第9話 選べるということ
知らない番号からの着信は、少しだけ緊張する。
画面に表示された名前は、まだ登録されていない。
「……はい」
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『平泉さんでしょうか』
落ち着いた声だった。
低くも高くもない、整った声。
『清水法律事務所の清水と申します』
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その名前に、ほんのわずかに間が生まれる。
――清水。
この間は、たしか小林だったはずだ。
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違う事務所。
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「……はい」
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『お父様の件で、一度お時間をいただければと思いまして』
丁寧な言い方だった。
押しつけるでもなく、急かすでもない。
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それでも。
逃げられない話には変わりがない。
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「……分かりました」
そう答える。
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『ありがとうございます』
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その一言だけで、少しだけ空気が軽くなる。
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『無理のない範囲で構いませんので』
それ以上は言わない。
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それが、逃げ場を残しているようで。
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同時に。
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逃げ場がないことも、分かってしまう。
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通話が終わる。
スマートフォンの画面が暗くなる。
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綾は、そのまましばらく動かなかった。
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――変わっている。
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そう思う。
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何かが。
自分の知らないところで。
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約束の日。
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指定された場所は、駅の近くの小さな事務所だった。
派手さはない。
それでも、整っている。
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ドアを開けると、すぐに人の気配がした。
「平泉さんですね」
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その人は立ち上がって、軽く頭を下げる。
年齢は四十代くらい。
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整った服装。
無駄のない動き。
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どこか、見覚えのある整い方だった。
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「清水です」
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名乗る声も、同じだった。
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座るように促される。
机の上には、すでに書類が用意されている。
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「まずは、現状の整理からさせてください」
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そう言って、紙を一枚差し出す。
難しい言葉は使っていない。
それでも、内容は軽くない。
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「すぐに全てが解決するわけではありません」
最初に、そう言う。
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「ただ、整理することで、選べる状態にはなります」
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“選べる”。
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その言葉に、少しだけ引っかかる。
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今まで、自分が何かを選んできた感覚がなかったから。
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「無理に決める必要はありません」
清水は、そう続ける。
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「ただ、知らないままでいるよりは、負担が減ると思います」
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その言い方は、優しかった。
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でも。
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“逃げないこと”を前提にした優しさだった。
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綾は、小さく頷く。
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気づけば、話していた。
父のこと。
借金のこと。
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言葉にするつもりはなかったのに。
自然に出ていた。
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清水は、途中で止めない。
否定もしない。
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ただ、聞いている。
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必要なところだけ、短く言葉を返す。
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それだけなのに。
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話し終えたとき、少しだけ息がしやすくなっていた。
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「ありがとうございます」
清水が、静かに言う。
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その一言に、少しだけ驚く。
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「……こちらこそ」
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そう返してしまう。
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何に対してなのかは、よく分からなかった。
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帰り道。
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外の空気を吸い込む。
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変わったわけではない。
何も終わっていない。
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それでも。
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輪郭が、少しだけ見えた気がした。
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――あの人の言っていたこと。
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“整理した方がいい”。
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頭に浮かぶ。
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あの人は、何もしていないように見える。
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それでも。
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確かに、先に進めている。
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自分には届かない場所で。
自分には分からない速さで。
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その夜。
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レジに立ちながら、ふと考える。
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――あの人は、何をしている人なんだろう。
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自動ドアが開く音がする。
顔を上げる。
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そこに、その人がいた。
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いつも通りの距離。
変わらない立ち方。
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それでも。
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もう、同じには見えなかった。
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「いらっしゃいませ」
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声が出る。
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ほんの少しだけ。
前よりも、はっきりと。




