スピンオフ 医師井上「言葉にしない借り」
白衣。
書類を見ている。
空気は、静かだった。
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「……正直に申し上げます」
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医師としての声。
感情を抑えた、事実だけの言い方。
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「移植しかありません」
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綾の父の顔が、落ちる。
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「……費用は、3000万前後」
「ドナーも……簡単ではありません」
「時間も、多くはありません」
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沈黙。
現実だけが、置かれる。
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そこで。
井上が、静かに口を開く。
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「……しかし、費用は受領済みです」
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空気が止まる。
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「え、ちょっと」
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戸惑い。
当然。
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「ドナーも、すでに探し始めています」
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「そんな簡単に――」
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井上が、遮る。
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「簡単ではありません」
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静かに。
でも。
一切ブレない。
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「……頼んだ奴がいるからです」
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一瞬。
時間が止まる。
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綾。
「……は?」
「いやいやいや」
「無理でしょ」
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井上。
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「無理ではありません」
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綾。
「いや意味わかんないって」
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井上。
少しだけ、間を置いて。
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「あなたが……困ってる方が困るのだそうです」
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それだけ。
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綾は、言葉を失う。
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少し時間が戻る。
井上総合病院、院長室。
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「井上」
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声。
井上が顔を上げる。
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目が、変わる。
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「……お前か」
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空気が、一瞬で変わる。
昔の空気。
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「久しぶりだな」
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世古。
「そうでもないでしょ」
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井上が、少し笑う。
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(……この空気は、あの時以来か)
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バーの夜。
殴られて、倒れて。
誰もいなくなった中。
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助けに来たのは。
この男だけだった。
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井上、視線を戻す。
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「で、何だ」
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世古。
「頼みがあるんだ」
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井上。
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「言う前から分かる」
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一拍。
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「全力でやる」
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即答。
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世古。
「うん、ありがとう」
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そして。
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「費用は、俺が出すよ」
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井上、少しだけ笑う。
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「……変わってねえな、お前」
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(いや、俺が変わったのか)




