第11話 薄暗い非常階段
着信音が鳴り響き、俺が網代の正体を決定づけた瞬間。
「……っ!」
網代の口から、声にならない悲鳴が漏れた。
彼女は自分のボストンバッグと俺の顔を交互に見比べ、血の気を失った唇をわななかせている。派手なメイクが施された顔は蒼白になり、自慢の豊満な胸が過呼吸気味に激しく上下していた。
周囲のカメコたちは、「え、本名?」「知り合いかよ?」とざわめき始めていた。
「ちょ、ちょっと休憩しますっ!」
網代は引きつった声で叫ぶと、突如として俺の手首をガシッと掴んだ。
「え……?」
「来てください……っ!」
彼女は俺の手を引いて、人だかりを強引に掻き分け始めた。
会社では俺をゴミでも見るような冷徹な目で論破してきた女だが、密かに俺の写真を隠し持ち、片思いをしている複雑な内面を持つ変な女。そんなコイツが今は必死に俺の手を握りしめ、パニックを起こして逃げ出そうとしている。
その滑稽で哀れな姿に、俺の腹の底からドロドロとした歓喜が湧き上がってきた。
ふと振り返ると、先ほどまで最前列でカメコたちを仕切っていたあのガタイの良い男――伸治とかいう奴が、俺たちを追ってくる気配はなかった。
「ナオマ様はご友人と急用だ!撮影は一時中断!各自、待機スペースを開けろ!」
それどころか、混乱するオタクどもを完璧に統制し、俺たちが逃げやすいように道を空けさせている。
……ふん、狂信者どもめ。相手が推しのプライベートの知り合いだとわかった途端、嫉妬するどころか手出しもできずに道を開けるのか。所詮は気色悪いオタクの集まりだ。あの男も見た目はSPみたいにいかついが、中身はただの従順な犬らしい。
俺は内心で彼らを嘲笑いながら、大人しく網代に手を引かれるまま歩を進めた。
漆黒のロングマントを翻し、ハイレグのレザー衣装で俺の手を引く絶世の美女。すれ違う連中が驚いたように道を譲っていく。俺はまるで勝利のパレードを歩いているような、強烈な優越感に浸っていた。
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熱気と喧騒に包まれた展示ホールを抜け、俺たちは人目のつかない裏通路へと入り込んだ。
網代は周囲をひたすら警戒しながら進み、重厚な鉄の扉を押し開けて非常階段へと逃げ込んだ。
バタン、と分厚い防音扉が閉まると、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った。
ひんやりとした薄暗い非常階段の踊り場で、網代は俺の手を放し、コンクリートの壁に背を預けて荒い息を吐いた。
「はぁ……はぁ……っ、はぁ……」
漆黒のハイレグ風レザーボディスーツの胸元が、激しい呼吸に合わせて大きく上下している。深いスリットからは、普段のスーツ姿では絶対に拝めない白い太ももが生々しく露出したままだ。
俺は余裕の笑みを浮かべながら、その豊満な肢体を上から下まで嘗め回すように見つめた。
「いやぁ、驚いたよ網代さん。まさか君がこんな所で、こんな……過激な格好をしているなんてね」
「あ、亜久嶋……主任……」
網代の声は震え、普段の氷のような冷徹さは微塵もなかった。
「でも、素晴らしいよ。本当に綺麗だ」
俺はあえて、会社で見せている『人当たりの良い爽やかなエリート社員』の顔を作り、優しい声色で語りかけた。
「『漆黒のアルケミスト』のエレノアだろ?昔見たことあるよ。完璧な再現度じゃないか。会社じゃいつも地味なスーツに銀縁眼鏡で隠してるけど、君のその美貌とプロポーション、本当に見惚れてしまったよ」
「や、やめて……っ」
網代は両手で自分の身体を隠すように抱きしめ、首を横に振った。
褒め言葉の皮を被った俺のねっとりとした視線が、彼女を精神的に追い詰めているのが手に取るようにわかる。
「どうして……どうして亜久嶋主任がここに……」
「ホントたまたまの偶然だよ。俺もたまにはこういうイベントを見学してみようと思ってね。そうしたら、うちの第二開発部のエースが、大勢の男たちに囲まれて艶やかなポーズを決めているじゃないか。そりゃあ声もかけたくなるよ」
「お願いです……っ!会社の人には……誰にも言わないでください!」
網代はついに涙目を浮かべ、俺に向かって深々と頭を下げた。
あの鉄面皮の堅物女が、俺の前で哀れに懇願している。
たまらない。最高だ。俺はゾクゾクするような嗜虐心を満たしながら、ジャケットの内ポケットから再びスマートフォンを取り出した。
「誰にも言わないで、か……。そうだなぁ」
俺は画面を操作し、東都フーズの社内ポータルサイトにアクセスした。
そして、ある特定のページを開き、網代の目の前にスッと突きつけた。
「え……?」
網代が顔を上げ、スマホの画面に目を落とす。
そこに表示されているのは、『副業・兼業の禁止規定および懲戒基準』という冷酷な文字列だ。
「うちの会社って、副業NGじゃなかったっけ?網代さん」
「あっ……」
網代の喉から、ひゅっと息を呑む音が漏れた。
「さっきブースで見たけど、君の自費出版の写真集、飛ぶように売れてたよね。一冊数千円はする立派な本が、飛ぶように。あれだけの規模で活動して利益を出していれば、完璧な就業規則違反になってしまわないか心配だよ」
俺はあくまで爽やかな笑顔を崩さず、しかし声には絶対的な冷酷さを滲ませて言った。
「別に、俺は君の趣味を否定するつもりはないんだ。ただ……会社のコンプライアンス的にどうなのかなって、同僚として?同期として君を案じているんだ」
「そ、それは……趣味の範囲で……」
「言わないけどね」
俺は言い訳をしようとする網代の言葉を遮り、首を傾げてさらに言葉を重ねた。
「君のこんなあられもない姿を会社のみんなが見たらなんと言うかねぇ」
「……っ!」
「俺は芸術性があっていいと思うよ。うん、すごくいい」
網代はビクッと肩を震わせ、完全に言葉を失った。
大きく見開かれた瞳から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちる。完璧なメイクで彩られた顔が、恐怖と絶望でくしゃくしゃに歪んでいく。
逃げ道を完全に塞いでやった。
会社でのキャリアという、彼女にとって最も大切な誇りを人質に取ったのだ。
いつもは「感情論ではなく、正確なデータに基づく進行をお願いします」などと偉そうにほざいていた口が、今は恐怖でワナワナと震え、何の反論もできずにいる。
たまらない。この瞬間こそが、他人の秘密を握り、人生をコントロールする絶頂の快楽だ。
俺は完全なる支配者として彼女を見下ろしながら、薄暗い非常階段の冷たい空気の中で、甘美な全能感にどっぷりと浸っていた。




