第61話 馬に蹴られるやつ?
踏み込む人
夕方。
ドラッグストア。
少しだけ混む時間。
レジの前。
綾は、いつも通り立っている。
手は動く。
声も出る。
それでも。
少しだけ、落ち着かない。
理由は、分かっている。
考えないようにしているだけ。
自動ドアが開く。
音。
綾は、顔を上げる。
世古。
ひとり。
それだけで、少しだけ呼吸が整う。
――その直後。
別の声。
「先生」
綾の視線が、止まる。
さっきとは違う。
少しだけ強い。
その女性。
前に見た顔。
でも今日は。
距離が違う。
迷いがない。
世古の横に、自然に立つ。
隣。
それが、もう違う。
「このあと、少しお時間ありますか?」
はっきりと。
逃げない言い方。
綾の手が、止まりかける。
止めない。
動かす。
でも。
耳は、完全にそっちを向いている。
世古は、少しだけ間を置く。
ほんの一瞬。
「……ありますが」
短く答える。
綾の指先が、わずかにズレる。
ピッ、という音が乱れる。
女性は、少しだけ笑う。
「よかった」
その一言に。
“決まった”空気が混ざる。
「少し、お話したいことがあって」
距離が、さらに詰まる。
綾は、視線を落とす。
見ない。
見ないまま。
全部、聞こえる。
世古は、何も言わない。
否定もしない。
肯定もしない。
それが、一番曖昧で。
一番、怖い。
⸻
レジ。
綾の番。
世古が前に立つ。
いつも通りの距離。
それなのに。
後ろに、あの女性の気配がある。
逃げられない。
「いらっしゃいませ」
声が出る。
少しだけ、乾いている。
自分でも分かる。
「袋、いりません」
同じやり取り。
でも。
空気が違う。
綾は、商品をスキャンする。
ピッ。
ピッ。
音が、揃わない。
女性の視線が、刺さる。
正面じゃない。
でも。
外してもいない。
“見ている”。
そういう視線。
綾は、口を開く。
考えていない。
でも、止めない。
「……今日は」
一拍。
それでも、続ける。
「お時間あるんですね」
言ってしまう。
静かに。
でも、はっきりと。
世古が、わずかに視線を動かす。
綾を見る。
その一瞬。
空気が止まる。
女性も、綾を見る。
初めて、正面から。
綾は、視線を落とさない。
逃げない。
世古は、短く答える。
「あります」
それだけ。
綾は、小さく頷く。
「……そうですか」
それ以上は言わない。
言えない。
でも。
それで終わりにはしない。
商品を渡す。
指先が触れる。
今度は。
ほんの少しだけ、長い。
一瞬だけ。
それだけ。
それでも。
はっきり分かる。
“離したくない”と思った自分がいた。
すぐに離す。
世古は、何も言わない。
でも。
ほんのわずかに、手が残る。
⸻
会計が終わる。
世古が、横に動く。
女性と並ぶ。
完全に、同じ側。
綾の視界に入る位置。
逃げられない。
女性が、綾に向かって軽く会釈する。
丁寧。
でも。
距離は崩さない。
「いつもお世話になってます」
にこやかに言う。
綾は、少しだけ遅れて返す。
「いえ……」
短く。
それだけ。
女性は、少しだけ笑う。
「先生、人気ですよね」
さらっと言う。
世古に向けて。
でも。
綾にも聞こえるように。
世古は、何も言わない。
その沈黙が、また重い。
女性が、少しだけ声を落とす。
「私、結構本気なんで」
軽く言う。
冗談みたいに。
でも。
冗談じゃない。
綾の中で、何かが強く反応する。
はっきりと。
今までで一番。
女性は、すぐに元の表情に戻る。
「じゃあ、行きましょうか」
世古に向かって言う。
世古は、一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
それから。
「……はい」
短く答える。
二人が、店を出る。
並んで。
同じ距離で。
自動ドアが開く。
光が入る。
その中に、消えていく。
⸻
綾は、動けなかった。
レジの前。
そのまま。
時間が、少しだけ遅れる。
胸の奥が、はっきりと重い。
さっきの言葉。
“本気”。
頭の中で、繰り返される。
逃げられない。
もう。
分かってしまった。
――嫌だった。
はっきりと。
言葉にできるくらい。
はっきりと。
綾は、ゆっくり息を吐く。
誤魔化せない。
もう。
これは。
違う。
ただの“気になる”じゃない。
ただの“安心”でもない。
もっと、はっきりしている。
それでも。
まだ、言葉にはしない。
したら、終わる気がするから。
でも。
もう、戻れない。




