特別編 幸せ
朝の光は、やわらかかった。
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カーテンの隙間から、細く差し込んでいる。
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「……」
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目を覚ましたとき、すぐには動かなかった。
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隣で、小さな音がする。
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「ん……」
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綾が、ゆっくりと身体を起こす。
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まだ少し眠そうな顔。
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腕の中に、小さな温もり。
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「おはよう」
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声をかける。
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返事はない。
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ただ、小さな手が少し動く。
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それで十分だった。
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少し遅れて、世古が目を開ける。
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「……おはようございます」
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いつも通りの声。
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変わらない。
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でも。
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どこか、やわらかい。
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「起こしちゃいました?」
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綾が、小さく笑う。
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「問題ありません」
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短い返事。
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それでも。
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すぐに、身体を起こす。
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手を伸ばし、小さな手に触れる。
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指が、少しだけ握り返される。
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ほんの一瞬。
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それだけで、空気が満たされる。
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「……今日はどうします?」
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綾が聞く。
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特別な予定はない。
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それでも、聞く。
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世古は、少しだけ考える。
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「……買い物に行きましょう」
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「いいですね」
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すぐに決まる。
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それでいい。
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朝食の準備。
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キッチンに立つ綾。
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その横で、世古が静かに動く。
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言葉は少ない。
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でも。
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手の動きは、自然に重なる。
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「……ちょっと焦げてます」
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「うそ」
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綾が振り返る。
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ほんの少しだけ焦げたパン。
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「……ほんとだ」
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小さく笑う。
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「問題ありません」
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世古が言う。
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「食べられます」
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「そういう問題じゃないです」
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少しだけ、笑いながら言う。
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それでも。
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そのまま食卓に並べる。
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三人分。
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少しずつ。
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「いただきます」
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自然に、言葉が重なる。
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食べる。
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会話は、少ない。
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それでも。
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空気は、静かに満ちている。
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午前。
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外に出る。
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ベビーカーを押しながら、ゆっくり歩く。
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相王子の街。
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見慣れた景色。
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それでも。
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少しだけ違って見える。
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「……ここ、よく通ってました」
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綾が、ぽつりと言う。
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「そうですね」
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世古が、同じように返す。
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それ以上は続かない。
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それでいい。
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スーパーに入る。
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買い物かごを持つ。
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「何にします?」
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「……必要なもので」
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「それ、いつもです」
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小さく笑う。
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野菜を手に取る。
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肉を選ぶ。
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当たり前のこと。
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それでも。
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少しだけ、特別だった。
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「……あ」
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綾が、立ち止まる。
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特売の札。
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「安い」
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少しだけ、嬉しそうに言う。
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世古が、それを見る。
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「……必要であれば」
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同じ言葉。
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でも。
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少しだけ、柔らかい。
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綾は、笑う。
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「じゃあ、必要です」
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それで決まる。
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午後。
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家に戻る。
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少しだけ、疲れた空気。
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それでも。
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嫌じゃない。
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ソファに座る。
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小さな寝息が、聞こえる。
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「……寝ましたね」
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「そうですね」
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声を落とす。
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そのまま、少しだけ静かになる。
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何も話さない時間。
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でも。
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それでいい。
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綾が、ふと呟く。
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「……あのとき」
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世古が、視線を向ける。
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「沖縄で」
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少しだけ、間を置く。
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「全部、始まった気がします」
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世古は、何も言わない。
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否定もしない。
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「……そうですね」
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短く返す。
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それだけ。
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でも。
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確かに、そこに繋がっている。
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夕方。
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光が、少しだけ傾く。
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部屋の中に、やわらかい影ができる。
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綾は、その影を見ている。
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何も変わっていない。
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それでも。
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全部が、少しずつ違う。
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「……これでいいんですね」
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小さく言う。
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世古が、わずかに頷く。
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「はい」
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短い答え。
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それだけ。
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それで、十分だった。
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夜。
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また、静かな時間が来る。
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同じ一日。
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同じ音。
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それでも。
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同じではない。
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選び続けた先にあるもの。
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それが、ここにあった。




