第34話 何も選ばない場所
静かだった。
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音がない。
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匂いもない。
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温度もない。
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ただ、白い。
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どこまでも、白い空間。
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境界もない。
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終わりもない。
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その中に、立っている。
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世古。
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目の前に、自分がいる。
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横たわっている。
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動かない体。
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少しだけ、焦げた匂いが残っている気がする。
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それでも。
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ここには届かない。
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現実だけが、遠い。
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「……ああ」
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小さく息を吐く。
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苦しくはない。
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痛くもない。
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重さもない。
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ただ、少しだけ。
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疲れている。
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それだけだった。
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自分を見下ろす。
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冷静に。
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驚きもない。
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焦りもない。
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「ああ、そうだな」
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そう思う。
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終わり。
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それだけ。
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やることは、やった。
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選ぶべきものは、選んだ。
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後悔は、ない。
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少なくとも。
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ここでは、そう思える。
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“思えてしまう”。
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視線が、遠くに向く。
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白の中に、何かが浮かぶ。
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人影。
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二つ。
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近づいてくる。
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妻。
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子ども。
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その姿が、はっきりする。
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変わらない。
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あの日のまま。
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時間が止まったままの姿。
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「……遅くなったな」
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小さく言う。
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声は、よく通る。
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二人は、何も言わない。
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ただ、そこにいる。
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それで十分だった。
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言葉がなくても、
成立している。
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「まあ、頑張ったよ」
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軽く言う。
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評価を求めているわけじゃない。
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ただ、事実として。
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やれることは、やった。
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それでいいと思う。
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思おうとしている。
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少しだけ、視線を落とす。
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そして。
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一瞬だけ、何かが引っかかる。
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小さな違和感。
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白の中に、
異物みたいに残っている。
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何か、残っている。
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思い出す。
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レジの前。
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声。
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少しだけ強い目。
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綾。
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「……あの子」
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小さく呟く。
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その言葉だけが、少しだけ重い。
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この場所に似合わない重さ。
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「大丈夫かな」
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それだけだった。
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それ以上は、ない。
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助けることも。
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何かをすることも。
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ここでは、できない。
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ただ。
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気になる。
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それだけ。
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それなのに。
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そこだけ、終わらない。
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少しだけ、息を吐く。
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「少し、疲れたな」
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そう思う。
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選ぶ必要は、もうない。
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ここには、何もないから。
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何も選ばなくていい場所。
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何も選べない場所。
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白い空間が、広がる。
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音もなく。
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意味もなく。
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ただ、そこにある。
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世古は、立ったまま動かない。
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どこにも行かない。
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どこへも行けない。
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ただ。
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何も選ばない場所にいる。
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それでも。
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ひとつだけ。
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選ばなかったものが、
残っている。




