第35話 粉砕
すべてが終わった後、俺はベッドの上に崩れ落ちたまま、ガタガタと震え続けていた。
自分が絶対的な支配者だと信じていた数十分前までの優越感は、跡形もなく消え去っていた。俺の社会的な生命線は完全に握られ、心も体も、この底知れぬ狂気を持った怪物の前に屈服させられてしまったのだ。
「いつまでそこで震えているつもり?」
シルクのガウンを無造作に羽織った網代真緒菜が、冷ややかな声で見下ろしてくる。
彼女の右目尻にある二つのなきぼくろが、獲物を完全に仕留めた毒蛇のように妖しく鎮座していた。
「さあ、リビングに行きましょ。まだまだ夜は長いんだから」
真緒菜は俺の腕を掴むと、無理やりベッドから引きずり下ろした。
足元がおぼつかないまま、俺は広いリビングへと引き立てられ、高級な革張りのソファへと押し込まれた。
宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が、床から天井まである巨大な窓ガラスいっぱいに広がっている。つい先ほどまで、俺が王様気取りで見下ろしていたその景色が、今はただ、自分が閉じ込められた豪華な鳥籠の分厚い壁のように感じられた。
「お、俺は……俺はもう、帰る……っ。君が脅しのネタとして掴んでいる覗き見データは、グレーかもしれないが決定的な犯罪にはつながらない!悪用したこともないし、ただ見ていただけだ!」
恐怖と混乱に耐えきれず、俺は震える足で立ち上がろうとした。
ここから逃げ出さなければ。この女の狂気にこれ以上当てられては、完全に頭がおかしくなってしまう。
「あら、そう?覗き見データ『だけ』なら、そうかもしれないわね」
真緒菜はワイングラスを置き、氷のように冷たい視線で俺を射抜いた。
「でも、あなたのパソコンの奥深くに隠されていたのは、それだけじゃなかったわ。……例えば、二年前に退職した同期の瑞希さんのこと」
「なっ……!」
瑞希の名前が出た瞬間、俺の心臓が早鐘のように鳴り始めた。
「あなたが彼女を孤立させるために作った、彼女のミスに見せかけた精巧な文書ファイル。彼女のPCに不正アクセスして重要なデータを消去した時のアクセスログ。匿名のフリーアドレスを使って、彼女を精神的に追い詰めた執拗な脅迫メールの送信履歴……全部、綺麗に保存してあったわよね」
「う、嘘だ……っ」
「極めつけは、彼女が泣いてあなたに謝っている時の隠し録音データ。他人の人生を壊す様を安全圏から録音して、一人で楽しんでいたんでしょう?……これらが警察や会社に提出されたら、ただの『覗き見趣味』で済むと思っているの?」
逃げ道など、最初からなかった。
巧妙に隠蔽し、完全犯罪だと思っていた俺の最もドス黒い悪行が、すべてこの女の掌の上にあったのだ。発覚すれば、懲戒解雇どころか逮捕は免れない。社会的な死、そのものだ。
絶望と恐怖で視界が歪み、ガチガチと歯の根が鳴る。
「口答えできる立場でないことは理解した?あなたは私のオモチャ。ご主人様の許可なく、勝手に帰ることなんて許されないわ」
「ひっ……」
会社で見せていた、あの俺を論破するときの冷徹な声。だが、そこに含まれる絶対的な威圧感と支配のオーラは、オフィスでの比ではなかった。
俺は膝の力を失い、再びソファへと崩れ落ちた。逃げることなどできない。逆らえば、俺のパソコンから抜き取られた決定的な犯罪の証拠がばら撒かれ、俺の人生は完全に終わるのだ。
「そう、それでいいの。今は素直な犬でいなさい」
真緒菜は満足げに微笑むと、ローテーブルの上に置かれていた俺のスマートフォンを無造作に手に取った。
それは、俺が真緒菜を脅迫するために使っていた、彼女の秘密のコスプレ写真や動画が詰まった端末だった。
「亜久嶋くんが大事にしていた、私への『脅迫の道具』。もうこんなもの、必要ないわよね?」
そう言うが早いか、彼女は手元にあったグラスの赤ワインを、俺のスマートフォンの上に躊躇なくぶちまけた。
真紅の液体が画面に広がり、精密機械の隙間へと容赦なく染み込んでいく。
「なっ……!やめっ……」
「まだ未練があるの?なら、完全に絶ってあげる」
真緒菜はワインに濡れたスマートフォンを大理石の床にポイと放り投げると、自分の足元にあったピンヒールを拾い上げて履いた。
そして、尖ったヒールの先端を、俺のスマホの液晶画面に真っ直ぐに突き立てた。
――バキッ!パキパキパキッ!
無残な音を立てて、ガラスが粉々に砕け散る。
真緒菜はヒールに体重を乗せ、グリグリと残酷に踏み躙り続けた。フレームがひしゃげ、内部の基盤が完全に破壊されるまで、彼女は冷酷な笑みを浮かべたままそれを踏みつけ続けた。
「あっ……あぁ……っ」
俺の武器が、俺の優位性の象徴が、物理的に完全に破壊されていく。
それと同時に、俺の心の中に僅かに残っていた「何とかなるかもしれない」という希望の欠片も、ヒールの下で粉々にすり潰されていった。
「これで、あなたには何一つ武器は残っていない。わかった?」
「は、はい……っ」
俺はガタガタと震えながら、涙目で頷くことしかできなかった。




