第42話最初に信じたもの
家は広く、静かだった。
広すぎる廊下。磨かれた床。無駄に大きい窓。整いすぎた応接間。どこを見ても、きちんとしている。父は誰もが一度は耳にしたことのある程度には知られた会社の代表をしている。自然、住まう家は、不自由とは無縁だった。勉強する環境も、食事も、服も、進学の道も、最初から用意されている。
何も困らなかった。
ただ、父だけが、いなかった。
正確に言えば、存在はしていた。たまに帰ってくる。スーツのまま。電話をしながら。食卓に座っても、どこか別の場所にいるような顔で。
「学校はどうだ」
「成績は」
「問題ないな」
その言葉は、会話というより確認事項だった。
愛されていないとは思わなかった。だが、触れられていないとは、ずっと思っていた。
だから清水は、待つことをやめた。説明も、理解も、自分で取りにいくものだと覚えた。分からないことは、自分で調べる。誰かが教えてくれるのを待っていたら、何も始まらないと、幼い頃から知っていた。
そんなある日、父の書斎の扉が少しだけ開いていた。
普段は入るなと言われていた部屋だった。だが、そのときは誰もいなかった。並んだ本棚の中に、異様に重く、硬く、それでいて妙に目を引く本があった。
六法全書。
清水は小さな手でそれを机に引きずるように置き、ページをめくった。もちろん、最初は何も分からない。言葉は難しい。文章は堅い。半分も理解できない。
それでも、ページの端に線が引かれていた。父の字らしい書き込みもある。その隣には、法律の解説書が何冊も並んでいた。清水はそれを開き、少しずつ意味を辿っていった。
誰かが誰かを殴った。騙した。奪った。けれど、それをそのままにしないために、言葉がある。ルールがある。守るための線がある。
その瞬間、清水は胸の奥が熱くなるのを感じた。
本は、ただの紙じゃない。ここには“守ろうとした跡”がある。
世界は冷たいかもしれない。大人は忙しくて、自分を見ないかもしれない。でも、この本の中には、ちゃんと「守る意思」が残っている。
その日、清水は決めた。
弁護士になる。
言葉で、守れる側に行く。
その決意はまだ幼くて、青くて、けれど本物だった。




