第64話 知らなかったこと
仕事を終えて、店の外に出る。
夜の空気は、少しだけやわらかかった。
いつも通りの道を歩く。
寄る場所も、順番も、変わらない。
薬局で処方箋を出して、母の薬を受け取る。
袋の重さを、手の中で確かめる。
――いつも通り。
それなのに、どこかだけが、少し違う気がする。
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実家の前で、足を止める。
灯りがついていた。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「綾」
母の声は、少しだけ明るかった。
「ただいま」
靴を脱いで上がる。
部屋の空気が、ほんの少しだけ軽い。
理由は分からないけど、そう感じた。
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「これ、薬」
「ありがとう」
受け取る手が、いつもよりしっかりしている気がした。
「体調、大丈夫?」
「うん、今日は少し楽なの」
その言い方に、ほんの少しだけ違和感が残る。
“楽な日”は、前からあった。
でも、こんな言い方はしていなかった。
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「……ねえ」
母が、少し迷うように言う。
「今日ね、お客さんが来たの」
「お客さん?」
「うん。あなたの、知り合いだって」
心臓が、わずかに跳ねる。
「名前は……世古さん、だったかしら」
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一瞬だけ、言葉が出なかった。
「……そう」
それだけを返す。
声は、思っていたよりも普通だった。
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「お父さんに、お仕事の話をしてくれてね」
母の声は、静かだった。
でも、どこかだけが揺れている。
「学園の……用務員、っていうのかしら。
とてもいい条件で」
私は、何も言わずに聞いていた。
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「お父さんね、ずっと黙って聞いてたの」
少しだけ、懐かしそうに笑う。
「昔みたいだった。
ちゃんと、仕事の話をしてる顔で」
その言葉に、胸の奥がわずかに引っかかる。
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「……そうなんだ」
それしか言えなかった。
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そのとき、奥の部屋から音がした。
父が出てくる。
一瞬だけ、目が合う。
「……帰ってたのか」
「うん」
短い会話。
でも、いつもより少しだけ間が柔らかい。
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父は、テーブルの上に置かれた資料に目を落とす。
そして、ほんの少しだけ、それに触れる。
まるで、壊れ物みたいに。
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「……まだ決めてない」
ぼそりと呟く。
誰に向けた言葉かは分からない。
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「そうなんだ」
綾は、それ以上聞かなかった。
聞いてしまうと、何かが変わる気がした。
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少しの沈黙。
その中で、ふと気づく。
部屋の空気が、少しだけ違う。
重さが、ほんの少しだけ薄れている。
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「その人ね」
母が、小さく言う。
「“あなたが必要だ”って、お父さんに言ってくれたの」
その言葉が、ゆっくりと落ちてくる。
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私は、何も言えなかった。
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必要。
その言葉は、どこか遠いものだと思っていた。
誰かに向けられるものだと、思っていた。
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それが、ここにある。
こんな場所に、ちゃんと落ちている。
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「……そっか」
やっと、それだけを口にする。
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ふと、あの人の顔を思い出す。
整っているのに、どこか疲れている目。
何も言わないくせに、
必要なことだけは、ちゃんと置いていく人。
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――どうして。
そう思いかけて、やめる。
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考えない方が、楽なこともある。
そうやって、ここまで来た。
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それでも。
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「……ありがとう」
小さく呟いた声は、誰にも届かないはずだった。
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けれど。
ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。




