第65話 父の決断
朝の光が、少しだけ早く差し込んでいた。
居間の空気は、静かだった。
テーブルの上には、昨日のままの資料が置かれている。
きれいに揃えられた紙。
折り目も、汚れもない。
触れられていないのが、分かる。
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父は、その前に座っていた。
椅子に深く腰を下ろして、
背中を少し丸めている。
目は、資料に向けられていた。
読んでいるのかどうかは、分からない。
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綾は、少し離れたところで立ち止まる。
声をかけるか迷って、そのままにした。
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しばらくして、父が紙に手を伸ばす。
ゆっくりと、一枚めくる。
指先が、ほんの少しだけ止まる。
その動きに、見覚えがあった。
昔、現場で図面を見ていたときと、同じ手つき。
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「……細かいな」
ぽつりと、父が言う。
誰に向けたわけでもない声。
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「ちゃんとしてる」
続けて、そう言った。
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それだけで、十分だった。
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父は、もう一度ページをめくる。
今度は、少しだけ迷いがない。
視線が、ゆっくりと紙の上をなぞっていく。
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「……こういうのはな」
低い声。
「現場を知らないやつが作ると、すぐ分かる」
一拍。
「これは、違うな」
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綾は、何も言わずに聞いていた。
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「必要なとこだけ、ちゃんと書いてある」
父の指が、図面の一部をなぞる。
「無駄がない」
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その言葉に、少しだけ熱が混じる。
ほんのわずかだけ。
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沈黙。
けれど、昨日までとは違う種類の沈黙だった。
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「……綾」
名前を呼ばれる。
少しだけ驚いて、顔を上げる。
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「お前、あの人とどういう関係だ」
唐突な問いだった。
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「……仕事で、少し」
それ以上は言わない。
言えないこともあるし、言わなくていいこともある。
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父は、しばらくこちらを見ていた。
何かを探るような目。
けれど、それ以上は踏み込まなかった。
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「……そうか」
小さく頷く。
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もう一度、資料に目を落とす。
そして、静かに言う。
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「一回、行ってみる」
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その一言は、思っていたよりも軽かった。
けれど、逃げ道のない重さがあった。
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「……うん」
綾は、それだけ返す。
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父は、ゆっくりと立ち上がる。
背筋が、ほんの少しだけ伸びている。
昨日より、ほんの少しだけ。
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資料を手に取る。
今度は、迷いなく。
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「……まだ分からん」
小さく呟く。
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「でも、何もせんよりは、ましだ」
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それが、父の答えだった。
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外に出る音がする。
扉が開いて、閉まる。
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綾は、その場に立ったまま、しばらく動かなかった。
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“止まっているだけ”だと思っていた。
でも。
ほんの少しだけ、動いた。
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それは、とても小さな変化だった。
けれど。
確かに、変わっていた。




