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第36話 否定と肯定

「……時間です」



誰かが言う。



静かな声。



それでも。



重い。



線を引く声。



終わらせるための言葉。



井上は、手を止めない。



聞こえている。



理解している。



それでも。



止めない。



止められない。



「もう一度」



短く言う。



誰かが動く。



機械が動く。



音が鳴る。



電気が流れる。



体が、跳ねる。



反応はない。



何も返ってこない。



空白だけが残る。



「……もう一度」



同じ言葉。



同じ手順。



同じ結果。



誰かが、視線を落とす。



分かっている。



ここまでだと。



医学は、そう言っている。



時間は、過ぎている。



限界は、越えている。



それでも。



井上は、止めない。



「まだだ」



小さく言う。



その声は、低い。



押し殺している。



それでも。



震えている。



ほんのわずかに。



「……まだだ」



もう一度。



今度は、少しだけ強く。



理由はない。



理屈もない。



データも、後押ししない。



ただ。



諦めたくない。



それだけ。



それだけで、動いている。



時間が、伸びる。



長すぎる。



一時間。



医学としては、終わっている時間。



それでも。



終わらせない。



“終わらせたくない”。



それだけで、続けている。




――その頃。



白い空間。



何もない場所。



境界もない。



終わりもない。



世古は、立っている。



動かない。



何も選ばない。



何も起きない。



それでも。



ほんのわずかに、違和感がある。



静寂に、綻びがある。



遠くで。



何かが揺れている。



音ではない。



形もない。



それでも。



確かに、ある。



「……なんだ」



小さく呟く。



分からない。



ここには、意味がないはずなのに。



それでも。



消えない。



消えないものが、ある。



綾の声。



届いていない。



はずなのに。



残っている。



「戻って……」



その言葉だけが、残る。



削れない。



消せない。



この場所に似合わない重さ。



世古は、視線を落とす。



考える。



選ぶ必要はない。



終わっているから。



ここでは、何も選ばない。



それが、正しい。



それなのに。



ほんの一瞬。



迷いが生まれる。



“選ばなかったもの”。



それが、残っている。



「……面倒だな」



小さく呟く。



いつもと同じ言葉。



軽いはずの言葉。



それなのに。



少しだけ、重い。



「……仕方ねぇな」



続ける。



誰に向けたものでもない。



理由もない。



ただ。



そこに残っているものに、


応えるだけ。



それだけで。



十分だった。



一歩、踏み出す。



白が、揺れる。



音はない。



それでも。



世界が、わずかに軋む。




――現実。



音が変わる。



ほんのわずかに。



機械が、反応する。



規則じゃない。



ノイズでもない。



違う動き。



「……待て」



誰かが言う。



井上が、顔を上げる。



数値が、動く。



微かに。



ほんの、わずかに。



ゼロじゃない。



それだけで、十分だった。



「……もう一度!」



声が変わる。



抑えきれない。



命令になる。



祈りじゃない。



叩き込む声。



周囲が動く。



一斉に。



流れが戻る。



止まっていた時間が、動き出す。



心臓が、動く。



弱い。



不完全。



それでも。



確かに。



“戻る”。



井上は、息を吐く。



長く。



深く。



押し込めていたものを、


全部吐き出すみたいに。



「……戻った」



小さく言う。



その声は。



医者のものじゃなかった。



判断でもない。



記録でもない。



ただの。



“人の言葉”だった。



そして。



ほんの一瞬だけ。



誰にも見えないところで。



目を閉じる。



安堵でもない。



達成でもない。



“間に合った”という感覚だけが、


そこに残る。


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