第19話 選べるということ
病院。
父、母、自分。
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三人で、同じように座る。
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井上が、静かに話し始める。
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母の調子は、少しだけ変わっていた。
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良くなっている。
それは、確かだった。
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顔色も。
声も。
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ほんの少しだけ、軽くなっている。
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それでも。
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「手術が必要だと思います」
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井上は、静かに言った。
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診察室の空気が、わずかに止まる。
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母は、何も言わない。
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私は、言葉を探す。
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「……必要なんですか」
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ようやく、それだけ聞く。
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井上は、小さく頷く。
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「今の状態なら、間に合います」
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穏やかな声だった。
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押しつけるでもなく。
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それでも。
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“選ばなければならない”という前提が、そこにあった。
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井上は、ほんのわずかに間を置く。
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「手術は可能です」
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母が、小さく頷く。
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私は、息を止める。
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「ただ――」
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その一言で、空気が変わる。
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「手術を行わない場合、半年ほどとお考えください」
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静かに、言葉が落ちる。
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父の手が、わずかに震える。
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はっきりと分かる。
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「費用は、およそ三千万円です」
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続けて、井上は言う。
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「また、ドナーが必要になります。ご家族で適合検査をお願いします」
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私は、一瞬、何も理解できなかった。
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数字としては分かる。
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それでも。
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現実として、入ってこない。
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三千万円。
ドナー。
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テレビの中でしか聞いたことのない言葉が、
目の前に置かれる。
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母も、何も言わない。
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ただ、少しだけ視線を落とす。
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その仕草が、
“分かっている人のもの”だった。
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「……そうですか」
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自分の声が、少し遠く聞こえる。
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三千万円。
ドナー。
借金。
父。
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ばらばらだったものが、
ゆっくりと重なっていく。
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逃げ場が、なくなるみたいに。
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帰り道。
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父は、何も言わない。
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母は、少しだけ笑う。
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「すごい金額だね」
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軽く言う。
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軽く言おうとしているのが、分かる。
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その軽さが、
逆に重かった。
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私は、何も言えなかった。
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言葉にしたら、
何かが決まってしまいそうで。
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「怖いね」
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その一言が、やけに静かに響く。
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初めてだった。
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母が、“怖い”と言ったのを聞いたのは。
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夜。
HOPE。
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「……お金も」
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小さく、言葉が落ちる。
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「三千万円、って言われました」
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言ってしまってから、少しだけ後悔する。
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重すぎる。
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知らない人に、言うようなことじゃない。
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それでも。
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もう、自分の中に置いておけなかった。
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その人は、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
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ほんのわずかに、
何かを測るように。
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すぐに戻る。
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「そうですか」
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それだけ。
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驚かない。
動じない。
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そのことに、
私は、少しだけ怖くなる。
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――この人なら。
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その続きを、考えてしまう。
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どうにかできてしまうんじゃないか。
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この現実を、
別の形に変えてしまうんじゃないか。
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考えてしまったことが、怖い。
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頼ってしまいそうな自分が、
一番、怖かった。
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私は、視線を落とす。
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何も言わない。
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言ってしまえば、
戻れなくなる気がした。
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それでも。
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その人は、何も言わない。
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踏み込まない。
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ただ、そこにいる。
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それだけなのに。
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逃げ場みたいに感じてしまう。
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それが、
何より危うかった。




