嘘、本当に嘘
サクヤは死んではいなかった。
時々俺は不安になることがある。
彼女の隣にいるのは、俺なんかでいいのだろうか。
病院のソファの上で、握りしめたまま持ってきてしまったグレーの指輪ケースを見つめて呆然とする。
「特別な存在に……か」
初日の出は、見ることができなかった。
一月一日の日が昇ったら、生きてることを喜ぶ。そう言った彼女の言葉が、胸の中で響き続けた。
なんで自分の大切なヒトばかりがこんな目に遭わなければならないんだ。そう頭を抱えた。
一日の日が沈む頃。
いや、もしかしたらその日は既に二日のものだったかもしれないし、三日のものっだったかもしれない。今がいつなのかわからない。それくらい漠然と時間を過ごした。
俺は、意識の戻ったサクヤに面会することができた。
「よ、あっくん。しょぼくれてんね」
と、快活に挨拶をされる。
俺は何も言えなかった。こんな状況でも自分の感情を隠して、彼女のために明るく振る舞いたかった。
黙って、手を取った。
ちゃんと彼女が生きている実感がある。
「あーあ、残念だな」
「……」
「私、歩けなくなっちゃったみたい」
「……聞いたよ」
誰に聞いたのだったか、よく思い出せなかった。
脊椎近くをナイフで刺された彼女は、神経が損傷し、下半身を動かせなくなってしまった。そういう話を聞いたという情報が頭の中にある。
空気で、気を使わせてしまっているのが分かる。
本当に悲しいのは彼女のはずなのに。なんと声を掛ければ彼女の心が少しでも救われるのか、全く分からない。
「あのさ」
と、できるだけ淡泊に装われた声でサクヤが言った。
反射的に「やめろ」と声に出していた。
彼女がどうしたら救われるのかは分からないのに、彼女がこれから何を言おうとしているのかは分かってしまった。
そんな気の遣われ方はしたくない。
「ねえ、聞いてよ」
「聞きたくない」
「大事な話なの」
「俺は……」
真っ直ぐに目が合う。
ああ、とのどの奥で悲しみの塊が嘆いた。
「私たち、別れよう」
言われた瞬間、彼女が手の届かないほど遠くへ行ってしまったように感じた。握りしめたサクヤの手の体温に現実味がなくなってゆく。
終わり、という現象を象徴したような感覚を味わっている気がした。
終わってしまう。彼女との関係が、大切なものが。少しずつ、海の潮のように引いてゆく。この自然の摂理に身を任せてすべてを終わらせるしかないのかと諦めかけた。
そのとき。真っ直ぐに俺を見つめる彼女の唇が、ほんのわずかに震えていることに気が付いた。
ああ、と心が踏み留まる。
また俺は間違いに気付いてしまった。
いったいなにをしているんだ?
俺は信じなければいけないはずだ。
俺たちの関係は、決して一方通行ではなかった。俺が彼女を大切に思うのと同じくらい、彼女が俺のことを大切に思ってくれていると信じなければいけなかった。それが誠心誠意、築いてゆく人間関係のはずなんだ。
彼女はその言葉を。
別れようという言葉を。
決して軽い気持ちで言ったわけじゃない。嘘を付くのが苦手なことをよく知っている。本当にその選択が正しいんだと信じて言ったはずだ。
だけど、理性と感情は別物だ。
理性ではきっと、俺のために、自分が負担にならないように、「別れよう」と言ってくれた。だけど、感情は、俺に否定してほしいはずだ。自分の言った言葉を。
「いやだ」
「いやだ、って」
想像以上に自分の口から出た言葉がシンプルで驚いた。恥ずかしいくらいシンプルだ。けどおかげで、少し冷静になれた。
これから人生で一番大きな嘘を吐かなければいけない。
決してばれてはいけない嘘だ。
道化師のように、完全に相手を騙す。
なんの為にか。そんなの決まっている。
「サクヤ」
「ん」
「もうずっと前からそう決めていた」
嘘。
俺には自信もなかったし、覚悟もなかった。
今だって、何もない。
「俺はサクヤのことを愛してる」
「違うよ、あっくんが好きなのはもっと元気な私でしょ」
「そんなことない」
いつか彼女は、「理由っていうのは、大抵のことにはあるんだよ。ただ知らないヒトが多いだけで」と言った。だけど俺は、今回だけは理由はいらないと思った。
「理由なんてどうでもいい、なくてもいい。ただそれだけなんだ」
もう一度繰り返した。「俺はサクヤのことを愛してる」と。
「そんなこと、ただ勢いで言ってるだけだよ。あっくんは今の私に同情してそういう気持ちになっているだけ」
その指摘は、もしかしたら正しいのかもしれない。
昨日までの俺には、まだこんなことを言う覚悟どころか、想像すらしたことはなかった。
だからこれは嘘なんだ。それでも、今しか言うことのできない嘘だ。いまを逃したら、俺たちはたぶん、本当に別れることになる。それがどうしても嫌だと、思った。
だから俺は、たったひとつの箱にすべてを賭ける。
ポケットの中から、グレーの指輪ケースを取りだした。
俺の期待通りならば、中には指輪が入っているはずだ。
それはきっと、俺の嘘を本物にしてくれる。
もともとの持ち主に、申し訳ない気持ちが生まれる。本当は、これは、俺なんかが勝手に開けて誰かに渡していいものじゃない。だけど、今だけは、同じ裏野ハイツの203号室に住んだよしみで許してもらいたい。
「ずっと前からそうしようと決めていたんだ。サクヤ」
ケースを閉じたまま彼女の手のひらの上に置いた。彼女は目を見開いて息を飲んだ。まさかそんなものがこのタイミングで用意されているとは思わなかったのだろう。俺だってそうだ。それがこの場所にあるのは、ただの奇跡的な偶然のおかげだ。けれど、今この嘘を完遂するためなら、何だって使う。彼女に俺の言葉を信じさせなければいけない。
「結婚しよう」
様々なプロポーズの文句がよぎったが、どれも無粋な気がして、飾りをすべて捨てて言った。
今この瞬間に。
この気持ちがあることだけは嘘ではなかった。
もうサクヤの瞳孔や、唇の震えから感情を読みとることはできなかった。彼女の指がケースのふたにかかる。
俺の神経はその中身だけに集中していた。
ケースが開くと、金に近い色の光が反射して見えた。
「なんで」
とサクヤが言った。
少しだけ瞳が潤んでいる。
そして。
「ふふっ」
と少しだけ笑った。何かが溶きほぐれたような笑い声だった。
「なんで知ってるの? それにこれ……」
そこにあるのは、こんな場所にあるはずのないもの。
「あっくん。そらに話、聞いてたの?」
とサクヤが言う。
「いや、違う。実は見てたんだ。あの日」
何が起きているのかよくわからなくて、半分くらい無意識でそう返した。
そこにあったのは。
裏野ハイツの203号室に起き去られていたはずのそれは、かつて、俺の友達だった有泉そらと、横根朔夜が作った、ヴェルタースオリジナル入りの指輪ケースだった。




