第70話 触れなかった場所
その人は、いつもと同じように店に入ってくる。
自動ドアの音が、静かに鳴る。
綾は顔を上げる。
――分かる。
理由はない。
でも、分かる。
⸻
「いらっしゃいませ」
声は、いつも通り。
⸻
その人は棚の前で立ち止まる。
手に取ったのは、包帯と消毒液だった。
ほんの一瞬だけ、迷うような動き。
けれど、すぐにそれをカゴに入れる。
⸻
レジに来る。
前と同じ距離。
同じ立ち方。
⸻
「袋、いりません」
低い声。
⸻
「ポイントカードはお持ちですか」
⸻
「……持っていたことはあります」
⸻
変わらないやり取り。
⸻
それでも。
⸻
今日は、少しだけ違って見えた。
⸻
その人の手に、薄く跡が残っている。
新しいものではない。
けれど、消えきってもいない。
⸻
綾は、何も言わない。
⸻
「合計、千四百円です」
⸻
現金が差し出される。
指先が、少しだけ硬い。
⸻
レシートを渡す。
⸻
「……ありがとうございます」
言葉が、自然に出る。
⸻
その人は、ほんのわずかに視線を上げる。
⸻
「……どういたしまして」
⸻
初めて聞く返しだった。
⸻
ほんの一瞬、空気が止まる。
⸻
「……忙しいですか」
ふいに、世古が言う。
⸻
綾は、一瞬だけ考える。
⸻
「……いつも通りです」
⸻
それが一番近い答えだった。
⸻
世古は、わずかに頷く。
⸻
「そうですか」
⸻
それ以上は聞かない。
⸻
その沈黙の中で、ふと気づく。
⸻
その人の目は、どこか遠くを見ている。
今ここにいるのに、
少しだけ別の場所に立っているような。
⸻
「……」
言葉にしようとして、やめる。
⸻
触れてはいけないものがある。
そう思った。
⸻
世古は、商品を受け取る。
⸻
そして、ほんの一瞬だけ、動きを止める。
⸻
「……」
何かを思い出すような間。
⸻
けれど、それは言葉にならない。
⸻
そのまま、外に出る。
⸻
自動ドアが開く。
音が、静かに響く。
⸻
綾は、その背中を見送る。
⸻
前より、少しだけ近く感じる。
⸻
それでも。
⸻
まだ、届かない場所がある。
⸻
そう分かった。




