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第35話 戻って

「戻って……!」


⸻


声が、出た。


⸻


自分のものか分からない。


⸻


喉の奥から、勝手に出てくる。


⸻


止め方が分からない。


⸻


「お願い……!」


⸻


空気を吸う。


⸻


うまく入らない。


⸻


浅い。


⸻


苦しい。


⸻


それでも。


⸻


止まらない。


⸻


視界が滲む。


⸻


光が揺れる。


⸻


何が見えているのか分からない。


⸻


それでも。


⸻


あの人が、そこにいる。


⸻


動かないまま。


⸻


変わらないまま。


⸻


さっきまでと、同じはずなのに。


⸻


「嫌だ……!」


⸻


足がもつれる。


⸻


床の感覚が遠い。


⸻


それでも、前に出る。


⸻


止められる。


⸻


腕を掴まれる。


⸻


強い。


⸻


現実の力。


⸻


それでも。


⸻


振りほどく。


⸻


「離して……!」


⸻


声が、壊れる。


⸻


音にならない。


⸻


形を保てない。


⸻


もう、整っていない。


⸻


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!」


⸻


同じ言葉が、繰り返される。


⸻


意味なんてない。


⸻


意味を持つ余裕がない。


⸻


ただ、出てくる。


⸻


止められない。


⸻


「ありがとうって……!」


⸻


言葉が、引っかかる。


⸻


喉の途中で止まる。


⸻


出ない。


⸻


それでも。


⸻


無理やり押し出す。


⸻


「言ってない……!」


⸻


涙が落ちる。


⸻


一滴じゃない。


⸻


止まらない。


⸻


視界が崩れる。


⸻


「ごめんなさいも……!」


⸻


息が切れる。


⸻


言葉が続かない。


⸻


それでも。


⸻


言わないといけない気がする。


⸻


「ひどいこと言った……!」


⸻


全部、分かる。


⸻


今になって。


⸻


遅れて。


⸻


一気に。


⸻


「ちゃんと見てたのに……!」


⸻


レジの前。


⸻


あの人の声。


⸻


袋いりません。


⸻


同じ言葉。


⸻


同じ距離。


⸻


同じ時間。


⸻


全部。


⸻


覚えている。


⸻


なのに。


⸻


「なんで……!」


⸻


何も言えなかった。


⸻


何も伝えなかった。


⸻


あのとき。


⸻


あの一瞬で。


⸻


全部、終わっていたのに。


⸻


「待ってたのに……!」


⸻


毎日。


⸻


同じ時間。


⸻


同じ場所。


⸻


自分でも気づかないまま。


⸻


体だけが、覚えていた。


⸻


「来るの、待ってたのに……!」


⸻


言葉にした瞬間。


⸻


分かる。


⸻


ああ、そうだったんだって。


⸻


でも。


⸻


遅い。


⸻


全部。


⸻


遅すぎる。


⸻


「好きだったのに……!」


⸻


その言葉が、落ちる。


⸻


音が消える。


⸻


一瞬だけ。


⸻


世界が止まる。


⸻


自分でも、驚く。


⸻


それでも。


⸻


否定できない。


⸻


ずっと。


⸻


少しずつ。


⸻


気づかないまま。


⸻


積み重なっていた。


⸻


それが、今。


⸻


一気に崩れる。


⸻


崩れて、溢れる。


⸻


止められない。


⸻


「だから……」


⸻


息ができない。


⸻


肺が、うまく動かない。


⸻


それでも。


⸻


言わないと。


⸻


消えてしまう気がする。


⸻


「戻って……」


⸻


小さくなる。


⸻


声が、細くなる。


⸻


それでも。


⸻


「お願い……戻って……」


⸻


繰り返す。


⸻


何度も。


⸻


同じ言葉を。


⸻


届かない。


⸻


分かっている。


⸻


それでも。


⸻


やめられない。


⸻


⸻


いつの間にか。


⸻


外に出されていた。


⸻


足が、地面についている感覚がない。


⸻


時間も、分からない。


⸻


数秒。


⸻


数分。


⸻


それとも。


⸻


もっと長い何か。


⸻


ただ一つだけ、分かる。


⸻


まだ、終わっていない。


⸻


終わってほしくない。


⸻


それだけ。


⸻


⸻


廊下。


⸻


白い光。


⸻


現実が、歪んでいる。


⸻


そこに。


⸻


谷河がいた。


⸻


煤だらけ。


⸻


黒い。


⸻


それでも。


⸻


立っている。


⸻


生きている。


⸻


その事実が、逆に重い。


⸻


谷河は、静かに言った。


⸻


「……あいつさ」


⸻


声が低い。


⸻


抑えている。


⸻


無理やり、均している。


⸻


「君のこと、気に入ってたよ」


⸻


私は、顔を上げる。


⸻


反応が遅れる。


⸻


言葉が、入ってこない。


⸻


「元気だからって」


⸻


「まっすぐだからって」


⸻


谷河は、少しだけ笑う。


⸻


いつもの笑い方。


⸻


でも今日は。


⸻


崩れている。


⸻


端が、保てていない。


⸻


「毎日さ」


⸻


「来る時間、だいたい決まってたでしょ」


⸻


私は、何も言えない。


⸻


言葉が、意味を持たない。


⸻


「待ってたよ」


⸻


その一言で。


⸻


音が消える。


⸻


呼吸が止まる。


⸻


「仕事、いろいろあったから」


⸻


「……結構、しんどかったみたい」


⸻


心臓が、強く打つ。


⸻


痛い。


⸻


はっきりと。


⸻


「でもさ」


⸻


谷河は、視線を落とす。


⸻


逃げない。


⸻


でも、見ない。


⸻


「君の接客だけは、ちゃんと見てた」


⸻


「元気もらってたって言ってたよ」


⸻


崩れる。


⸻


内側から。


⸻


音もなく。


⸻


一気に。


⸻


「奥さんと子ども、亡くしてるし」


⸻


「仕事でも、結構やられてたから」


⸻


「……ああいうの、支えになるんだよね」


⸻


私は、立っていられなかった。


⸻


膝が落ちる。


⸻


支えがない。


⸻


どこにも。


⸻


「……遅いよ」


⸻


小さく、こぼれる。


⸻


誰に向けたかも分からない。


⸻


それでも。


⸻


止まらない。


⸻


「遅いよ……」


⸻


もう一度。


⸻


同じ言葉を。


⸻


握りしめるみたいに。


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