番外編 沖縄旅行を自然に支えてしまう
― 手の中に残るもの ―
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空港に降りた瞬間、空気が変わった。
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少しだけ重くて、でもやわらかい。
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「……暑いな」
父が、短く言う。
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その声に、どこか力が抜けている。
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「でも、気持ちいいですね」
母が、少しだけ目を細める。
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綾は、何も言わずに空を見上げる。
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青かった。
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分かりやすいくらいに。
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「……ほんとに来たんだ」
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小さく呟く。
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隣で、世古が静かに立っている。
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「……これ」
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父の手に、車のキーが渡される。
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「レンタカー、用意されてます」
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「……いつの間にだ」
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綾が、少しだけ世古を見る。
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「必要だったので」
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それだけ。
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説明はない。
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それでも。
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何も困らなかった。
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那覇の市場は、少しだけ騒がしかった。
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匂いが混ざる。
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魚の匂い、油の匂い、知らない香辛料。
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「……すごいな」
父が、周りを見回す。
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母は、少しだけ笑いながら食材を見ている。
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「これ、きれい」
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グルクンの銀色。
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海ぶどうの粒。
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「これ、どうします?」
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「揚げるとうまいよ」
店の人が言う。
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「じゃあ、それで」
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自然に、会話が続く。
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しばらくして、料理が並ぶ。
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湯気が立つ。
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「……うまいな」
父が、ぽつりと言う。
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その言い方が、やけに素直だった。
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母が、小さく笑う。
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「ほんとね」
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綾は、そのやり取りを見ていた。
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何も言わない。
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でも。
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胸の奥が、少しだけあたたかい。
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首里城跡。
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風が強い。
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「ここは――」
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世古が、静かに話す。
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長くない。
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でも、必要なことだけが残る。
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父が、頷く。
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母が、静かに景色を見る。
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言葉は少ない。
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それでも。
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ちゃんと伝わっている。
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水族館。
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大きな水槽の前で、また足が止まる。
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「……でかいな」
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父の声が、少しだけ柔らかい。
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「触れますよ」
スタッフが言う。
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「……触るのか?」
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「せっかくなので」
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少しだけ迷って、父が手を伸ばす。
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指先が触れる。
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「……ああ」
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短い声。
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それだけで、十分だった。
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その横で、母が少しだけ笑っている。
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綾は、それを見ていた。
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見ているだけで、よかった。
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午後の海。
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水に入る。
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冷たさが、すぐにやわらぐ。
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音が消える。
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魚が、目の前を通る。
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父が、ゆっくりと進む。
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母も、同じように。
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世古も、少し離れている。
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綾は、その真ん中にいた。
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何も言わない。
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でも。
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全部が、同じ場所にあった。
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夕方。
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浜辺に火が灯る。
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「……久しぶりだな」
父が、ぽつりと言う。
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母が、静かに頷く。
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肉の焼ける音。
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風の音。
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笑い声。
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特別なことは、何もない。
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それでも。
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今までなかった時間だった。
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夜。
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「少しだけ、いいですか」
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世古の声。
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浜辺に、小さな準備。
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簡単な装飾。
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「……え?」
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綾が戸惑う。
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父と母が並ぶ。
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少し照れた顔。
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「新婚旅行をされていないと聞いていましたので」
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それだけ。
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写真が撮られる。
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フラッシュ。
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その瞬間。
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父が、少しだけ笑った。
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母も、同じように。
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その笑顔を見た瞬間。
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綾の視界が、少しだけ揺れる。
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「あ……」
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声にならない。
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涙が、こぼれる。
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止めようとしない。
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止めなくていいと思った。
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父と母が、笑っている。
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ただ、それだけでよかった。
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それだけで、十分だった。
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四日目。
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帰る準備。
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ファスナーの音が、やけに響く。
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「……また来るか」
父が、ぽつりと言う。
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綾は、少しだけ驚く。
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それから、頷く。
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「……うん」
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空港。
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人の流れ。
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音。
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日常に戻る。
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それでも。
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何かが、確かに残っている。
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車に乗る。
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東京の景色。
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見慣れたはずの街。
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それでも。
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少しだけ違って見える。
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綾は、静かに息を吐く。
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涙は、もう出ない。
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でも。
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あのときの景色は、消えない。
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父と母の笑顔。
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海の青。
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風の音。
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そして。
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何も言わずに、全部を整えた人。
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「……ありがとう」
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小さく呟く。
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隣で、世古が少しだけ視線を動かす。
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「……必要だったので」
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同じ言葉。
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それでも。
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もう、同じ意味ではなかった。




