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第7話 動き出すもの

朝、目が覚めたとき、少しだけ違和感があった。


何が違うのかは分からない。

ただ、昨日と同じではない気がした。


⸻


スマートフォンを見る。


特に変わった通知はない。

いつも通りの画面。


それでも、ほんの少しだけ落ち着かない。


⸻


――もし、可能なら。


昨日、自分で言った言葉を思い出す。


曖昧で、頼んだとも言い切れない言葉。


それでも。


あの人は、「分かりました」と言った。


⸻


あれは、本当に“頼んだ”ことになるのか。


考えようとして、やめる。


考えても、答えは出ない。


⸻


家を出る。


いつもと同じ道。

同じ景色。


それでも、足取りは少しだけ重かった。


⸻


昼前。


仕事の合間に、スマートフォンが震えた。


母からだった。


『ねえ』


それだけの短いメッセージ。


⸻


休憩に入ってから、折り返す。


「もしもし」


『あのね』


少しだけ、戸惑った声だった。


⸻


『病院、変わることになって。いま、新しい病院』


息が止まりそうになる。


それでも、黙って聞いた。


⸻


『前の先生がね、他院から紹介があったって言ってて』


『話が早くて。向こうから切り出してくれて、新しい病院までタクシーで案内してくれたの』


⸻


胸の奥が、わずかにざわつく。


「……そうなんだ」


そう答えながら、思う。


そんなこと、普通ある?


⸻


『新しい先生も、ちゃんと話を聞いてくれる人で』


『今までより、少し安心できるかもしれない』


⸻


その声は、確かに軽かった。


無理をしている感じではなかった。


「……よかったね」


自然に、そう言えた。


⸻


通話が終わる。


スマートフォンを見たまま、しばらく動けなかった。


⸻


――早い。


昨日、少し話しただけだ。


それだけで、こんなに早く動くものなのか。


⸻


偶然かもしれない。


そう思おうとする。


でも。


「……そんなわけないか」


小さく呟く。


⸻


確かめることはできる。


聞けばいい。


それでも、私はスマートフォンをポケットにしまった。


⸻


理由を知るよりも。


このままの方が、楽な気がした。


⸻


仕事に戻る。


レジに立つ。


いつも通りの動作。

いつも通りの音。


それでも、ほんの少しだけ違って聞こえる。


⸻


自動ドアが開く音がする。


顔を上げる。


違う。


⸻


また、ドアの音。


顔を上げる。


違う。


⸻


その繰り返しの中で、気づいてしまう。


――待っている。


もう、気のせいではなかった。


⸻


夕方。


仕事が終わる頃、もう一度スマートフォンが震えた。


知らない番号だった。


少しだけ迷って、出る。


「……はい」


⸻


『平泉さんですか? 娘さん?』


あまり感じの良い声ではなかった。


『小林法律事務所の者ですが』


⸻


その言葉に、体がわずかに強張る。


⸻


『お父さんの借金の件で、少しお話がありましてね』


『あらためて、こちらにいらしていただけますかね。ご家族で』


⸻


一瞬、言葉が出なかった。


それでも。


逃げられない現実だった。


⸻


「……分かりました」


そう答えるしかなかった。


⸻


通話が切れる。


綾は、しばらくその場に立っていた。


⸻


母は、少し良くなった。


それは、確かだ。


でも。


何も終わっていない。


⸻


むしろ。


何かが動き出している。


自分の知らないところで。


⸻


助かったはずなのに。


少しだけ、怖い。


⸻


自動ドアが開く音がする。


顔を上げる。


そこには、誰もいなかった。


⸻


それでも。


ほんの一瞬だけ。


“誰かが立っていた”気がした。


⸻


綾は、何も言えないまま、入口を見ていた。


待っていたのか。


怖かったのか。


自分でも、もう分からなかった。

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