ー【第2節】 霧の樹海の境界線で出会った瀕死の黒い毛玉と献身的な看病
第2節 霧の樹海の境界線で出会った瀕死の黒い毛玉と献身的な看病
近づいてみると、それはただのゴミの塊ではなかった。濡れた黒い毛のようなものに覆われた、バスケットボールほどの大きさの丸い物体。ピクリとも動かないが、微かに温かい湯気のようなものが立ち上っている。
「生き物……かな?」
アルスは恐る恐る指先で触れてみた。硬い。でも、奥底に確かな鼓動を感じる。それはまるで、泥の中で息絶えようとしている小さな命の灯火のようだった。
「怪我してるの?」
問いかけても返事はない。よく見ると、黒い毛玉の側面には深い亀裂のような傷があり、そこから紫色の液体が滲み出していた。都市から流れてきた工業廃液の毒にやられたのかもしれない。
このまま放っておけば死ぬ。それは明らかだった。
アルスは迷わなかった。彼自身、誰からも助けられずに生きてきた。だからこそ、目の前で消え入りそうな命を見捨てることはできなかった。彼は小さな体で重い毛玉を抱え上げると、秘密基地にしている岩陰へと運んだ。
「大丈夫だよ。ばあちゃんが言ってた。ドブ川の毒には、星見草の根っこが効くって」
アルスは周囲を見回し、瓦礫の隙間に生えていた青白い小さな草を引き抜いた。本来ならこんな汚染された場所に生える草ではないが、祖母曰く「毒あるところに薬あり」だ。彼は石を使って草の根を懸命にすり潰し、自分の着ていた服の袖を千切って浸した。
「痛いかもしれないけど、我慢してね」
傷口に薬草のエキスを垂らす。ジュウッ、と微かな音がして、黒い毛玉がビクリと震えた。アルスは優しく撫でるようにしながら、一心不乱に看病を続けた。自分の飲み水として持ってきた僅かな水を口元(と思われる場所)に垂らし、冷えないように自分のボロ布を被せる。
日が暮れ、遠くのパイプから蒸気が噴き出す音が響く。アルスは空腹でお腹が鳴ったが、毛玉の側を離れなかった。
「僕もね、一人なんだ」
動かない毛玉に向かって、アルスはぽつりぽつりと語りかけた。いじめられたこと、祖母の病気のこと、本当はもっと綺麗な場所で暮らしたいこと。誰にも言えなかった言葉が、堰を切ったように溢れ出した。
「君も、一人ぼっちだったの?」
その問いかけに答えるように、毛玉の毛並みがふわりと揺れた気がした。
翌日も、その翌日も、アルスは樹海に通い詰めた。なけなしの食料を分け与え、傷口の薬を取り替える。そんな日々が三日ほど続いたある夕暮れ時、奇跡は起きた。
アルスがいつものように薬草を塗ろうとした瞬間、黒い毛玉がカッと目を見開いたのだ。いや、正確には毛玉の表面に巨大な金色の瞳が一つ、現れたというべきか。
『……ほう。人の子か』
頭の中に直接響くような、重厚で深みのある声。アルスは驚きのあまり尻餅をついた。
「しゃ、喋った!?」
『喋る? これは思念伝達だ。……ふむ、我の傷が癒えている。貴様がやったのか?』
アルスはコクコクと頷く。毛玉は金色の瞳でアルスをじっと見つめ、そして呆れたように溜息をついた。
『ただの雑草と泥水で、この我、翠玉の古龍グラン・ヴェルデの呪毒を中和するとはな。……物好きな小僧だ』
「こりゅう……?」
『本来の姿ではないがな。今は魔力が尽きかけの、ただのマリモだ』
自称「マリモ」ことグラン・ヴェルデは、短い触手のようなものを伸ばし、アルスの頭をポンと叩いた。
『礼を言うぞ、小僧。貴様の献身がなければ、我は今頃ヘドロの一部になっていた。……名はなんと言う?』
「アルス……アルス・ロウェル」
『よかろう、アルス。我が恩義に報いよう。望みを言え。金か? 力か? それとも、あの上の階層へ住まわせてやろうか?』
アルスは首を横に振った。そんなものが欲しいわけではなかった。彼が欲しかったのは、もっと根本的なもの。
「教えてほしいんだ。どうやって、その傷を治すのか。どうやって、強い薬を作るのか。……僕、もっと色んなことを知りたい」
マリモは金色の瞳を細めた。
『知識を望むか。……フン、欲のない奴め。だが、悪くない。我が永き時に蓄えた「理」の一端、貴様に授けてやろう』




