第32話 予定表の真実
画面には、月間のスケジュールがずらりと表示されている。仕事の予定や、俺が『マネージャー』として無理やり捻じ込んだ撮影会やイベントの予定が、几帳面に色分けされて入力されていた。
「ふふ……本当に真面目な奴だ。俺の命令を一つ残らず記録してやがる」
俺はワイングラスを傾けながら、過去の月へとスワイプして遡っていった。
彼女が俺に完全服従する前、俺が彼女の秘密を握る前のスケジュールはどうなっていたのか。ただの好奇心だった。
画面が六月のカレンダーに切り替わる。
何気なく視線を落とした俺は、ある日付に書き込まれた『予定』の文字を見て、ピタリと指を止めた。
「……なんだ、これ」
そこにはこう記されていた。
『6月10日:亜久嶋くんが私のHDDを買う日』
グラスを持つ手が、微かに震えた。
六月十日。それは間違いなく、俺が秋葉原のジャンクショップで、あの銀色のハードディスクを購入した日だ。
俺は画面をタップし、その予定の詳細を開いた。予定の作成日時を確認する。
更新履歴に表示された日付は……五月の中旬。俺がそのHDDを手にする一ヶ月も前に、この予定は組まれていたのだ。
「馬鹿な……日記の書き間違いか何かだろ……?」
俺は乾いた笑いを漏らしながら、急いで七月のカレンダーへとスワイプした。
そこには、さらに信じられない文字列が並んでいた。
『7月28日:亜久嶋くんと二人きりで撮影会』
俺の自宅のリビングに彼女を呼びつけ、魔法少女の過激な衣装を着せて、涙目で服従させたあの日だ。
さらに画面をスクロールする。
駐車場で吸血鬼のドレス姿で靴紐を結ばせた日。
イベントで公開処刑を仕掛けた日。
役員会議で小型バイブレーターを仕込ませた日。
俺が『絶対的な支配者』として彼女を徹底的にいたぶったはずのこれまでの出来事が、すべて“予定”として過去の日付で登録されていたのを目にしてしまう。
「嘘だ……嘘だろ……っ」
スマートフォンのバックライトが、俺の顔面から血の気が引いていくのを青白く照らし出していた。
あの夜、俺が開け放ったパンドラのゴミ箱から飛び出した災厄は、彼女に向かったのではない。最初から俺自身を食い尽くすためのものだった。
頭の中で、これまで俺が積み上げてきた完璧な支配のシナリオが、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
偶然ジャンクショップで彼女のHDDを見つけた?
違う。
偶然、あのデータの中に俺の隠し撮り写真が入っていた?
違う。
「い、一体どういうことだ!全部最初から決められていたのか……?」
俺が戦慄した、まさにその瞬間だった。
――カチャリ。
静まり返ったリビングに、バスルームの扉が開く音が響いた。
俺は弾かれたように顔を上げた。
シャワールームの扉が開き、もうもうと立ち込める白い湯気の中から、真緒菜が現れる。
彼女は、俺が用意させた薄いシルクのネグリジェを身に纏っていた。濡れた黒髪が首筋に張り付き、火照った白い肌が間接照明の光を妖しく反射している。
「あ……」
俺の喉から、間の抜けたような声が漏れた。スマートフォンを持った手がガタガタと震え、手から滑り落ちそうになる。
湯気を纏って歩み寄ってくる真緒菜の顔には、それまでの怯えた表情は完全に消え去っていた。
会社で見せる氷のような鉄面皮でもなく、俺の命令に震えて涙を流す哀れな奴隷の顔でもない。
妖艶な笑みを浮かべた彼女が、ゆっくりと、しかし確かな足取りで俺に近づいてくる。
その時、俺の視線は、彼女の右目尻にある「二つの泣きぼくろ」に釘付けになった。
これまでは、俺に虐げられ、羞恥と恐怖で赤く染まった目元を彩る『哀れな獲物の象徴』として、俺の嗜虐心を煽るチャームポイントだった。
だが今は違う。
妖しく細められた瞳の横で艶めかしく主張するその二つのほくろは、まるで獲物を完全に捕らえ、ゆっくりと毒牙を突き立てようとする毒蛇の紋章のように見えた。
背筋を凍らせるほどの圧倒的な捕食者のシンボル。俺は自分が絶対的な支配者ではなく、最初から彼女という巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた哀れな羽虫に過ぎなかったことを、その二つのほくろによって視覚的に、そして暴力的に理解させられた。
「ま、真緒菜……お前、これ……」
俺は震える手でスマートフォンの画面を突き出そうとしたが、手首の力が完全に抜け落ちていた。
真緒菜は俺の目の前まで来ると、一切の躊躇なく、滑らかな動作で俺の体をソファから広いベッドルームの方向へと押し込んだ。
「最後まで覗き見、楽しんでくれたかしら。私が引いたレールの上で、ご主人様気取りで踊る気分はどうだった?」
耳元で、甘く、酷薄に囁く。
その声には、俺がこれまで彼女に浴びせかけてきたどんな脅し文句よりも、深く、絶対的な支配の響きが含まれていた。
そのまま、彼女は俺の胸を両手で押し、広いベッドへと俺を力強く押し倒す。
「あっ……!」
ふかふかのマットレスに背中から倒れ込んだ俺の上に、真緒菜がゆっくりと覆い被さってくる。
大学時代から俺の根幹を成していた、他人の弱みを握り、安全な場所から見下ろすという『ドSの優越感』。
それが、自分を遥かに凌駕する真性の怪物に出会ってしまったという絶望と共に、一瞬で完全な敗北へと塗り替えられていく。
恐怖で脳髄が麻痺していく中で、俺の体は、彼女が放つ圧倒的な色香と支配のオーラによって、抗いようのない悦楽へと引きずり込まれようとしていた。




