第37話 まだ、ここにいる
静かだった。
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さっきまでの音が、嘘みたいに消えている。
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叫びも。
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足音も。
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全部。
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最初からなかったみたいに。
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機械の音だけが、規則的に続く。
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一定のリズム。
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同じ間隔。
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同じ音。
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それが。
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かろうじて現実を繋ぎ止めている。
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切れそうなものを、
細い糸で結び続けているみたいに。
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私は、椅子に座っている。
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気づけば、そこにいた。
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いつ座ったのか、覚えていない。
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立っていたはずなのに。
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歩いていたはずなのに。
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全部、抜けている。
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ただ。
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ここにいる。
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それだけが、確かだった。
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目の前。
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ベッド。
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白いシーツ。
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その上に、あの人。
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動かない。
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何も変わらないように見える。
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それでも。
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さっきとは、違う。
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ほんのわずかに。
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胸が、上下している。
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小さい。
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ほとんど分からないくらい。
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それでも。
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確かに、動いている。
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それだけで。
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十分だった。
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十分すぎた。
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私は、手を握る。
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少し冷たい。
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指先が、かすかに硬い。
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温度が戻りきっていない。
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それでも。
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“ある”。
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ここにある。
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消えていない。
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「……戻ってきたんですね」
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声が出る。
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小さい。
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震えている。
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喉の奥が、うまく開かない。
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それでも。
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届いてほしいと思う。
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届かなくてもいいから、
出さないといけない気がした。
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返事はない。
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当然だと思う。
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そういう状態だと、頭では分かっている。
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それでも。
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“聞いている気がする”。
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そんな距離にいる。
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だから。
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離せなかった。
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手を、離せなかった。
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「……ごめんなさい」
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ぽつりと落ちる。
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静かな音。
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それなのに。
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自分の中では、大きく響く。
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「ひどいこと、言いました」
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言葉にする。
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形にする。
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逃げないために。
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自分で、自分に刺すみたいに。
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遅すぎる。
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分かっている。
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それでも。
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今しか、言えない気がした。
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「ありがとうも、言ってない」
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喉が詰まる。
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空気が引っかかる。
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それでも。
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押し出す。
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「ずっと……」
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言葉が止まる。
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見つからない。
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うまく並ばない。
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それでも。
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「見てました」
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それだけ、やっと出る。
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レジの前。
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同じやり取り。
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同じ時間。
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同じ距離。
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その全部。
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私は、覚えている。
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忘れていない。
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「……来るの、待ってました」
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小さく言う。
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本当は、もっと前から言えたはずの言葉。
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でも。
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ずっと言わなかった言葉。
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今になって、やっと出る。
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遅い。
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それでも。
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今は、ここにある。
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「好きでした」
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静かに落ちる。
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強くもなく。
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弱くもなく。
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ただ、まっすぐに。
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逃げない形で。
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そこに置かれる。
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涙が、また落ちる。
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止まらない。
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でも。
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さっきとは違う。
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壊れてはいない。
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崩れてはいない。
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ただ。
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揺れている。
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ちゃんと立ったまま。
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揺れている。
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そのとき。
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ほんのわずかに。
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指が動いた気がした。
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錯覚かもしれない。
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そう思う。
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でも。
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息が止まる。
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時間が止まる。
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もう一度、見る。
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何も変わらない。
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表情も。
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呼吸も。
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機械の音も。
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それでも。
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“何かが違う”。
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そう思ってしまう。
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それが、怖い。
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希望に似ているから。
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私は、手を握ったまま離さない。
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力を込める。
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少しだけ。
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確かめるみたいに。
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ここにいる。
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まだ、いる。
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消えていない。
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それを、手で覚える。
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離したら。
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途切れてしまいそうで。
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怖かった。
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だから。
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そのまま、そこにいる。
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動かない。
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動けない。
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時間が、ゆっくりと戻ってくる。
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音も。
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空気も。
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現実も。
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少しずつ。
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形を取り戻していく。
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それでも。
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まだ、完全には戻っていない。
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生と死のあいだみたいな場所。
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その境界に、私はいた。




