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程なくして、黄李は店主の知り合いの印刷会社の事務員の仕事を頂いた。
最初に会社へ社長に挨拶に行った時、古書店の店主が車で送っていった。店主は社長に菓子折りを渡しながら、
「じゃあ、どうぞよろしくお願いします。黄李さん、帰りの道はわかるね?」
そう言って、ぺこぺこ頭を下げながら去っていった。
「はい。送って頂いてありがとうございます」
店主の骨折りに感謝して、大事にしてもらっているのだと自覚した。
事務の仕事は、大方が請求書の処理と、勤怠管理だった。発注、受注の電話も受けて、それなりの忙しさで安定した日々を過ごした。
ビルとは言えない小さなコンクリートの箱の社屋で、あまり友人は出来なかった。他のアルバイトは四十代以上の中年の女性ばかりで、社員はつっけんどんな若い二十代の女性が一人と、他のアルバイトと同じ年頃の中年の男性ばかりだった。
それでも大きな諍いも嫌がらせもなく、安心して仕事をして、五時の定時に上がり、古書店に帰ると奥さんが作った夕飯が待っていて、食べた後部屋で黄李が待っていると、疲れた智弘が黄李のもとに毎日戻ってきた。
奥さんの夕飯は美味な和食で、「ごちそうさまでした」と手を合わせて階段を上がって部屋に入ると安心感を持っていられて、さらに毎夜顔を見られるのが嬉しい智弘を思い、百合の香りのような幸せに包まれた。
7月になった。智弘は朝から仕事だけれど、日曜日のこの日、黄李は休日だった。朝食の後片付けをする奥さんを手伝って、皿を戸棚にしまっていった。
「黄李ちゃん」
奥さんに呼ばれて、黄李は振り返った。
「なんですか? 奥さん」
「それ終わったら、球根を庭に植えてくれる? そのままになっている花壇があるからその土の中にリコリスの球根を植えてほしい」
「リコリス?」
「そう。赤い花の植物。ほら。このビニールの中身を土の中に植えてきてほしい。黄李ちゃん、器用だし」
奥さんは中身の入ったビニール袋でテーブルの上をとんとんと叩くようにして示した。
「分かりました。早速やってきますね」
黄李は袋を受け取った。
黄李は縁側から庭に出た。庭の隅にスコップが入ったバケツが置いてあるので、それを取って何も植えられていない花壇のそばに立った。しゃがみこんで、土を掘る。掘ったところに球根をぎゅっと詰めていく。
スコップが何かぐにゅっとしたものにあたった。スコップの先で拾い上げてみると、カブトムシの幼虫か何かだった。
黄李は気持ち悪いとは思わなかった。そのぐにゅぐにゅした生命に目が吸い寄せられるように見つめた。目の高さまで左手で持ち上げて、そのまま手の中で潰した。
ぐしゃっと黒い汁が出た。
何かが記憶の底から這い上がってくる。
あの日。黄李が三歳くらいの時だろうか。幼すぎて今まで忘れていたあの足首の痛み。
黄李は店の敷地内の地面でアリの巣の周りのアリを指でにじり殺して遊んでいた。上から影がかぶさった。振り向くと、父がそこにいた。頭を叩かれてから、お仕置きだと言われ、手を取って引きずられるようにして、店の陰の樹木の前まで来た。他人からも敷地の外からも見えない場所だ。横の物置を開けて、父はロープを引っ張り出して、黄李の片足首に結んだ。それからロープのもう一方を高い場所にある木の枝に吊るして、黄李を逆さづりにして放置した。
頭痛と苦痛から黄李は泣き叫んだ。でも、なかなか誰も助けにこなかった。いつ、その仕置きが済んで、宙づりから解放されたのか、そこは記憶にない。
再び蘇った辛い記憶に、黄李はまた頭痛を患いながら、奥さんから頼まれた用事を済ませた。潰れた幼虫はまた埋めた。もう成虫にはなれない。
庭の水道で手を洗って、スコップを元に置いた。
天気が良くて照り付けるようだ。めまいがして早く屋内に引っ込んだ。それなのに、そのめまいに後ろ髪を引かれるように、渦を巻くような視界の中に吸い込まれて台無しになりたいように、日の強い場所に倒れるまで佇んでやりたいような壊れたような自分の精神があった。
何かを望む、強く求める快楽だった。
ぽーっと頬を赤く上気させながら、縁側の下のサンダルを揃えた。
女であることが惨めに思えた。
その晩、黄李と智弘は行為に耽った。黄李と奥さんが倉庫の掃除をしている時に、二階の音はほとんど一階に聞こえないことが確認済みだったので、安心していた。
智弘は黄李の指の先から首筋までいたるところにキスをして、手のひらでまさぐった。唇と唇が触れ合うキスをして、黄李は智弘の耳たぶを噛んだ。甘く、熱かった。
智弘は優しかった。
黄李は物足りなくて、焦れても焦れても、満足しなかった。
――つまらない。
仕事も慣れ切っていた。肉欲以外に、この衝動をかき消すものが見当たらなかった。
翌日、黄李の職場に、新入社員が入ってきた。
「瀬戸内創です。よろしくお願いします」
背の高い、色白な男性で、紺のシャツと紺のネクタイ。白のスラックスを身に着けていた。目じりが流れるような切れ長の瞳だった。鼻が高い。
「浅田さん」
黄李は課長に呼ばれた。
「はい」
「あの、新入社員ちょっと訳ありでさ。大した仕事させるつもりないから、浅田さん、面倒見て手伝いさせてよ」
「私、アルバイトですけれどいいんですか?」
「うん。いいからいいから」
瀬戸内創は、黄李の隣にデスクを作ってもらった。しかしパソコンも装備されておらず、黄李の隣で黄李の指示を待ってばかりいる。
黄李の方も、人に回せるほど仕事は溜まってはいない。
「瀬戸内さん。発注の電話の見本をみせますので、聞いていて下さい」
「はい」
「瀬戸内さん。コピー三部取ってきてください」
「はい」
黄李は、黄李に適当に使われるだけで一日が過ぎていく瀬戸内が気の毒に思え始めた。8月の初めの昼休みに、黄李はメロンパンを齧っていた。
「浅田さん、昼食それだけですか?」
瀬戸内に聞かれた。
「はい」
瀬戸内は自分が持ってきた木目が美しいわっぱの弁当箱の蓋に、中身の和風のミートボールを二つ載せて黄李に差し出した。
「割りばし取ってきますね。給湯室にあったと思うので」
瀬戸内創は、優しくてつかみどころがない。そして頭もよさそうというのが、黄李の印象だった。
瀬戸内が戻ってきた。
「タンパク質取らないと元気出ませんよ」
「ありがとうございます」
「いつもはお弁当なのに」
「今日は、いつも作ってくれている人が、夏風邪ひいてダウンしちゃいまして」
「それってお母さまではないのですか?」
「はい。ちょっと事情があって」
「そうですか」
「前から気になっていたんですけれど、瀬戸内さん東大出身ですよね?」
「なんでご存知なんですか?」
「課長のデスクに無造作に置いてあったから。履歴書が」
「はい」
「どうして、ここに転職してきたんですか?」
「前の仕事はそれなりの職場ではあったんですが、尊敬している上司がいたんですけれど、考え方の相違があって辞めてしまいました。もう居られない気分だったので」
「そうですか。大変だったのですね」
黄李はミートボールを食べた。
「美味しい!」
「それは良かったです」
瀬戸内は目を細めて笑った。笑うと瀬戸内は可愛い。
「手作りなんですよ」
黄李は二つのミートボールを平らげて、本当に元気が出たような気がした。
家に帰ると、奥さんは畳の間の寝室で布団を被って寝ていた。
「奥さん」
黄李は声を掛けた。
「あ、黄李ちゃん。ごめんね。心配かけて」
「ポカリスエット買ってきました。今飲みます?」
「うん。そこ置いておいて」
「あと、晩御飯、おかゆとうどん、どっちがいいですか?」
「何も作らなくていいから。黄李ちゃんと智弘君は、外食でもしておいで。うちの人も今日はそのつもりで遅くまで帰らないって言っているから」
「でも……、奥さんお腹空きませんか?」
「食べる気しないから。心配しないで。智弘君いっつもこき使ってるんだから、美味しいもの食べにいっておいで」
「わかりました」
黄李は二階に上がった。智弘は、今日は店番がない日だ。
「智弘」
黄李はいきなり引き戸を開けた。
「わっ。びっくりした」
智弘は横向けに寝転がったままテレビを見ていた。
「休みの日のお父さんみたいな格好」
「悪かったな」
「奥さんが、夕食は外に食べにいっといでって。行こうよ」
「うん。ちょっとましな服に着替える」
智弘は押入れを開けて、中のカラーボックスから服を引っ張り出して着替え始めた。
「久しぶりだな。外食なんて」
「うん」
黄李は着替え終わった智弘の鼻に、背伸びをしながらキスをした。
「くすぐったいって」
「智弘」
急に背後から店主の声がして、二人とも飛び上がって、引き戸の方を見た。
引き戸は開いているが、そこに店主はいない。階段下から呼ばれたようだ。
「今、行きます」
智弘は急いで階下に行った。
黄李も緊張が抜けきらないうちに後に続いた。
「はい。これでなんか食べてこい」
店主は三千円を智弘に差し出した。
「いいんですか?」
「ああ、賄付きの約束だったからな」
「ありがとうございます。じゃあ、行ってきます」
黄李も店主に会釈をして外に出た。
血の色を薄めて広げたような、濃い橙の夕焼けの誰そ彼時だった。
天ぷら屋に入った。智弘は天丼とうどんのセット。黄李は野菜天丼を頼んだ。無邪気な智弘に、蓮根の天ぷらを取られて、
「ひどーい。代わりに海老ちょうだいよ」
「蓮根の代わりに海老は無いだろ」
などと、ひとしきりじゃれあった。
からりと揚がった天ぷらは美味しかった。
お腹がいっぱいになると、眠くなった。天ぷら屋で眠気を感じた時、ふと、瀬戸内からもらったミートボールの味と形を思い出した。
――美味しかったなー。
と、そっと目を閉じて、眠気を振り払うように目を開けた。智弘が連日の暑さと疲れのせいか、頬杖を突いてうとうとしていた。
その顔を見て、愛おしさとともに、自分の子供が邪魔で仕方がなくなる母親にも似た疎ましさを少し感じた。
黄李は、実際に母になったことはないのに、
――ああ、これが母というものの感情か。
と、勝手に納得した。それくらい、黄李の感情と感覚は、「母」というものにそぐわしいと黄李が思い込んでしまうような何らかの一般的で容易いものを持っていた。
二人は手を繋いで帰った。
黄李の胸中は、また愛情で膨らんだ。
帰ってきたら、風呂が沸いていた。店主の後に、二人は順番に入った。湯を浴びた後、二人は、一つの床の中で身を寄せて、暑い夏の日なのに互いの人肌で心地よく温まりながら目を閉じて掛布団に顔を埋めた。
二人で一緒にいる中で目を閉じれば、そこは遊園地のように心躍り、それでいて子供のように安らぐ、そんな空間だった。




