第1話 同じはずの音
同じ時間、同じ場所で、同じことをしているはずなのに。
ふと、自分がどこに立っているのか分からなくなる瞬間がある。
レジの前。エプロンの感触。流れている店内放送。
ちゃんと分かるのに、全部が少しだけ遠い。
気のせいだと思えば、それで済むことは多い。
少なくとも、この場所では、それが一番楽だった。
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自動ドアが開く音は、毎日同じはずだった。
「いらっしゃいませ」と口に出す前に、私は一瞬だけ息を止める。
その人が来る日は、なぜかそれが分かる。
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「袋、いりません」
低い声だった。断りなのに、ひどく柔らかく聞こえる。
その人はそう言ってから、ほんの一瞬だけ商品に目を落とした。
まるで、それが本当に必要なものか、確かめるみたいに。
「ポイントカードはお持ちですか」
いつも通りの手順で、いつも通りに尋ねる。
「……持っていたことはあります」
私は、その言い方に、少しだけ手を止めた。
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レジの画面に表示された合計金額が、なぜか一瞬だけ遠く見える。
聞き返すほどでもないのに、なぜか流せなかった。
「……お作りしますか?」
口に出してから、それが少しだけ場違いな提案だった気がした。
その人は、ほんのわずかに視線を上げて、私を見る。
「いえ」
短く、それだけ。
その声は、どこかで一度聞いたことがある気がした。
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断られること自体は珍しくないのに、
なぜかその一言は、やけに静かに残った。
バーコードを読み取る音が、規則正しく響く。
ピッ、ピッ、と続くはずのリズムが、どこか一拍ずれている気がした。
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「……合計、千二百八十円です」
私は、いつも通りに告げる。
その人は、迷うことなく現金を差し出した。
指先が触れそうになって、触れなかった。
距離は、ほんの数センチのはずなのに。
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受け取った硬貨が、やけに冷たく感じる。
まるで、長く誰の手にも触れていなかったみたいに。
釣り銭を渡し、レシートを添える。
一連の動作は、いつもと同じはずだった。
それでも。
その人が店を出ていく瞬間を、
私はうまく思い出せない。
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会計を終えて顔を上げたとき、その人はもういなかった。
レシートを渡したはずなのに、その瞬間を、思い出せない。
自動ドアの閉まる音だけが、少し遅れて響いた。
「……ありがとうございました」
少し遅れて出た声が、誰にも届かずに床に落ちた。
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「すみません、これも一緒にいいですか?」
次の客の声で、私は顔を上げた。
かごに入っているのは、ペットボトルのお茶と、割引シールの貼られたおにぎり。
よく見る組み合わせだった。
「はい、大丈夫です」
バーコードを読み取る。
ピッ、という音が、今度は一定のリズムで続いた。
さっきと同じはずの動作が、妙に安心できる。
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「ポイントカード、あります?」
「ないです。あんまり来ないんで」
そう言って笑うその人に、私は軽く頷いた。
たしかに、初めて見る顔だった。
――ちゃんと、“初めて”だと分かる。
そのことに、なぜか少しだけほっとする。
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「合計、四百三十円です」
会計を終えて、商品を手渡す。
今度は、指先がかすかに触れた。
ただそれだけのことなのに、現実に戻ったような気がした。
「ありがとうございました」
自動ドアが開く。
閉まる。
いつも通りの音が、いつも通りの速さで響く。
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私は、レジの画面に視線を落とした。
店内放送が流れる。
少し遠くで、カゴの当たる音がする。
いつも通りの時間が、ゆっくりと進んでいく。
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そのとき。
――自動ドアが開いた。
反射みたいに顔を上げる。
「いらっしゃいま――」
言いかけて、止まる。
誰も、いなかった。
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風が入ったわけでもない。
外には、人の影も見えない。
それでも、自動ドアは確かに開いて、
何事もなかったみたいに閉まった。
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私は、少しだけその場に立ち尽くして、
すぐに視線をレジに戻した。
……気のせいだ。
そう思って、視線をレジに戻す。
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そのとき。
レジの画面に、ひとつ前の会計履歴が表示されていた。
――時刻は、ついさっき。
――金額も、覚えている。
でも。
その会計の相手の顔だけが、どうしても思い出せない。
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私は、無意識に自動ドアの方を見る。
もう、閉まっているはずなのに。
ガラスの向こうに、
ほんの一瞬だけ、
こちらを見ている気がした。
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その日から、
同じ音が、同じように聞こえたことは一度もなかった。




