第8話 完璧な王太子の敗北
星祭りの翌日。
王宮は朝から妙な緊張感に包まれていた。
理由は単純。
アルヴェイン王太子が、朝からずっと落ち着かないのである。
「殿下、同じ書類を三回裏返してます」
「…………」
「しかも逆です」
側近クラウスの指摘にも、返事がない。
アルヴェインは机へ肘をついたまま、難しい顔で固まっていた。
昨夜のことが、頭から離れない。
『嫌いになれたら、楽でしたのに』
あの言葉。
あの声。
泣きそうに笑った顔。
思い出すだけで心臓がおかしくなる。
「……クラウス」
「はい」
「私は今、夢を見ている可能性はあるか?」
「現実です」
「そうか……」
王太子は両手で顔を覆った。
「どうすればいい」
「謝罪して、ちゃんと気持ちを伝えてください」
「気持ち……」
そこでアルヴェインは黙る。
言葉にするのが怖かった。
もし拒絶されたら。
もし本当に嫌われていたら。
そう考えるだけで足が止まる。
クラウスはそんな主君を見て、盛大に呆れた。
「殿下」
「なんだ」
「戦場で敵将相手に単騎突撃した人とは思えませんね」
「戦争の方が簡単だ」
「恋愛弱すぎません?」
否定できなかった。
一方その頃。
王妃の私室では。
「進展はしましたわねぇ」
王妃エレノアが優雅に紅茶を飲んでいた。
向かい側では、セレスが死んだ目をしている。
「まだ安心できません……」
「心配性ですわね」
「今までを見て安心できる要素あります!?」
ない。
全員ちょっと黙った。
国王が咳払いする。
「……で、今日はどうする」
「アルヴェイン殿下、今日中にリリアーナ様へ会いに行くつもりみたいです」
侍女長の報告に、セレスが勢いよく顔を上げた。
「本当ですか!?」
「はい。ただし」
「ただし?」
「“どう謝ればいいか分からない”と三十分悩んでいたそうです」
セレスが頭を抱える。
「なんでそこでポンコツになるんですかぁ……」
「恋ですねぇ」
王妃が楽しそうだった。
その日の夕方。
エヴァレスト公爵邸へ、一台の馬車が止まった。
降りてきたのは。
アルヴェイン本人。
使用人たちがざわつく。
緊張が走る。
だが王太子本人が一番緊張していた。
(帰りたい)
なお帰れない。
ここで逃げたら終わる。
覚悟を決め、案内された応接室へ入る。
そして。
「……殿下」
リリアーナがいた。
薄青のドレス。
静かな瞳。
けれど視線が合った瞬間、わずかに揺れる。
アルヴェインの心臓が痛いほど鳴った。
「急な訪問で申し訳ない」
「いえ……」
ぎこちない。
空気がぎこちない。
助けてほしい。
アルヴェインは人生で初めてそう思った。
だが助けてくれる人間はいない。
いや。
正確にはいた。
部屋の外。
少し離れた場所で。
王妃、国王、セレス、公爵夫妻が見守っていた。
「なんで全員いるんです?」
侍女長が呆れる。
「気になるでしょう?」
王妃が即答した。
「娘が心配だ」
公爵もいる。
「完全に保護者会ですねぇ……」
公爵夫人が苦笑する。
セレスだけは真顔だった。
「頼む……頼むから爆発しないでくれ……」
切実だった。
一方、応接室。
アルヴェインは意を決して口を開く。
「先日は、すまなかった」
「……」
「私は、その……」
言葉が詰まる。
リリアーナが静かに待っている。
逃げるな。
ここで逃げたら終わる。
アルヴェインは拳を握り締めた。
「君が、他の男と話しているのを見ると」
リリアーナが目を瞬く。
「嫌だった」
沈黙。
「…………え?」
リリアーナが固まる。
アルヴェインは止まれなかった。
「笑いかけているのも、親しくしているのも、全部嫌だった」
外で聞いていた保護者会メンバーが顔を覆う。
「あっ」
王妃が呟いた。
「方向性が怪しいですわね」
「殿下ぁぁぁ!! 言い方ぁぁぁ!!」
セレスが小声で発狂する。
だがもう遅い。
「君が誰かへ視線を向けるたび、落ち着かなくなる」
アルヴェインは真っ直ぐリリアーナを見ていた。
必死だった。
苦しそうだった。
「だから……傷つけた」
その声が、少し震える。
「本当は、そんな顔をさせたいわけじゃなかった」
リリアーナの瞳が揺れる。
アルヴェインは、そこでようやく気づいた。
――ああ、自分は。
勝ちたいわけじゃない。
正しくありたいわけでもない。
ただ。
この人に、そばにいてほしいだけなのだ。
「……私は」
息を吸う。
怖い。
怖いけれど。
それでも。
「君を失うのが嫌だった」
静かな告白だった。
その瞬間。
リリアーナの顔が真っ赤になる。
外では。
セレスが崩れ落ちていた。
「進んだぁぁぁぁぁ!!」
泣いていた。
本気で。
国王が肩を叩く。
「落ち着け」
「無理ですぅ!! ここまで長かったんですよ!?」
「分かりますわ」
王妃もちょっと感動していた。
しかし。
応接室の中では。
まだ終わっていなかった。
リリアーナは顔を赤くしたまま、震える声で言う。
「……殿下は」
「……ああ」
「それを、“嫉妬”と呼ぶのではありませんか」
アルヴェイン、固まる。
数秒。
沈黙。
そして。
「………………」
完璧な王太子が。
人生で一番盛大に、言葉へ詰まった。




