表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/177

第37話 まだ、ここにいる

静かだった。



さっきまでの音が、嘘みたいに消えている。



叫びも。



足音も。



全部。



最初からなかったみたいに。



機械の音だけが、規則的に続く。



一定のリズム。



同じ間隔。



同じ音。



それが。



かろうじて現実を繋ぎ止めている。



切れそうなものを、


細い糸で結び続けているみたいに。



私は、椅子に座っている。



気づけば、そこにいた。



いつ座ったのか、覚えていない。



立っていたはずなのに。



歩いていたはずなのに。



全部、抜けている。



ただ。



ここにいる。



それだけが、確かだった。



目の前。



ベッド。



白いシーツ。



その上に、あの人。



動かない。



何も変わらないように見える。



それでも。



さっきとは、違う。



ほんのわずかに。



胸が、上下している。



小さい。



ほとんど分からないくらい。



それでも。



確かに、動いている。



それだけで。



十分だった。



十分すぎた。



私は、手を握る。



少し冷たい。



指先が、かすかに硬い。



温度が戻りきっていない。



それでも。



“ある”。



ここにある。



消えていない。



「……戻ってきたんですね」



声が出る。



小さい。



震えている。



喉の奥が、うまく開かない。



それでも。



届いてほしいと思う。



届かなくてもいいから、


出さないといけない気がした。



返事はない。



当然だと思う。



そういう状態だと、頭では分かっている。



それでも。



“聞いている気がする”。



そんな距離にいる。



だから。



離せなかった。



手を、離せなかった。



「……ごめんなさい」



ぽつりと落ちる。



静かな音。



それなのに。



自分の中では、大きく響く。



「ひどいこと、言いました」



言葉にする。



形にする。



逃げないために。



自分で、自分に刺すみたいに。



遅すぎる。



分かっている。



それでも。



今しか、言えない気がした。



「ありがとうも、言ってない」



喉が詰まる。



空気が引っかかる。



それでも。



押し出す。



「ずっと……」



言葉が止まる。



見つからない。



うまく並ばない。



それでも。



「見てました」



それだけ、やっと出る。



レジの前。



同じやり取り。



同じ時間。



同じ距離。



その全部。



私は、覚えている。



忘れていない。



「……来るの、待ってました」



小さく言う。



本当は、もっと前から言えたはずの言葉。



でも。



ずっと言わなかった言葉。



今になって、やっと出る。



遅い。



それでも。



今は、ここにある。



「好きでした」



静かに落ちる。



強くもなく。



弱くもなく。



ただ、まっすぐに。



逃げない形で。



そこに置かれる。



涙が、また落ちる。



止まらない。



でも。



さっきとは違う。



壊れてはいない。



崩れてはいない。



ただ。



揺れている。



ちゃんと立ったまま。



揺れている。



そのとき。



ほんのわずかに。



指が動いた気がした。



錯覚かもしれない。



そう思う。



でも。



息が止まる。



時間が止まる。



もう一度、見る。



何も変わらない。



表情も。



呼吸も。



機械の音も。



それでも。



“何かが違う”。



そう思ってしまう。



それが、怖い。



希望に似ているから。



私は、手を握ったまま離さない。



力を込める。



少しだけ。



確かめるみたいに。



ここにいる。



まだ、いる。



消えていない。



それを、手で覚える。



離したら。



途切れてしまいそうで。



怖かった。



だから。



そのまま、そこにいる。



動かない。



動けない。



時間が、ゆっくりと戻ってくる。



音も。



空気も。



現実も。



少しずつ。



形を取り戻していく。



それでも。



まだ、完全には戻っていない。



生と死のあいだみたいな場所。



その境界に、私はいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ