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第6話 触れない優しさ

朝の空気は、昨日より少しだけ軽かった。


同じ時間。

同じレジ。

同じ場所。


それでも、もう同じじゃない。


名前を知っている。


それだけで、景色は少し変わる。



綾は、レジに立っている。


いつも通り。

手は動く。声も出る。


それでも。


どこかで待っている。



認めたくないけど、分かっている。



ドアの音。


顔を上げる。


――いた。



世古。


もう、“いつもの人”じゃない。


名前がある。


それだけで、少しだけ近い。



順番が来る。


目が合う。

一瞬。


昨日より、自然だった。



「いらっしゃいませ」


少し落ち着いた声で言う。


世古は軽く頷く。

そのまま商品を置く。



バーコードを通す。

音が鳴る。


いつものリズム。


それだけ。


何も言わない。



それでいい。


そう思う。



会計が終わる。


「袋、いりません」


いつも通り。

変わらない。



綾は商品をまとめる。


そのとき、ふと気づく。


指先。


少しだけ赤い。



浅い切り傷。


昨日の夜、包丁でつけたもの。


大したことはない。


そう思っていた。



そのはずなのに。



世古が、手を止める。


ほんの一瞬。


視線が、綾の手に落ちる。



「平泉さん、それ」



短い言葉。


でも、柔らかい。



綾は、一瞬だけ戸惑う。


「あ……大丈夫です」


反射みたいに答える。


手を引く。

隠すように。



世古は、少しだけ間を置く。


「そうですか」


否定しない。



でも。


そこで終わらない。



ポケットに手を入れる。


取り出したものを、カウンターに置く。



絆創膏。


箱に入ったままの新品。



綾は、少しだけ固まる。


予想していなかった。


言葉が出ない。



世古は、何も言わない。


押しつけるわけでもない。


ただ、そこに置いただけ。



「……使ってください」



静かな声。


当たり前みたいに。



綾は、それを見る。


絆創膏。


たったそれだけ。



それなのに。



さっきまでの「大丈夫」が、少しだけ揺らぐ。



「……ありがとうございます」


やっと言葉が出る。



世古は軽く頷く。


それから商品を受け取る。


いつも通り。

振り返らない。



残るのは、絆創膏だけ。



綾はそれを手に取る。


軽いはずなのに。


少しだけ、あたたかい。



――大丈夫じゃないのかもしれない。



そんな考えが、浮かぶ。



「……なんで」


小さく呟く。


答えは出ない。



でも。


前とは違う。



仕事が終わる頃、母から連絡が来る。


『今日、病院行ってきたの』


少しだけ疲れた声だった。



「どうだった?」



『うん……まあ、いつも通りかな』



その“いつも通り”に、少しだけ間がある。



『薬、また合わないみたいでね』

『ちょっとだけ、しんどいかな』



綾は、言葉を探す。



でも。


見つからない。



「……そっか」


それだけ言う。



通話が切れる。



静かになる。



テーブルの上に置いた手に、視線を落とす。


さっきの絆創膏。


まだ、貼っていない。



――大丈夫。



そう思おうとして。



少しだけ、止まる。



「……変えた方がいいのかな」



小さく呟く。



答えはない。



でも。


その言葉だけが、残る。



翌日。



レジに立ちながら、その言葉を思い出す。


――変えた方がいいのかな。



自動ドアが開く音。


顔を上げる。


世古がいた。



レジの前に立つ。


「いらっしゃいませ」


「袋、いりません」



商品をスキャンする。


「ポイントカードはお持ちですか」

「いいえ」



いつも通り。



それでも。



綾は、ほんの少しだけ迷う。



――踏み込まない方がいい。



そう思う。


思っているのに。



「……あの」



声が出る。



世古が、少しだけ視線を上げる。



「病院って……」


言いかけて、止まる。



「紹介とか、してもらえるものなんですか」



聞いてしまってから、後悔する。



それでも。


もう遅い。



世古は、少しだけ視線を落とす。


「できますよ」


短く、それだけ。



「……そうなんですね」



言葉が続かない。



世古は、少しだけ間を置く。



「必要なら、紹介します」



押しつけない。


探らない。


ただ、そこに置くだけ。



綾は、視線を落とす。



理由はある。



でも。



頼んでいい理由が、分からない。



「……もし」



口が動く。



「もし、可能なら」



曖昧な言葉。



世古は、小さく頷く。


「分かりました」



それだけ。


何も聞かない。



それなのに。



もう、決まってしまった気がした。



会計を終える。


「ありがとうございました」



世古は軽く頷き、店を出る。



自動ドアが開く。

閉まる。



綾は、その場に立ったまま動かなかった。



――頼んでしまった。



理由は、うまく言えない。



ただ。



戻らない場所に、少しだけ踏み込んだ気がした。

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