特別編 同じ景色
東京タワーの展望台は、思っていたよりも明るかった。
もっと特別な場所だと思っていたのに、ガラスの向こうに広がる景色は、どこか現実的で、遠くのビルも道路も、ただの延長に見えた。
(……高いだけだ)
綾は、ぼんやりとそう思った。
隣では店長たちがはしゃいでいる。
「ここで写真撮ろうか」
「いいですね、せっかくですし」
明るい声。
軽い空気。
それが、少しだけ遠く感じる。
仕事の延長で来ているだけだから、無理に合わせる必要もない。
そう分かっているのに、どこか居心地が悪かった。
ガラスに手をつく。
東京が広がっている。
なのに、自分の中は、何も変わっていない。
母の体調。
父の借金。
店のこと。
考えようとしなくても、勝手に浮かんでくる。
(……つまらない)
景色のことなのか、自分のことなのか、よく分からなかった。
⸻
「……並んでくださいー」
少し離れたところから、子どもたちの声がした。
規則的な動き。
揃えられた足音。
自然と、そちらを見る。
小学生の列。
その流れの中に、一人、立っている人がいた。
背筋の伸びた男。
急かさない。
でも、遅れさせない。
静かに、流れを整えている。
(……あ)
名前を呼ばなくても分かる。
世古だった。
⸻
世古は、こちらを見ない。
子どもたち一人ひとりに目を配りながら、全体を見ている。
誰かが少し遅れると、言葉をかける前に、さりげなく歩幅を合わせる。
前に出すぎる子がいても、強く止めない。
でも、気づけば列は崩れていない。
(……先生、なんだ)
少しだけ、知らなかった輪郭が見える。
いつもの、静かな人。
でも、今は“動かしている人”。
⸻
「はい、移動しますよ」
丁寧な声が、空気に馴染む。
強くないのに、ちゃんと届く声。
子どもたちが、自然と動き出す。
無理がない。
押し付けもない。
でも、流れは途切れない。
⸻
その瞬間、
ほんの一瞬だけ、
世古の視線が上がる。
綾と、合う。
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何も言わない。
手も振らない。
表情も、ほとんど変わらない。
それでも、
(……気づいてた)
それだけが、伝わる。
⸻
列が動き出す。
世古も、そのまま歩き出す。
すれ違う。
距離は、ほんの一歩分。
言葉をかけるには、短すぎる時間。
⸻
「……お疲れさまです」
落ちるように、静かに届く声。
いつもの、丁寧な口調。
それだけ。
⸻
綾は、立ち止まる。
振り返らない。
振り返らなくても、分かる。
もう、いつもの距離に戻っている。
⸻
ガラスの向こうに、街が広がっている。
さっきと同じ景色。
変わっていない。
何も。
⸻
母のことも、
父のことも、
消えていない。
⸻
それでも——
(……少しだけ)
自分の中に、何かが残っている。
さっきまで、なかったもの。
⸻
「綾さん?」
店長の声がする。
「写真、入ります?」
少しだけ、考える。
断ることもできる。
今までなら、そうしていた。
目立たない場所にいて、終わるのを待つ。
それが、楽だったから。
⸻
(……選ぶ)
ほんの小さく、息を吸う。
「……はい」
⸻
カメラの前に立つ。
隣に人がいる。
笑い声がある。
その中に、自分もいる。
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シャッター音が響く。
一瞬だけ、形になる。
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それが、何かを変えるわけじゃない。
問題が解決するわけでもない。
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それでも——
(……それでいい)
⸻
自動ドアの開く音が、遠くで鳴った気がした。
ここにはないはずの音。
でも、確かに聞こえた。
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同じ音。
同じ景色。
⸻
なのに、
少しだけ、違って見えた。




