第10話 触れてはいけない気がする
病院の空気は、少しだけ特別だった。
静かで、整っていて、
どこか現実から切り離されている。
ここにいる間だけ、
外の時間と繋がっていないような感覚がある。
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母の診察に付き添う。
待合室の椅子に座る。
周りには、同じように待っている人たちがいる。
それぞれに事情があって、
それぞれに時間が流れている。
同じ場所にいるのに、
誰とも交わらない。
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名前を呼ばれる。
診察室に入る。
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「お母さん、体調はいかがですか。娘さんは、初めまして」
医師は、穏やかな声で言った。
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年齢は四十代くらい。
整った顔立ち。
無駄のない所作。
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どこかで、見たことがある気がした。
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「井上です」
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その名前を、頭の中で繰り返す。
井上。
短くて、余計なものがない。
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話し方は柔らかい。
それでも、曖昧なところがない。
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母の話を、ひとつひとつ聞いていく。
途中で遮らない。
否定もしない。
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それなのに。
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診察が進むほど、
“見えている範囲”が広がっていく気がした。
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言葉にしていないことまで、
どこかで含まれているような。
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「少し、治療の方向を変えてみましょう」
井上は、そう言った。
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説明は簡潔だった。
難しいはずの内容なのに、なぜか分かる。
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理解させられるのではなく、
気づけば理解している。
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そんな感覚だった。
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「無理のない範囲で進めます」
その言葉に、母が小さく頷く。
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私は、その様子を見ている。
安心している顔だった。
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無理に作ったものじゃない。
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久しぶりに見る表情だった。
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その安心に、ほっとする。
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同時に。
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少しだけ、引っかかる。
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――こんなに、整っていていいんだろうか。
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診察が終わる。
「何かあれば、すぐに連絡してください」
井上は、そう言って軽く頭を下げた。
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その動きが、少しだけ気になる。
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丁寧すぎる。
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仕事としての丁寧さというよりも、
“そうすることが決まっている”みたいな。
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病院を出る。
外の空気を吸い込む。
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現実に戻る感覚。
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母が、少しだけ笑う。
「いい先生だったでしょ」
「……うん」
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確かに、いい先生だった。
それは疑いようがない。
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それでも。
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整いすぎている気がした。
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帰り道。
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頭の中で、言葉が繋がる。
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――紹介。
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その一言が、ゆっくりと形を持つ。
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夜。
レジに立つ。
いつも通りの場所。
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それでも。
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意識が、少しだけ変わっている。
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自動ドアが開く音がする。
顔を上げる。
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その人がいた。
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変わらないはずの姿。
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それなのに。
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前よりも、はっきりと見える。
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輪郭が、濃くなっている。
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「いらっしゃいませ」
声が、自然に出る。
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「袋、いりません」
同じ言葉。
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商品をスキャンする。
ピッ、という音が響く。
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ほんの少しだけ、間ができる。
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「……ありがとうございました」
言いかけて、止まる。
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違う。
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今は、それじゃない。
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「……あの」
気づけば、また声が出ていた。
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その人が、視線を上げる。
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「病院……」
そこまで言って、言葉が止まる。
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何を聞きたいのか、自分でも分からない。
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確かめたい。
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でも。
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確かめたくない。
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「……なんでもないです」
そう言って、視線を落とす。
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その人は、何も言わない。
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それでも。
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ほんのわずかに、待っている気がした。
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私は、息を整える。
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――聞けば、分かる。
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そう思う。
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でも。
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聞いてしまったら。
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全部、分かってしまう気がした。
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「……ありがとうございました」
今度は、最後まで言う。
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その人は、軽く頷く。
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自動ドアが開く。
背中が遠ざかる。
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私は、その場に立ったまま動けなかった。
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――触れてはいけない気がする。
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理由は分からない。
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でも。
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それでも。
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少しだけ。
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触れてしまいたいとも思っていた。




