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毎日来る副校長が、なぜか“会計の瞬間だけ消える”話  作者: おみき
番外編 エピローグを遡って
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特別編 相模湖にて


電車を降りると、空気が変わった。



少しだけ冷たくて、少しだけやわらかい。



「……静かですね」



綾が、小さく言う。



「そうですね」



隣で、世古が短く答える。



駅から少し歩く。



人は少ない。



音も、少ない。



その中で、足音だけが続く。



「……ここなんですか」



「ええ」



視線の先に、湖が広がる。



光が、水面で揺れている。



綾は、少しだけ立ち止まる。



言葉が、出ない。



ただ、見ていた。



「……行きましょう」



世古の声で、また歩き出す。



少しだけ奥まった場所に、一軒の家。



派手ではない。



でも。



手入れされているのが分かる。



「ただいま」



世古が、扉を開ける。



「おかえり」



すぐに声が返る。



玄関に出てきたのは、父と母。



柔らかい表情。



「……いらっしゃい」



母が、少しだけ目を細める。



「綾さん、ですよね」



驚くほど自然な呼び方。



綾は、一瞬だけ戸惑う。



「……はい」



小さく、頭を下げる。



「よく来てくれたね」



父が、穏やかに言う。



その声に、力はない。



でも。



しっかりしている。



「上がって」



母に促される。



靴を脱ぐ。



家の中に入る。



木の匂いがする。



少しだけ、落ち着く匂い。



「遠かったでしょう」



「いえ」



短い会話。



それでも。



距離は、遠くない。



食卓に座る。



湯気が立っている。



「大したものじゃないけど」



母が、少し照れながら言う。



「……いただきます」



自然に言葉が出る。



箸を持つ。



一口、口に入れる。



「……おいしい」



思わず、出る。



母が、少しだけ笑う。



「よかった」



それだけ。



それで、十分だった。



ふと、視線を感じる。



世古の父が、静かに見ている。



「……あいつは」



ぽつりと、言う。



「昔から、ああいうやつでな」



少しだけ笑う。



「何も言わんが、全部やる」



綾は、言葉を返せない。



でも。



分かる気がした。



湖のほとりを、少しだけ歩く。



風が、静かに通る。



「……いい場所ですね」



綾が言う。



「そうですね」



世古が、同じように答える。



それ以上は、言わない。



でも。



それでいい。



綾は、少しだけ息を吸う。



胸の奥に、残っていたものがある。



沖縄で見た笑顔。



病室で感じた重さ。



全部。



消えていない。



それでも。



ここに来て、少しだけ形が変わる。



「……来てよかったです」



小さく言う。



世古は、わずかに頷く。



「そうですか」



それだけ。



それでも。



確かに、届いていた。



湖の水面が、揺れる。



同じように見えて、同じではない。



その中に、光が混ざる。



綾は、それをしばらく見ていた。


夕方の光が、少しだけやわらいでいた。



湖の水面に、細い道みたいに光が伸びている。



人はいない。



風の音だけが、ゆっくりと通る。



「……ここ、よく来るんですか」


綾が、小さく聞く。



「ええ」



短い返事。



それ以上は続かない。



それでいい。



しばらく、並んで立つ。



同じ景色を見る。



同じ時間が流れる。



世古は、少しだけ息を吸う。



言葉を選ぶ。



選び慣れているはずなのに、



今日は、少しだけ違う。



「……本来は」



ぽつりと、言葉が落ちる。



綾が、少しだけ顔を向ける。



「あなたと関わるべきではないと、考えていました」



静かな声。



否定でも、拒絶でもない。



ただの事実。



綾は、何も言わない。



続きを待つ。



「過去があります」



短い言葉。



説明はしない。



必要な分だけ。



「その影響で」



一拍。



「誰かを巻き込む可能性がある」



風が、少し強くなる。



湖の水面が揺れる。



綾は、視線を落とさない。



ただ、聞いている。



「ですから」



言葉を切る。



「距離を保つつもりでした」



ここまでで、終わってもいいはずだった。



それでも。



世古は、もう一度息を吸う。



少しだけ、長く。



「……ですが」



初めて、少しだけ声が変わる。



「それ以上に」



言葉を選ぶ。



慎重に。



それでも。



「あなたといる時間を、手放したくないと思いました」



綾の呼吸が、わずかに止まる。



言葉が、まっすぐ届く。



「……好きです」



短い。



それだけ。



それ以上は、言わない。



静かな空気が残る。



湖の音。



風の音。



それだけが、続く。



綾は、すぐには答えない。



言葉を探しているわけじゃない。



ただ。



受け取っている。



その時間が、必要だった。



「……ずるいですね」



小さく、言う。



世古が、わずかに視線を動かす。



「全部、分かった上で言うんですね」



責めているわけではない。



むしろ。



少しだけ、笑っている。



「……はい」



否定しない。



それが、この人だ。



綾は、少しだけ息を吐く。



胸の中にあったものが、少しだけほどける。



「……私も」



言葉にする。



今度は、自分の番だった。



「一緒にいる時間、嫌じゃないです」



遠回りな言い方。



それでも。



嘘はない。



「だから」



一歩、踏み出す。



「いいと思います」



それだけ。



それで、十分だった。



世古は、何も言わない。



ただ、わずかに頷く。



それで伝わる。



湖の光が、少しだけ揺れる。



同じ場所。



同じ時間。



それでも。



少しだけ、違う。


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