第20話 差し出されるもの
手術の話は、現実としてそこにあった。
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三千万円。
ドナー。
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言葉にすれば、それだけ。
それでも、どちらも自分ではどうにもできないものだった。
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日常は、変わらず続いている。
レジに立つ。
同じ場所。
同じ動作。
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それでも、どこかだけずれている。
音は同じなのに、
意味だけが少しずつ変わっていく。
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母から連絡が来る。
『ねえ』
短いメッセージ。
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仕事の合間に、折り返す。
「もしもし」
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『あのね』
少しだけ、声が違う。
軽いわけじゃない。
でも。
隠していない声だった。
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「どうしたの」
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『ドナーの話、あったの』
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私は、何も言えなかった。
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『まだ決まったわけじゃないって』
母は、少しだけ早口になる。
『適合するか、これから調べるって』
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私は、壁にもたれたまま動けなかった。
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「……そんなに、すぐ?」
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『分からない』
少しだけ間がある。
『でも、話は来たの』
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その言葉が、静かに落ちる。
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通話が終わる。
スマートフォンを見たまま、しばらく動けない。
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――早すぎる。
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そう思う。
偶然として受け取るには、少しだけ揃いすぎている。
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それでも、現実としてそこにある。
拒めない形で。
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夜。
レジに立つ。
いつも通りの場所。
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それでも、何かが決定的に変わっている。
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自動ドアが開く音がする。
顔を上げる。
その人がいた。
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変わらないはずの姿。
それなのに、今日は少しだけ遠く感じる。
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「いらっしゃいませ」
「袋、いりません」
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商品をスキャンする。
ピッ、という音が響く。
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私は、視線を落としたまま言う。
「ドナー候補が出たみたいです」
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気づけば、言っていた。
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その人は、何も言わない。
それでも、聞いているのが分かる。
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「まだ検査中で、分からないけど」
言葉が、少しだけ震える。
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その人は、静かに言う。
「そうですか」
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それだけ。
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それなのに、それ以上言えなくなる。
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まるで。
もう知っている人に、報告しているみたいだった。
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私は、少しだけ迷う。
聞くべきか。
やめるべきか。
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分かっている。
それでも。
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「……なんで、こんなに」
そこまで言って、言葉が止まる。
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その人は、何も変えない。
それでも、ほんの一瞬だけ視線が落ちる。
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計るでもなく。
迷うでもなく。
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確認するように。
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すぐに戻る。
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「必要なことが、起きているだけです」
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静かな声だった。
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私は、何も言えなかった。
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必要なこと。
そう言われると、否定できない。
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でも、納得もできない。
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“必要”という言葉が、あまりにも整いすぎている。
まるで、最初からそこに置かれていたみたいに。
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会計を終える。
「ありがとうございました」
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その人は、軽く頷く。
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自動ドアが開く。
背中が遠ざかる。
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そのとき。
店の外に、ひとりの男が立っているのが見えた。
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暗がりの中。
背の高い影。
顔はよく見えない。
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それでも、分かる。
昼に来た男。
あの人と、同じ側の人。
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ほんの一瞬だけ、視線が合う。
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逸らされる前のその目に、
“待っている”色があった。
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すぐに逸らされる。
何もなかったみたいに。
そのまま、どこかへ消える。
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私は、その場に立ったまま動けなかった。
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――差し出されている。
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何が、とは言えない。
お金なのか。
選択肢なのか。
救いなのか。
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それとも。
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戻れない場所なのか。
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それでも。
何かが、確かに差し出されている。
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そして私はもう、
それに気づかないふりができなかった。




