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第2話 止まっているだけ

目覚ましが鳴る前に、目が覚める。


いつからか、その方が楽になっていた。


音に急かされるより、自分で起きた方が、まだましだと思う。


⸻


カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。

天気がいいのかどうかは、よく分からない。


顔を洗って、支度をする。

鏡に映る自分は、いつも通りだった。


――いつも通り。


それが、少しだけ引っかかる。


⸻


帰る時間は、だいたい同じだ。


夜。

少し遅い時間。


街はまだ明るいけど、家の灯りは落ち着いてくる頃。


綾は、いつもの道を歩いていた。


特別なことはない。

ただの帰り道。


それでも、少しだけ足取りは軽くない。


理由は分かっている。

分かっているけど、考えないようにしている。


⸻


家の前で、少しだけ立ち止まる。


深く息を吸う。

吐く。


それから、ドアを開ける。


⸻


「ただいま」


少しだけ間があって、


「……おかえり」


母の声が返ってくる。


弱いわけじゃない。

でも、前より少しだけ細い。


⸻


リビングに入ると、テレビがついている。

音は出ている。


でも、誰もちゃんと見ていない。


母はソファに座っている。

姿勢は崩れていない。


でも、どこか疲れている。


父はテーブルにいる。

書類を見ている。


数字。

ペンが止まっている。


考えているのか、止まっているのか、分からない。


⸻


綾は、何も言わない。


言う必要がないから。

言わない方がいいと分かっているから。


⸻


「ごはん、温めるね」


母が言う。


立ち上がろうとして、ほんの少しふらつく。


綾は、自然に手を出す。


「大丈夫」


母は笑う。


その笑い方を、綾は知っている。

本当は大丈夫じゃないときの笑い方だ。


⸻


「私やるよ」


短く言う。


それ以上は、続けない。


⸻


キッチンに立つ。

温める。

盛る。


音だけが、少し響く。


振り返らない。

見なくても分かるから。


⸻


食卓に並べる。


三人で座る。


会話は少ない。

ゼロじゃない。

でも、多くもない。


ちょうどいい距離。

壊れないための距離。


⸻


父が、ぽつりと言う。


「……なんとかする」


誰に向けたのか、分からない。

でも、意味は分かる。


綾は、何も言わない。


言えない。

責められない。

責めることなんて、できない。


分かっているから。全部。


⸻


食事が終わる。

片付ける。


いつも通り。

それで終わる。


⸻


自分の部屋に戻る。

ドアを閉める。


静かになる。

やっと、一人になる。


⸻


ベッドに座る。


少しだけ、力が抜ける。

そのまま天井を見る。


⸻


考えないようにしていたことが、少しだけ戻ってくる。


家のこと。

母のこと。

父のこと。


全部。


⸻


でも。


その中に、違うものが混ざる。


⸻


レジの前。

同じ時間。

同じやり取り。


「袋、いりません」


あの声。


静かで。

変わらなくて。

妙に、整っている。


⸻


何も特別じゃない。

それなのに、少しだけ引っかかる。


「……なんでだろ」


小さく呟く。


答えは出ない。

出るはずもない。


ただ、少しだけ気になる。

それだけ。


⸻


翌朝。


外の空気は、少しだけ冷たかった。

深く吸い込むと、胸の奥がわずかに痛む。


それでも、そのまま歩き出す。


同じ道を通って、同じ場所に向かう。


――変わらないはずの、いつもの日。


⸻


自動ドアが開く音がして、店内に入る。


聞き慣れているはずの音なのに、

一瞬だけ足が止まりそうになる。


――同じはずだ。


そう思って、そのまま歩く。


⸻


バックヤードで制服に着替える。

エプロンの紐を結ぶ手は、いつも通り動いている。


「おはよう」


先に入っていた同僚が、軽く手を上げた。


「おはようございます」


返事をする。

声も、たぶんいつも通りだった。


⸻


レジに立つ。

画面を起動して、釣り銭を確認する。


ひとつひとつの動作をなぞるように、準備を終える。


――変わらない。


そう思ったところで、

ほんのわずかに違和感が残る。


何が、とは言えない。


ただ、少しだけ“合っていない”気がする。


⸻


午前中は、いつも通りの忙しさだった。


商品をスキャンして、袋詰めをして、会計をする。

言葉も、動きも、決まった通りに進んでいく。


「袋、お願いします」

「はい」

「ポイントカード、ありますか」

「ないです」


同じやり取りが、何度も繰り返される。


⸻


――同じはずだ。


それなのに。


バーコードを読み取る音が、

ほんの少しだけ遠くに聞こえる瞬間があった。


ピッ、という音が、どこか別の場所で鳴っているみたいに。


私は、一瞬だけ手を止めて、すぐに動かした。


誰も気づいていない。

気づいているのは、自分だけだ。


⸻


「ちょっと、これ違うんだけど」


昼前、客の声が少しだけ強くなる。


レジの前に立っていたのは、中年の男性だった。


「すみません、どの点でしょうか」


レシートを受け取って、確認する。


たしかに、割引が適用されていない商品があった。


「申し訳ありません。すぐに返金対応いたします」


そう言いながら、手は自然に動いていた。


謝るタイミングも、言葉も、

考えなくても出てくる。


――ちゃんとできている。


そう思う。


⸻


それでも。


男性が去ったあと、

胸の奥に、少しだけ重さが残った。


怒鳴られたわけでもない。

理不尽でもない。


ただ、少しだけ疲れた。


理由は、よく分からない。


⸻


レジの前に、誰もいない時間ができる。


ほんの数秒。


その隙間に、ふと考える。


――このまま、何年も。


同じことを繰り返している気がする。


間違ってはいない。

困っているわけでもない。


それでも、どこかで止まっているような感覚がある。


進んでいるのかどうかも、分からないまま。


⸻


自動ドアが開く音がする。


反射みたいに顔を上げる。


――違う。


そう思ったのは、

誰も入ってきていなかったからじゃない。


入ってきたのは、ただの客だった。


それなのに、“違う”と、はっきり思った。


⸻


私は、そのままレジに立ち続ける。


何も変わっていないはずの場所で、

同じ動作を繰り返す。


それでも。


同じ場所に立っている気がしなかった。


⸻


自動ドアが開く音がする。


反射みたいに顔を上げる。


理由はない。


それでも、

そう思わなかった日は、一度もなかった。


⸻


入口に立っていたのは、ひとりの男だった。


見慣れているはずの距離なのに、

少しだけ遠く感じる。


その人は、店内に入るでもなく、

立ち止まったまま、こちらを見ていた。


整っているのに、どこか疲れている目。


――同じだ。


⸻


そう思った瞬間。


自動ドアが、もう一度開いた。


別の客が入ってくる。


その人の背中に隠れるようにして、

一瞬だけ視界が途切れる。


⸻


ほんの、数秒。


すぐに視線を戻す。


――いない。


⸻


さっきまでそこにいたはずの人が、どこにも見当たらなかった。


店内を見渡す。

棚の間にも、レジの前にも、それらしい姿はない。


それでも。


確かに、そこにいた。


⸻


私は、何も言わずに、レジに向き直る。


「いらっしゃいませ」


声は、いつも通りに出た。


それだけで、十分だと思った。


⸻


何も変わっていないはずの一日が、静かに終わっていく。


それでも。


ほんの少しだけ、確かに何かがズレている。


――止まっているだけだと思っていた。


⸻


でも。


違った。


⸻


止まっているんじゃない。


⸻


ほんの少しずつ。


気づかないくらいの速さで。


⸻


――ずれている。


⸻


そのことに、気づいてしまった。

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