第8話 少しだけ預ける
店内は、いつも通りの音で満ちている。
バーコードの音。
店内放送。
カゴの触れ合う音。
変わらないはずの一日。
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それでも。
何かが、少しずつ動いている気がした。
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休憩に入る前、同僚の声が耳に入る。
レジの奥で、誰かが話している。
「そういえばさ、あの子の家、大変らしいよ」
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足が、ほんの一瞬だけ止まる。
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「お父さん、借金あるって聞いた」
聞き慣れた言葉なのに、
他人の口から聞くと、少しだけ違って聞こえる。
「お母さんも体弱いんでしょ?」
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笑っているわけじゃない。
ただの雑談。
それだけ。
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それでも。
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私は、その場から動けなかった。
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「やめなよ」
別の声が、少しだけ低くなる。
「本人いるかもしれないでしょ」
「いや、今いないって」
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その言葉に、少しだけ安心してしまう。
――いるのに。
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私は、何も言わずにその場を離れた。
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休憩室に入る。
ドアを閉める音が、小さく響く。
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スマートフォンを見る。
何も変わっていない画面。
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それでも。
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少しだけ、息がしづらい。
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――分かっていたことだ。
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それを、もう一度思い出しただけ。
それだけのはずなのに。
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レジに戻る。
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自動ドアが開く音。
顔を上げる。
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そこに、その人がいた。
まるで、最初からそこにいたみたいに。
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「いらっしゃいませ」
声は、少しだけ静かだった。
「袋、いりません」
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同じ言葉。
同じ声。
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商品をスキャンする。
ピッ、という音が響く。
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そのとき。
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「……お母さん、どうですか」
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手が、止まる。
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顔を上げる。
その人は、いつも通りの表情だった。
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「……病院が変わりました」
それだけ答える。
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世古は、小さく頷く。
「そうですか」
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それだけ。
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それなのに。
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続けてしまう。
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「……あの、世古さん」
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言葉が、自然に出る。
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「病院……紹介してくださったんですか?」
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世古は、少しだけ間を置く。
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「ええ。病院、合うといいですね」
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止めようと思えば、止められた。
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それでも。
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「……でも、お金も、ちょっと心配で」
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言ってしまう。
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「新しい病院だと、高くなるのかなって」
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口を閉じる。
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言いすぎた、と思う。
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それでも。
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世古は、驚かなかった。
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「そうですか。心配させてしまって、すみません」
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同じ声。
それでも、少しだけ違って聞こえる。
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「病院に相談されるといいと思います」
静かに、そう言う。
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「あと……一人で抱えるより、整理した方がいいです」
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私は、視線を落とす。
「……病院とですか?」
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世古は、ほんの一瞬だけ考える。
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「それも一つですが」
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少しだけ間を置く。
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「もう一つ、知り合いに詳しい人がいます」
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それだけ。
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名前も出さない。
肩書きも言わない。
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それでも。
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その言葉は、軽くなかった。
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私は、少しだけ迷う。
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頼む理由はある。
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でも。
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頼んでいい理由が、分からない。
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そのとき。
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休憩室の方から、笑い声が聞こえる。
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――借金あるって。
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その言葉が、浮かぶ。
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私は、ゆっくりと息を吐く。
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「……もし」
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言葉が出る。
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「もし、その人が大丈夫なら」
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前よりも、少しだけはっきりしていた。
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世古は、小さく頷く。
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「分かりました。この件、私が少し預かってもよいですか」
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それだけ。
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「……すみません。ありがとうございます」
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自分でも分からない。
どうして、こんなことが言えたのか。
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いつもなら、言わない。
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それでも。
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もう、戻れない気がした。
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自動ドアが開く。
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世古は、振り返らずに店を出る。
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私は、その背中を見ている。
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何も変わっていないはずの場所で。
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――もう、変わっている。




