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毎日来る副校長が、なぜか“会計の瞬間だけ消える”話  作者: おみき
第8章 HOPE ―動き出す現実―
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第64話 知らなかったこと

仕事を終えて、店の外に出る。


夜の空気は、少しだけやわらかかった。


いつも通りの道を歩く。

寄る場所も、順番も、変わらない。


薬局で処方箋を出して、母の薬を受け取る。

袋の重さを、手の中で確かめる。


――いつも通り。


それなのに、どこかだけが、少し違う気がする。



実家の前で、足を止める。


灯りがついていた。


インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。


「綾」


母の声は、少しだけ明るかった。


「ただいま」


靴を脱いで上がる。


部屋の空気が、ほんの少しだけ軽い。


理由は分からないけど、そう感じた。



「これ、薬」


「ありがとう」


受け取る手が、いつもよりしっかりしている気がした。


「体調、大丈夫?」


「うん、今日は少し楽なの」


その言い方に、ほんの少しだけ違和感が残る。


“楽な日”は、前からあった。

でも、こんな言い方はしていなかった。



「……ねえ」


母が、少し迷うように言う。


「今日ね、お客さんが来たの」


「お客さん?」


「うん。あなたの、知り合いだって」


心臓が、わずかに跳ねる。


「名前は……世古さん、だったかしら」



一瞬だけ、言葉が出なかった。


「……そう」


それだけを返す。


声は、思っていたよりも普通だった。



「お父さんに、お仕事の話をしてくれてね」


母の声は、静かだった。


でも、どこかだけが揺れている。


「学園の……用務員、っていうのかしら。

とてもいい条件で」


私は、何も言わずに聞いていた。



「お父さんね、ずっと黙って聞いてたの」


少しだけ、懐かしそうに笑う。


「昔みたいだった。

ちゃんと、仕事の話をしてる顔で」


その言葉に、胸の奥がわずかに引っかかる。



「……そうなんだ」


それしか言えなかった。



そのとき、奥の部屋から音がした。


父が出てくる。


一瞬だけ、目が合う。


「……帰ってたのか」


「うん」


短い会話。


でも、いつもより少しだけ間が柔らかい。



父は、テーブルの上に置かれた資料に目を落とす。


そして、ほんの少しだけ、それに触れる。


まるで、壊れ物みたいに。



「……まだ決めてない」


ぼそりと呟く。


誰に向けた言葉かは分からない。



「そうなんだ」


綾は、それ以上聞かなかった。


聞いてしまうと、何かが変わる気がした。



少しの沈黙。


その中で、ふと気づく。


部屋の空気が、少しだけ違う。


重さが、ほんの少しだけ薄れている。



「その人ね」


母が、小さく言う。


「“あなたが必要だ”って、お父さんに言ってくれたの」


その言葉が、ゆっくりと落ちてくる。



私は、何も言えなかった。



必要。


その言葉は、どこか遠いものだと思っていた。


誰かに向けられるものだと、思っていた。



それが、ここにある。


こんな場所に、ちゃんと落ちている。



「……そっか」


やっと、それだけを口にする。



ふと、あの人の顔を思い出す。


整っているのに、どこか疲れている目。


何も言わないくせに、

必要なことだけは、ちゃんと置いていく人。



――どうして。


そう思いかけて、やめる。



考えない方が、楽なこともある。


そうやって、ここまで来た。



それでも。



「……ありがとう」


小さく呟いた声は、誰にも届かないはずだった。



けれど。


ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。


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