第22話 ドナー
病室の空気は、変わらない。
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同じ音。
同じ匂い。
同じ時間。
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数日が過ぎても、ドナーは見つからなかった。
「……見つかっていません」
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井上の声は、いつも通り穏やかだった。
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その“いつも通り”が、少しだけ遠く感じる。
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綾は、何も言えなかった。
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期待していたわけじゃない。
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それでも。
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“まだか”と思ってしまう自分がいた。
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「……他に、方法はありますか」
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口にした瞬間、少しだけ後悔する。
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井上は、ほんのわずかに間を置く。
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「……あります」
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短い答え。
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「ただし」
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言葉が落ちる。
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「記録に残らない形になります」
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それだけ。
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具体的には言わない。
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でも。
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それで、十分だった。
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綾は、視線を落とす。
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知らない方がいい領域。
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それでも。
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知らないままでいられるかは、分からない。
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「……時間は」
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絞り出すように聞く。
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「少しはありますが」
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一拍。
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「無限ではありません」
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静かな現実。
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――その夜。
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「……兄貴」
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山下の声は、いつもより低かった。
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「裏は、ある」
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短い言葉。
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「ただな」
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少しだけ息を吐く。
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「足がつかねえとは言い切れねえ」
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その一言で、空気が変わる。
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「誰かが、後で困る可能性もある」
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具体的には言わない。
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でも。
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誰のことかは、分かる。
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世古は、何も言わない。
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選ばせない。
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ただ、聞いている。
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山下が、視線を落とす。
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「……だからよ」
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少しだけ、声が柔らかくなる。
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「できれば、表で見つけたい」
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同じ言葉。
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でも、祈りに近い。
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「兄貴の大事な人の親だろ」
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それだけ。
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そして。
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「……俺、検査受ける」
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世古が、わずかに動く。
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「お前がやる必要はない」
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初めての否定。
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山下が、少しだけ笑う。
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「必要かどうかじゃねえよ」
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短く返す。
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「やりてえかどうかだ」
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沈黙。
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それで、決まる。
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――数日後。
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「……適合しています」
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井上の声が、少しだけ低い。
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綾の思考が、一瞬止まる。
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「……誰が」
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「匿名を希望されています」
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理解より先に、感情が来る。
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助かる。
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そして。
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「……危険は」
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「あります」
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即答。
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誤魔化さない。
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それが、この人のやり方だった。
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――手術前。
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「……兄貴、終わったら美味いもん頼む」
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山下が言う。
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世古は、静かに見る。
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「ああ」
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短く、それだけ。
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それで終わる。
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別室。
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綾は、何も言えなかった。
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止める言葉はあったかもしれない。
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でも。
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それを言えば。
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母の命を、自分で遠ざける気がした。
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――手術は、成功した。
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それでも。
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何もなかったわけじゃない。
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数日後。
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井上に頼み込み、
ドナーへの面会が許された。
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山下の動きは、明らかに遅かった。
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無理に隠しているのが分かる。
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「……ありがとうございました。大丈夫ですか」
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思わず聞く。
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「問題ねえよ」
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短い答え。
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でも。
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息が、少し浅い。
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「母は大丈夫です……でも、あなたは」
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言いかける。
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山下は、少しだけ笑う。
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「無理してねえよ」
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それから、ぽつりと。
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「……ちょっと減っただけだ」
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綾は、その言葉の意味を考える。
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すぐには分からない。
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でも。
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分かりたくない気もした。
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――病室。
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母が、頭を下げる。
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「……ありがとうございます」
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山下は、困ったように笑う。
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「やめてくれ」
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「そういうの、慣れてねえ」
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それでも。
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母は、もう一度言う。
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「本当に、ありがとうございます」
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山下は、しばらく黙る。
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それから。
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「……なんかよ」
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少しだけ視線を逸らす。
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「写真でしか見たことねぇけど、俺の母ちゃんに似ててさ」
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影が差す。
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「……だから」
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言葉を探す。
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「親孝行っぽいこと、できた」
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笑う。
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でも。
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その笑顔は、少しだけ疲れていた。
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綾は、気づいてしまう。
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助かった命の裏に、
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確かに、減ったものがあることに。
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そして。
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あの人の影を感じる。
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それでも。
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誰も、それを口にしない。
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口にした瞬間、
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全部が変わってしまう気がした。
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だから。
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そのままにしておく。
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それが正しいのかは、分からない。
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ただ。
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口にしないことでしか、
守れないものがある気がした。




