている。
「……そ、そもそもおかしい、だろ。こんな高そうなワイン……。お前、生活費を切り詰めて無理してこの部屋を……そう言ってたじゃないか……っ」
俺は震える声で、先ほどエントランスで彼女が口にしていた言葉を思い出し質問した。
生活費を切り詰めてまで、コスプレのためにこんな高級タワーマンションを借りている哀れな女。それが、数十分前までの俺の認識だった。
「ああ、あれ?ごめんなさい、嘘よ」
真緒菜は悪びれる様子もなく、ワインを一口含んで妖艶に微笑んだ。
「私、網代不動産の……資産家の令嬢なの。このマンションの最上階は、父が私のために買い与えてくれたもの。家賃の支払いなんて、一度も気にしたことないわ」
「し、資産家の……令嬢……?」
「ええ。何不自由なく育ったけど、周りが私に媚びへつらうだけの偽善的な環境には、ずっと退屈してたの。だから、副業禁止の厳しい会社であえて働き、ギリギリの環境でコスプレで稼ぐっていうスリルを味わって、自分を慰めていたわ。でも……それさえも退屈になっていた頃に、ちょうどあなたを見つけたの」
真緒菜は妖艶に微笑み、俺の頬を撫でた。
「同期の瑞希さんを追い詰めた時の、あなたのあの真っ黒な笑顔。それを見た瞬間、決めたの。この会社は、あなたを一番近くで観察して、完全に騙し切るための最高の舞台装置だってね。でも、亜久嶋くんは私の期待以上に、悪意100%で私を追い詰めてくれた。それがたまらなく嬉しかったわ」
絶望が、さらに深く俺の心を侵食していく。
金銭的にも、社会的にも、彼女は俺の手が届くような相手ではなかったのだ。
会社での地味な姿も、生活に苦労しているレイヤーという設定も、すべては俺という獲物を完全に油断させ、最も高いところから突き落とすための完璧な擬態だった。
俺は、自分がどれほど愚かで滑稽なピエロだったかを思い知らされ、ただ呆然と彼女を見上げるしかなかった。
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「さあ、これまでの答え合わせをしてあげる」
真緒菜が手元のリモコンを操作すると、リビングの壁面に設置された巨大な有機ELテレビの電源が入った。
パッと明るくなった画面に映し出されたものを見て、俺は息を呑んだ。
「これ、は……っ」
そこに映っていたのは、休日のサービスエリアの駐車場での車内映像だった。
真紅の吸血鬼ドレスを着た真緒菜が、俺の足元に這いつくばって靴紐を結んでいる。
画面が切り替わる。今度は『アキバ・電脳ナイトフェスタ』のブースでの映像。俺が机の下で網タイツを弾き、彼女が涙目で指をくわえている姿。
さらに、パシフィコ横浜で俺がマネージャーとして偉そうに立ち回り、真緒菜を従えている光景。
俺が彼女を完全に支配し、サディスティックないたぶりを楽しんでいたあの極上の瞬間が、すべて最高のアングルから、超高画質で記録され、アーカイビングされていたのだ。
「どうして……こんな映像が……」
「専属のカメラマンにお願いして、しっかり記録してもらっていたの。亜久嶋くんが私を追い詰めて、私が惨めに屈服する最高傑作をね」
「専属の、カメラマン……っ?まさか……」
俺の脳裏に、あのガタイの良い、無駄のない引き締まった体躯の男の顔が浮かんだ。
イベントの最前列で、いつも俺たちに巨大なレンズを向けていたあの男。あいつのレンズが、俺のサディスティックな行動のすべてを気味の悪いほど正確に捉えていた、あの時の違和感。
俺が『ただの仕切りたがりなオタク』だと見下し、俺の威厳で完全に屈服させたと勘違いしていた、あの伸治だ。
「そうよ。伸治はね、私の父に命を救われた元SPで、網代家に仕える私服警護員。私が彼に命令して、私たちの『高尚なプレイ』をすべて撮影させていたの」
「元、SP……っ」
俺が優越感に浸りながら周囲を見下していたあの時、俺自身がプロのSPの監視下に置かれ、一挙手一投足を記録されていたのだ。
もし俺が彼女に本当の危害を加えようとしていたら、あの伸治にあっさりと取り押さえられ、文字通り物理的に社会から抹殺されていたに違いない。
背筋を強烈な悪寒が駆け抜け、喉の奥がカラカラに干からびていくのを感じた。
画面には、俺が優越感に歪んだ顔で笑い、真緒菜がそれに応えて怯えた演技をしている様子が次々と映し出されていく。
俺のサディズムは、彼女の歪んだ性癖を満たすためだけの、完璧にコントロールされた舞台装置だったのだ。
「ふふっ……いい表情してるわね、亜久嶋くん。私、この映像を毎晩見返しては、今日という日が来るのを楽しみにしていたのよ」
真緒菜は俺の頬を優しく撫でながら、耳元で甘く囁いた。
「でも、私たちの関係がこれで終わるわけじゃないわ。明日、会社ではこれまで通り、ただの同僚プレイよ。いいわね」
「ど、同僚、プレイ……っ」
「そう。私があなたを容赦なく論破して、あなたがそれに作り笑いで耐える。表向きは優秀なエリート社員の同期。でも、裏ではあなたが私の完全な奴隷。その圧倒的なギャップが、私を一番興奮させるの」
彼女の言葉は、拒否権など一切ない絶対的な命令だった。
俺はテレビ画面に映る自分の滑稽な姿を見つめながら、これから先、一生この怪物の掌の上で踊らされ続ける自分の絶望的な未来を悟り、ただ震え続けることしかできなかった。




