特別編 世古がやたらとモテる件①
朝。
ドラッグストアは、いつものように開いていた。
レジの音。
品出しの音。
店内放送。
何も変わらないはずの日常。
それなのに、その日は朝から少しだけ落ち着かなかった。
「ねえ平泉さん」
休憩に入る前、パートの女性がレジ横で声を潜めた。
「副校長先生って、独身?」
綾は、手を止めかけて、止めなかった。
「……さあ」
短く返す。
知らないわけじゃない。
でも、簡単に答えたくはなかった。
女性はそれに気づかないまま、少し楽しそうに続ける。
「ほら、あの北山学園の。たまに来るじゃない?」
たまに、ではない。
綾の中では、ちゃんと“来る人”だった。
「うちのママ友の間でも、すごい評判いいのよ。落ち着いてるし、ちゃんとしてるし、顔も悪くないし」
悪くない、では済まないだろうと、綾は思った。
思ってから、自分で少しだけ嫌になる。
「シングルの人たち、けっこう狙ってるらしいよ」
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけざわつく。
ざわついた、という事実だけが先にあって、気持ちの名前はまだついていなかった。
綾は、商品のバーコードを読み取る。
ピッ、という音が響く。
「……そうなんですね」
それだけ言う。
女性はうんうんと頷いて、さらに余計なことを付け足した。
「でも分かるのよねえ。ああいう人って、なんか放っておけないし」
綾は、何も言わなかった。
放っておけない。
その言葉だけが、少し遅れて心に残った。
⸻
昼過ぎ。
北山学園の前を通った帰りらしい保護者たちが、店内で立ち話をしていた。
聞くつもりはなかった。
でも、耳に入る。
「副校長先生、今日もすごく丁寧でさ」
「うちの子、あの先生のこと大好きなんだよね」
「若い先生たちにも人気あるらしいよ」
「教育実習で来た子が、そのまま先生目指したって聞いた」
綾は、品出しの手を止めない。
洗剤を並べる。
シャンプーを揃える。
値札を見直す。
手は動く。
でも、頭の中では、別の言葉が引っかかっていた。
若い先生たちにも人気。
教育実習生。
そのまま教師になって迫る。
“迫る”なんて、冗談みたいな言い方を誰かがした。
周囲は笑っていた。
綾は笑えなかった。
副校長という立場。
落ち着いた話し方。
無駄のない動き。
少し疲れていて、それでも崩れないところ。
好かれる理由なんて、考えるまでもなかった。
むしろ、好かれない方がおかしい。
そこまで考えて、綾は小さく息を吐いた。
自分は、何をしているんだろうと思う。
別に付き合っているわけでもない。
何か約束があるわけでもない。
誰かを責める立場でもない。
それなのに。
胸の奥に、小さな棘みたいなものが残る。
痛いほどじゃない。
でも、無視はできない。
⸻
夕方。
自動ドアが開く。
その音で、綾は顔を上げた。
世古が入ってくる。
いつも通りの歩き方。
いつも通りの静かな目。
何も知らないみたいな顔で、棚の間を歩く。
綾は少しだけ可笑しくなった。
この人は、自分がどう見られているか、たぶん本気で分かっていない。
分かっていて利用する人ではない。
むしろ、分かっていたら少し面倒そうにするだろう。
だから余計に、たちが悪い。
世古がレジに来る。
「いらっしゃいませ」
「袋、いりません」
いつものやり取り。
それだけなのに、今日は少しだけ違う。
綾は商品をスキャンしながら、何気ないふりで言った。
「……学校で、人気なんですね」
世古の手が、ほんの少しだけ止まる。
「何がですか」
本気で分かっていない声だった。
綾は、少しだけ視線を上げる。
「保護者の方とか、先生とか」
そこまで言って、自分で少しだけ言いすぎたと思った。
でも、もう遅い。
世古は綾を見る。
ほんの一瞬だけ、間があった。
「別に」
短く答える。
綾は思わず言う。
「別に、じゃないと思いますけど」
言ってから、レジの画面に視線を落とす。
少しだけ、頬が熱い。
世古は何も言わなかった。
否定も、肯定もしない。
その沈黙が少し悔しくて、綾は続ける。
「話、よく聞きます」
「……そうですか」
また、それだけ。
本当にたちが悪い、と綾は思った。
これで少し笑ったり、困ったり、冗談っぽく返してくれたら、もっと楽なのに。
この人はそういうことをしない。
商品を渡す。
指先が、ほんの少しだけ触れる。
綾はその瞬間、なぜか少し腹が立った。
世古は静かに商品を受け取る。
それから、珍しく先に口を開いた。
「平泉さん」
「……はい」
「焦ってるんですか」
あまりにも静かな声で言うから、綾は一瞬意味が分からなかった。
顔を上げる。
世古は、いつもの表情のままだった。
からかわれているわけではない。
試されているわけでもない。
ただ、本当にそう見えたから言った。そんな顔。
綾は何も言えない。
焦っている。
その言葉が胸に落ちる。
嫉妬、と呼ぶほど醜くはないと思っていた。
でも、安心しているわけでもなかった。
誰かに取られる、とまでは思っていない。
ただ、このまま自分が何もしないうちに、どこか遠くへ行ってしまうような気がしていた。
それが、焦りだったのだと、今になって分かる。
「……そうかもしれません」
小さく答える。
世古はそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのかどうかは分からない。
でも、少しだけ空気が柔らかくなった。
「そうですか」
また、それだけ。
綾は、少しだけ睨むみたいに見る。
「そこで終わるんですか」
「何を言えばいいんですか」
真面目に返されて、綾はとうとう小さく笑ってしまう。
本当に、この人はずるい。
モテるくせに、そういうところだけ不器用で、変に真面目で、少し天然だ。
だから困る。
だから、目が離せない。
「……別に、いいです」
綾はそう言って、レシートを渡す。
世古は商品を持つ。
「じゃあ」
「はい」
自動ドアが開く。
外の光が少しだけ差し込む。
世古は振り返らずに出ていく。
綾はその背中を見る。
そして、今までより少しだけはっきり思う。
まだ“ヤキモチ”とまでは言いたくない。
でも、たぶん、その手前にはもう立っている。
次の客が来る。
綾は顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
声はいつも通りだった。
でも、胸の奥では、何かが少しだけ先へ進んでいた。




