第56話綾は見たくない⑤
近すぎる距離
昼。
ドラッグストアは、少し落ち着いていた。
混みすぎでもなく、静かすぎでもない。
ちょうどいい時間。
綾は、レジに立っている。
いつも通り。
そう思っている。
実際も、そう見えている。
――はずだった。
「ねえ」
背後から、声。
振り返ると、同僚の女性が立っている。
少しだけ笑っている。
「最近さ」
そこで、少し間を置く。
「副校長先生と、距離近くない?」
綾は、一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
それから、何事もなかったように商品を整える。
「……そうですか?」
「そうだよ」
即答。
迷いがない。
「前は、もっと普通だったじゃん」
“普通”という言葉が、引っかかる。
綾は、何も言わない。
女性は、楽しそうに続ける。
「最近、ちょっと違うよ」
「話す感じとか」
「目線とか」
綾は、視線を落とす。
思い当たる。
でも。
認めたくはない。
「別に」
短く返す。
女性は、少しだけ笑う。
「まあ、いいけどさ」
その“いいけど”が、よくない。
分かっている。
⸻
自動ドアが開く。
音がする。
綾は、顔を上げる。
世古がいる。
いつも通り。
でも。
綾の中では、もう“いつも通り”ではない。
それでも。
変わらないように見せる。
それが、今できること。
世古がレジに来る。
「いらっしゃいませ」
声を出す。
少しだけ柔らかい。
無意識だった。
「袋、いりません」
同じやり取り。
綾は、頷く。
商品をスキャンする。
ピッ、という音。
その中で。
自然に、言葉が出る。
「この間の、あれ」
言ってから、自分で少しだけ驚く。
何の前置きもない。
それでも。
世古は、すぐに拾う。
「何ですか」
「……一緒にいた人」
綾は、視線を落としたまま言う。
問い詰めるつもりはない。
ただ。
気になっただけ。
そのまま出た。
世古は、短く答える。
「学校の人です」
それだけ。
綾は、小さく頷く。
「そうですよね」
それ以上、聞かない。
聞く理由がないから。
でも。
それで、十分だった。
そのやり取りを。
少し離れた場所で、同僚が見ていた。
何も言わない。
でも。
目だけが、笑っている。
⸻
会計が終わる。
商品を渡す。
指先が、少しだけ触れる。
綾は、引かない。
一瞬だけ。
そのまま。
それから、離す。
世古は、何も言わない。
それでも。
ほんのわずかに、視線が残る。
綾の手に。
それだけ。
それ以上は、ない。
「ありがとうございました」
綾が言う。
世古は、軽く頷く。
そのまま、店を出る。
⸻
「……ねえ」
すぐに声が飛ぶ。
さっきの同僚。
綾は、振り返らない。
分かっているから。
「今の、なに?」
楽しそうな声。
隠していない。
「普通ですけど」
綾は、淡々と返す。
「普通じゃないって」
即否定。
「会話の入り方」
「距離」
「空気」
一つずつ並べる。
逃げ場がない。
綾は、少しだけ眉を寄せる。
「そんなに違います?」
「違う」
即答。
強い。
「あとさ」
女性は、少し声を落とす。
「向こうも見てるよね」
綾の手が、止まる。
ほんの一瞬。
それだけ。
すぐに動かす。
「……気のせいじゃないですか」
そう言う。
でも。
自分でも分かっている。
気のせいじゃない。
ほんの少しだけ。
確かに、違う。
女性は、少しだけ笑う。
「まあ、いいけど」
また、それ。
「でもさ」
一歩だけ近づく。
「取られるよ?」
軽く言う。
冗談みたいに。
それなのに。
綾の中で、言葉が重く落ちる。
――取られる。
誰に。
何を。
綾は、何も言わない。
言えない。
ただ。
その言葉だけが、残る。
⸻
レジに戻る。
次の客が来る。
「いらっしゃいませ」
声は、いつも通り。
でも。
胸の奥は、少しだけ違う。
自分では、まだはっきりしない。
でも。
周りは、もう気づいている。
そのズレが。
少しだけ、怖かった。




